【能登よ のと ―おかあさん(1、2)】 伊神権太=随時掲載

1.
 能登半島の七尾湾に面した七尾市。それまでこの町の居酒屋の室内一隅でいつものように何ごともないように静かに座っていた一匹の野良ちゃん、黒白まだらの能登猫が突然、猛烈な勢いで気が狂ったかの如く客席を何度も走り回ったあげく、何かを訴えるように海に向かって走り去った。石川県能登半島は七尾の駅近くに居酒屋やすし店などが立ち並ぶ七尾の銀座街。その店での思いもかけない出来事、1件である。
 わたくしは、あの時の猫の緊迫した表情を決して忘れはしない。みんなに可愛がられていたその猫は、そのまま居酒屋からニャンニャンと泣きながら消え去ったのである。1993年(平成5年)2月7日午後10時27分、能登半島沖地震が起きる、まさに寸前の話しだ。わたくしは、走り去る前のあの猫の、やさしさに満ちあふれた穏やかな両の目を、いまだに忘れられない。
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 おかあさん。おかあさん。おかあさぁ~ん――と。私は空に向かって毎日、何度も呼ぶことにしている。「元気でいますか。俺たちは皆、元気だよ」と。
 おかあさんは、時にはおふくろだったり、妻の舞・たつ江だったりする。
「俺たち、みな元気でいるから。心配しないで。どしとん」とも。
 
 きょうは2025年1月13日である。マグニチュード7・6、最大震度7の能登半島地震が昨年の元日午後4時10分に起き、1年が過ぎた。この間、能登の人々の心は、どんなにか傷つき、裂かれ、折れそうになったことか。その悲しみ、悔しさを思う時、かつて新聞記者として家族もろとも能登の七尾に7年間、住んだことがある私自身も何度か心が折れそうになったのである。いや、時には折れたかもしれない。

 ところは、ここ濃尾平野は木曽川河畔に広がる愛知県江南市である。私は、赤信号の信号待ちで車を止め、きょうも青い空に目をやる。2021年秋に病で、ひと足早く逝ってしまった妻の舞(たつ江)、そして昨年秋、そのおかあさんのあとを追うように車に轢かれてしまい、後を追って天に召された、真っ白な姿がとても優雅でかわいかった愛猫、俳句猫だったシロちゃん(俳号「白」。本名はオーロラレインボー。名付け親は、俳号が舞。名前は私がつけた)は、今はこの空の一体全体どこらあたりにいるのだろうか。
 私は、そんなことを思い、いつものように恥ずかしげもなく、「まい。舞。た・つ・江。元気でいるか。シロ、白。おかあさんを頼むよ」と呼びかけるのである。シロが単なる交通事故で死んだのか。それとも自ら通行車両に身を投げて自殺したのか。この点については分からない。とはいえ、轢いてしまった人物には「私が轢き殺してしまいました」とせめて名乗り出て、一言でよいから謝ってほしく思ってはいるのだが…。

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1🎵能登の海山 空に散り/涙を集めた 禄剛崎(ろっこうさき)よ/凍え千切れた この街だけど/きっと咲くだろ 雪割草よ/雪割草は 幸せの花/明日は輝く 朝が来る
2愛する人を 呼ぶ声も/無情な風に 消えるけど/キリコ いしるに 輪島の塗りよ/忘れはしないさ ふるさと能登は/ひとみ閉じれば まぶたに浮かぶ/御陣乗太鼓の みだれ打ち
3昨日も今日も いつの日も/あなたの笑顔が ここにある/海女の磯笛 かもめの唄よ/和倉 朝市 一本杉が/強く生きてと ささやきかける/能登はやさしや どこまでも どこまでも=能登半島地震復興応援歌【能登の明かり(作詞・伊神権太、作曲・牧すすむ、編曲・安本保秋、歌・岡ゆう子】より

 尾張名古屋は愛知県江南市内の自宅居間の一室。けさも食卓の一隅に置かれた私のスマホ・ユーチューブから岡ゆう子さんのあの、一言ひと言をかみしめ、能登半島そのものを励ましてくれるような、そんな哀愁を漂わせた絶唱が聴こえてくる。わたくしには、かつて家族もろとも能登半島の石川県七尾市に住んでいたころのことが懐かしく思い出され、一緒に歌ううち声が涙ごえになってしまう。声にならないまま<能登はやさしや どこまでも……>と流れてくる彼女の声を耳に、なぜか泣き崩れる自身を感じている。歌詞の最後の部分は能登に伝わるこの地ならでは、のことば【能登はやさしや 土までも】から取ったのである。この「土」は、好きな男が出来たら、自身の腹を「槌(つち)でたたきわり堕胎してでも、どこまでも男についてくる、そんなおとろしい「槌」でもあるのである。
 かつて友人の詩人長谷川龍生さん(元大阪文学学校校長)と能登半島を巡った際に土地の人々に教えられた言葉だが、実際、奥能登のある神社には、その【槌】が神前にぶら下げられていたのである。どこまでもやさしい能登の女性の代名詞といってもよく、その分、この土地はおっとろしいほどに人々の心という心は清らかなのである。

 そういえば、地震といえば、だ。もはや、はるかかなた昔の話だが。私が新聞社の七尾支局長でいたころ、平成5年2月7日にも能登半島突端の珠洲市を中心に、あの時は能登半島沖地震と言う名の地震(マグニチュード6.6)が発生。翌早朝、愛車でヒビ割れた雪道を避けながら能登半島突端部の現地に1日がかりで急行。七尾支局長だった私自身が現地取材キャップとして珠洲通信部近くの民間の空き地に現地記者らと緊急のテントを張って取材基地を開設。地元能登半島に点在する半島記者たちはむろんのこと、北陸本社報道部にも記者とカメラマンの応援を随時、要請して求め、そのまま10日間ほど現地キャップとして取材の指揮をとったことがある。
 あの時は地震が起きた当夜、たまたま短歌の取材を兼ね七尾駅近く七尾銀座の居酒屋「知床(しれとこ)で当時、石川県歌人協会の役員でもあった故松谷繁次さん(後に同会長。当時は短歌雑誌「凍原」=現「澪」の前身=主宰)、そして私の妻たつ江の歌人仲間だった山崎国枝子さん(現「澪」代表)らと談笑していた私は突然の大きな揺れに泡を食い、取るものもとりあえず翌早朝、あちらこちらひび割れた道路をものともせず愛車を走らせ、なんとか能登半島突端の珠洲通信部まで急行。近くの空き地にテントを張っての取材基地を設け、現地キャップとして10日間ほど取材の指揮をとったことがある。
 確か珠洲市一円で液状化現象が激しく、市内の至る所が噴出する泥水にまみれて水浸し状態で、歩くに歩けなかった。そんなことを覚えている。いらい能登半島では私が七尾支局を去って以降も忘れたころに大きな地震がしばしば発生するといった、そんな恐怖の繰り返しがこれまで再三、続いてきたのである。かつて私が駆け出し記者として長野県の松本支局にいたころ、当時、延々と続いた松代群発地震をなぜか思い出させる、そんな強烈な地震でもあった。

 それにしても、昨年の元日、能登半島西方沖から佐渡島西方沖にかけて延びる活断層を震源に午後4時10分に発生したマグニチュード7・6、最大震度7に及んだ今回の能登半島地震は輪島の朝市が焼失する一方で能登全域で全壊、半壊家屋が相次ぐなか、孤立集落も続出するなど被害は、とてつもなく大きなもので私が在職当時の地震とは比較にならない。具体的には死者489人(うち災害関連死は261人)、全壊家屋6445棟、半壊家屋2万2823棟、一部破損家屋も10万3768棟=いずれも2024年12月24日時点=と、その被害は限りなく広く深く、多岐に及んでいるのである。
 
 時は流れ。
 2025年が明けた。蛇、へび、ことしは脱皮が繰り返される巳年である。蛇といえば、だ。なぜか、あの【能登の夢】の作詞者で七尾、すなわち能登をひたすら愛し続けた今は亡き俳優森繁久彌さんのことが思い出される。と同時に、あのころ父親の〝森繁さん〟といつも一緒だった、あのどこまでも気のいい息子の泉さん(故人。当時全国少年少女ヨット協会代表)によく冗談で言われたことが忘れられない。彼は私に向かってこう言ったのである。
「私のオヤジである森繁久彌とあなた、すなわち〝ごんさん〟のイッコクなところ、とてもよく似ている。面白いくらいだ。さて? オヤジがマングースなら。ごんさん、あなたはハブかな。いや、もしかしたら、まむしかもしれない。反対かな。図星でしょ。ふたりとも噛みついたら離さないほど執念深いのだから。困った人なのよ。ネッ、ごんさん」と、だ。
 事実、当時、森繁さん親子の愛艇だったクルーザー「メイキッス」号が北回り日本一周の途次に七尾湾に滞在した時などに愛艇の船内で私に向かって冗談めかしてよく言われたものである。

 話は、今から37、8年前。森繁さんが自家用クルーザー【メイキッス号】で息子の泉さんやその土地にゆかりの名優を従え、北回りで日本一周旅行中、和倉温泉で知られる七尾湾に立ち寄った時に遡る。泉さんは誇り高き父親森繁さんと歌舞伎の【いがみの権太】ならぬ私、伊神ごん(当時の私のペンネーム)との丁々発止のやりとりに心底臆することなく「このふたりは、話し出すと少しだけ怖くなり、一体全体どうなってしまうのか」と心配してくれたものだが、そのすこぶる気のいい泉さんはもはや、この世の人ではない。この世には生存しないことも、また事実なのである。

 空には、きょうも雲ひとつない。青空が広がっている。その懐かしき、私たち家族にとっては、ふるさと同然だった能登。能登半島がいま地震と豪雨水害というダブルパンチを浴び、傷だらけになって苦しんでいるのである。どの人もこの人も、だ。気のいいやさしさあふれる能登の人たちに一体全体、何の罪があるのだ。恨みがあろう。何か悪いことでもした、というのか。「ほいでなあ。あのなあ」「ほやわいね」「そやそや」と独特のやさしさあふれる口調、言い回しで皆、けなげに、かつ正直に毎日を生きているというのに、だ。というわけで、わたくしはあらためてユーチューブで、森繁さんの【能登の夢】をしみじみと聞き、続いて、ここ能登の海で古くから地元の人々によって歌われてきた【能登の海鳥】にも耳を傾けるのである。この歌は、岸壁の母で知られる、あの二葉百合子さんも彼女ならでは、の名調子で時折、うたっている。

 そして。2025年の1月10日。木曽川下流沿いに広がる濃尾平野の朝が清々しく明けた。スイトピアタワーも木曽川も、濃尾平野も一面が雪の原である。
 わたくし(伊神権太)は、初雪となった白い雪を踏みしめながら、つくづく思う。
―きょうの能登の朝は、どんなだろうか、と。と同時に、かつて七尾在任時に連日、白い雪が降り注ぎ、支局入り口駐車場部分を長い氷柱(つらら)とともに雪の塊が覆い尽くしていた、そんな日々が懐かしく思い起こされるのである。七尾市中心部を流れる御祓川近く。伝統の和ろうそく屋さんにお菓子屋さん、蕎麦屋さんに印刷屋さん、着物屋さん、靴屋に電気屋、金物店、当時まだ若かった私がこだわって通った美容院。ほかに白い土蔵が目立つ古い家並みが立ち並んでいる。それこそ、この町ならでは、の落ち着いた佇まいと風格がなつかしさを感じさせる【一本杉通り】には能登半島を束ねる新聞社の奥行きの長い七尾支局が通りに面して立ち、人々はその白い雪を踏みしめ、踏みしめ歩いていたのである。裏手には小丸山公園もあり、まだヨチヨチ歩きだった末っ子が若い支局員に手を引かれ、山まで上り下りし、そうした支局員のやさしさに感激したものでもある。あれから何年がたつのか。

 こうした何もかもがやさしさに満ち満ちていた七尾。その独特の風土の中、妻たつ江は積雪続きに当然のように末っ子を背負い、支局入り口・玄関部分に溜まった雪を連日、雪かきでかいていたのである。来る日も来る日も、だ。支局員や来客が訪れる前までには除雪しておかなければ、というのが彼女のひとつの目安でもあった。末っ子がまだふたつか、みっつのころの話だ。

 ところで、きょうは時代も人々も代わり、尾張名古屋は江南市の令和7年1月の朝である。
「おかあさん、おふくろ。おはよう」
わたくしは自宅居間の妻と母の遺影に向かって、こう呼びかける。そして。昨年秋、ここ数年の間に相次いで旅立った妻とおふくろの後を追いかけるように、こんどは車に轢かれて急死し旅立ってしまった愛猫シロ(オーロラレインボー)の遺影に向かっても、こう呼びかけるのである。シロよ。シロ。シロ。シロちゃん、お空の天国である天の川で元気でいるか? おかあさんも元気でいますか-とだ。

 これより先。令和7年の1月9日朝。わたくしは、ここ尾張は木曽川河畔の街、江南市の花霞で、この物語をこうして書き始めている。心の底にいつも潜んでいる無冠の大作家太宰治。私にとっては、あの立原正秋とは筆致こそ違うが、めったにいないライバルである。あの治子さんの大切な父でもある太宰。彼のふるさと青森の五所川原市。そこは、この冬、大変に深い雪のようである。町も、城も、リンゴ畑も。皆がみなだ。白一面に覆われ、埋もれているのだという。
 午後1時過ぎ。私はハンドルを手に昨年秋に自分が作詞し、かけがえなき友である牧すすむさんの作曲、そして輪島市門前の自宅が全壊してなお編曲に尽くしてくださった安本保秋さんらの情熱と協力で誕生した能登半島地震の復興応援歌【能登の明かり】を聞きながら空の碧というアオに向かって思い切って話しかけてみる。
「たつ江。まい(舞)。俺たちは、まだまだこれから。これからなのだよ。おまえと俺の人生は。これから。これからなのだ。俺たちは生きている。これから始まるのだ。バカにしたいやつらがいたなら、それはそれで、そうすればよい。ともかく、俺とおまえ、そしてシロはいつだってみんな一緒。実在と幻の世界に生きる不思議な俺たちだが。どちらも永遠不滅なのだよ。シロちゃんも、だよ」
 私を知らない他人が聞いたら、それこそあきれ果ててしまうに違いない。そんなような会話を胸に、わたくしはまたしても確かに天に向かって繰り返し言うのである。「おまえは、どうして逝ってしまったのだよ。シロもだよ。なぜだ。なぜなのだ」と、である。

 そして。私は、またしても空の扉に口を開いて、こう叫ぶのである。
「能登の笹谷さん(私が七尾在任当時の販売店主の名前。当時、ここには女傑店主として天下に広く知られた笹谷輝子さんがおいでた)の若主人ノリさんと若奥さん、それにこちら(尾張名古屋)に戻ってからずっと文芸仲間として何かと大変お世話になっている【わがふるさとは平野金物店】の内藤洋子さん(エッセイスト)、さらに弟さんでドラゴンズの名手だった人格者の平野謙ちゃん。ほかにおまえが生前、大変お世話になった治子さん。社交ダンスの若先生、こちらの地域社会では歌のおばさんで知られる〝とし子さん〟、さらにはおまえのお兄さんも、だ。みんな。み~んな。皆さん元気でおいでだよ」

 私の言葉はさらに続く。
「でも。とても残念なことに俺たちがかつて世話になった能登は昨年の正月元日に起きた能登半島地震で大変なことになっている。珠洲、輪島、門前、能登、志賀町、穴水、七尾、能登島、羽咋……が、だ。木っ端みじんとなり、大変なことになってしまった。でも、おまえが大変お世話になった笹谷さんも。山崎さんも。仏壇店の南さん、和倉の女将さんたち、ママさんソフトのおばちゃんたちも、だ。みな元気だから。確認したよ。
 それから。和倉温泉といえば、だ。和潮(かつしお)の女将同様、大変お世話になった岡田屋マリちゃん、そして何度もおせわになった七尾の老舗旅館・さたみやさん、和倉の田尻さん、七尾花正の今井さん(ふたりとも元七尾青年会議所理事長)…とみ~んな元気でおいでだ。さたみやさんはあの風格ある建物を解体してしまったそうだが…。なんということなのだ。みんな大変なのだよ」
 私は舞とシロの遺影に向かってさらに叫ぶように話しかけた。涙がとめどなくあふれる。でも、いまさらどうするわけにもいかないのも事実だ。泣き言ばかりを言っていて、これからどうせよ―というのだ。月日は無言のまま過ぎ去っていく。でも、これ以上、地震には襲われたくない。何より、生きていかなければ。みんなで助け合って、元気でたくましく生きてゆくことなのだ。

2.
 2025年2月6日朝。木曜日である。
 尾張名古屋の空は、どこまでも晴れわたっている。粉雪が薄い透明な氷となって路面に白く張り付いている。寒い。私は道路全体が白いシートにおおわれたような薄い雪景色を目の前に、津軽の雪はどんなだろうか、と思いをめぐらす。こな雪。つぶ雪。わた雪。みず雪。かた雪。ざらめ雪。こおり雪。太宰の小説「津軽」に言う7種類の雪なら、どれがあてはまるのだろうか。

「もうダメ。だめよ。だめだったら」という舞の声が、路面で逆上がりでもするように迫ってくる。だめよ。だめっ。だめだったらぁ。もう。イヤっ。だってば~。やめて」と、半分笑顔の舞の顔が目の前に迫った。
「やめて。やめてよ。雪さん、雪さん。もうこれ以上、降るのはやめてよね」と真剣な表情で雪たちに話しかけていたあの頃の彼女の表情が目の前に浮かんだ。もう、ずっと前。はるか昔の話しになるのだが。私たち家族は能登の七尾で7年間を過ごしたのである。

 朝。ここ尾張名古屋でも風たちがヒューヒューっと鳴っている。もっと寒い能登の朝はどんなだろうか。ラジオから「日本列島には今季最大の寒波が訪れています。日本海側を中心に広い範囲で大雪になっています」とアナウンサーの声が流れてくる。妻と愛猫シロに先立たれてしまった私はけさも二階ベランダのガラス窓を開けるや、大空に向かって「シロちゃん。まい(たつ江)。おふくろ。こっちは大寒波なんだってよ」とたつ江が生前、いつも手にしていた小型ラジオを傍らに話しかける。
 空からハラホロと落ちてくる白い雪がひとひらひとひら、まるで生きもののように私の目に、鼻に、口に-と降り注いで舞い込んでくるのである。
「どしたん。元気? あんたは、いつだって弱っちぃんだから。そんなことでどうして生きてゆけんだよ。だめよ。そんなんじゃあ。あたしとシロちゃんの分までまだまだ楽しく過ごしてくれなきゃあ。あたし、安心しておれないじゃないの」
 あの志摩や能登など行く先々で聞かされた甘い、鈴をならすような声が雪片と一緒に顔いっぱいに次から次に、顔に突き刺さって飛び込んでくる。それにつけても、俺はいま、どこでどうしているのだろう。一体全体、何をしているのか。俺は彼女なしでこれから。どうして生きていったらよいのか。愛する妻もシロちゃんも、もはやこの世には居ないのに、だ。私はそんなことを思い描きながらも「それよりも。おまえも、シロちゃんも天国に少しは、なれたか。元気で幸せに過ごすのだよ」と言葉を付け足す。

 早いもので令和も六年が過ぎ去った。きょうは令和7年2月6日である。朝。いつものように二階ベランダに立ち空を仰ぐと、そこでは先ほど来の雪たちが私の顔に向かって我先に、とばかり降り注いでくる。白い雪の花たち。雪の精がひとひらひとひら、ヒラヒラと天から舞い落ちてくる。私は、その雪の花々の中に舞とシロの魂が生きていると思うと、無情なこの世の宿命のごときものを感じ、またしてもささやきかけるのである。
「舞よ、マイ、そしてシロちゃん。おまえたちは一体全体、今は、どこでどうしているのか。おまえたちはこの大気のなかのどこに潜んでいるのか。元気でいるか」とである。

 そして。それとは別に、だ。私は「おはよう。おはよう」ときょうも空に向かって話しかけ、舞とシロに向かって呼びかける。「元気でいるか。元気でいろよ。俺たち、残された家族は幸い、皆げんきでいるから。ナ。心配しないでいいよ」と、だ。
 ところで。わたくしには毎朝、この地上から見る空の色が気になる。カラリと晴れていれば「よかったね。元気でいてよ」とナンダカその分だけ幸せに包まれたような。そんな気持ちになる。「たつ江(伊神舞子の本名)、たつ江。おふくろ。シロちゃん。元気でいるか」と、である。他人が聞けばおそらく誰もが「いつまでも。未練たらしい。見苦しい」と笑ってしまうかもしれない。いやいや、現に人は笑っているに違いない。

 こんなわけで私は毎朝、今は亡き妻の舞(たつ江。伊神舞子)=2021年10月15日子宮がんで病没=と愛猫シロ=2024年10月21日。何者かの車に自宅近くで轢かれ謎の死。俳句猫「白」。本名オーロラレインボー=、そして舞が逝った翌年2021年5月16日に満百二歳の誕生日(6月1日)を直前に天国に召されてしまった母(千代子)に向かっても、だ。私はこう、呼びかける。「まい。おふくろ。元気でいるか」「シロも元気か。俺はなんとか、こうして生きている。こっちの方は残された家族皆がそれぞれ元気でやっているから。安心していい。それより、そっちでちゃんと。幸せにしているか」とだ。それはそうと、能登の七尾で育った子らは皆、立派に育ち社会人として頑張ってくれているのである。おまえは居なくなってしまったが。これほど幸せなことが他にあろうか、とだ。

 戸外では、きょうもチュチュチュッ、チュチュッと小鳥たちが大空を高く低く、楽しそうに旋回している。何かを私に訴え、話しかけるように囀り、空の一隅をスイーッと高く旋回したあと、今度は急降下しながら、どこまでも急接近してくるのである。
 それはそうと。わたくしは昨夜、久しぶりにあの美空ひばりさんの名歌【愛燦燦(あいさんさん)】と【川の流れのように】【悲しい酒】をスマホのユーチューブの音曲に合わせ一人、静かに感情を込め歌ってみた。このうち【愛燦燦】と【川の流れのように】は確か私たち家族が転勤で小牧から能登の七尾に行くか行かないか、あのころに大ヒットした、人々の心に染み入り、かつ迫りくる歌だったかと記憶している。
 その美空ひばりさんだが。彼女については、戦後まもなく七尾市は魚町の繁華街・一本杉通りに「まだおさげの少女のころに、よく歌いにおいでたわいね。大勢の人たちがひばりちゃんをひと目、ときてくれた。よお~覚えとるよ。この町を流れる御祓川も晴れ晴れしており、どなたさんも生き生きしとった。ほやわいね」と土地の古老が自慢話でもするように、だ。よく話しておいでだった。
 そして。今となれば、そんな日々が懐かしく思い出されるのである。
 ところでひばりさんが一本杉を訪れた当時、私の職場である新聞社の支局が魚町にあったかどうかとなると、戦後まもないころの話しで私には分からない(七尾支局は、私が勤務する数代前に開設されたと聞いてはいる。だから少なくとも昭和四十年代以降の開設に違いない。ただ最近では私が支局長として在任中は間違いなく七尾支局の局舎は一本杉通りに面していた。しかし支局局舎は、私の在任時も含め、その後は確か二度移転している)。
 ただ、美空ひばりさんが戦後まもなく。まだ少女のころに七尾の一本杉通りを訪れ、歌を歌い、能登の人々の間で大変な人気だった-という話は当時の地元古老の言なので、間違いないに違いない。おそらく、ひばりちゃんが来演したその日はさぞかしパッと花が咲くような人々で賑わったに違いない、と私はそのように勝手に思うことにしている。

 そんなわけで時は昭和、平成、令和と流れ、現在に至っている。
 ここで話しを元に戻すと。私たち家族は昭和六十一年八月から実に七年という長きにわたりお世話になった能登・七尾から平成六年春には転任で、岐阜県は大垣市の住人となっていた。そして。その日。いや、あの日、その瞬間は突然やってきた。1995年1月17日午前5時46分52秒。阪神淡路大震災が起きたのである。あのとき、七尾支局から大垣支局への引っ越しに伴い、私たち家族には能登・七尾から連れてきた愛猫てまりも確かに一員として私たちと一緒に大垣支局2階の支局長住宅で共に暮らしていたと記憶している。そして。その日はしばらく止まらないほどの激しい揺れに支局建物も揺れに揺れ続けたのである。
 あの日、私はてっきり明治時代に起き、多くの人々の命を奪った、あの根尾谷断層で知られる濃尾大地震(1891年10月28午前6時38分50秒に濃尾平野北部で発生したマグニチュード8・0の巨大地震。死者7273人、負傷者1万7175人)の再来かと思った、あの時の恐怖と記憶は今も忘れられない。そして、その揺れこそが、まさに未曽有の阪神淡路大震災で、その日は大垣でも確かに支局の建物が大きく揺れたのである。
 そして。私は被災地が自分の管轄外とは知りつつ、地震発生の翌日には支局員に車で新幹線の岐阜羽島駅まで送ってもらい、被災地へと向かった。新幹線で大阪までは行ったものの、大地震発生で多くのビルや家屋が倒壊、火災も発生したなか、阪神高速道がペシャンコにひん曲がるなど何もかもが身動きがとれなくなっていた。大都会大阪や神戸、西宮ではそれこそ、ありとあらゆる民家やビル本体が倒壊したり、ひび割れしながらも辛うじて立ち、それでもなんとか開業していたカプセルホテルに泊まり、翌朝からはバスやタクシー、船など僅かに動いている乗り物ならなんでも良いので飛び乗って、とりあえず靴の街で知られる長田町に入り、それからは被災地の至る所を歩いて見て回ったのである。

 足は自ずと被害の目立つ場所をピンポイントで探し求めて歩きまわったが、行く先々は、どこも崩れ落ちた瓦礫の数々と地震火災で焼け落ち、それこそ焦土の町と化していたのである。なんということなのだ。それでも私は瓦礫の山々を目の前に、ただ焼け野原同然と化したその町をなおも歩き続け、どこまでも広がる瓦礫の山々には、唖然とするほかなかったのである。そして。あの日々の状況につき私は自著【町の扉(能登七尾・わくうら印刷)】で次のように書いている。
―平成七年一月十七日早朝。神戸を中心に関西を襲った阪神・淡路大震災では六千四百余人もの人々が犠牲になった。その阪神淡路大震災発生時には、休みをあてて現地に入り、被害の惨状を、この目でしっかりと確かめてもきた。木曽三川分流に力を注いだオランダ人水理工師ヨハネス・デ・レーケの墓が心配になり、神戸を訪れたが、幸い寝棺だったこともあり、難を免れていた。/新聞社の中日社会事業団の呼びかけに、と基金してきた読者は、数知れず、一時はこの受け付けに追われて支局業務ができなくなるほどのパニック状態に陥ったこともある。/支局女子職員の〝なっちゃん〟は、毎日毎日、近くの大垣共立銀行まで足を運び、寄付金を本社の口座に振り込んだり、小銭の勘定に追われたのだった。あるときなぞ、淡路島は俺のふるさとだから不憫でならねえ、といったその筋の人まで寄金に支局を訪れ一見してそれと分かる風采にそれこそ一瞬、判断に迷いながらも義援金にほかならないため丁重に礼を述べて受け取ったこともある。ありがたいことだ、とつくづく思う日々だった。/養老町の町内会のように一度に何百万円と持ち込む例も珍しくなく、支局受けつけ分だけでも実に三千万円を超える善意に、世の中にはこんなにも善意の人々がいるのか、とあらためて感じ入ったりもした。……(オランダ花ものがたり-大垣編から抜粋)
(続く。随時連載)