「あゝ きつの――私はお類、吉乃と申します㊥」

     4(たからもの。川並衆たち)
 一五六〇年五月一九日(旧暦。新暦なら六月一二日)に出陣した織田上総介信長が桶狭間、いやここから半里の有松と落合村の間にある田楽狭間の死闘に勝ち、今川治部太輔義元の首級を手に戻ってきた。
 まぎれ無き勝利である。清洲の町が至るところ歓喜に満ち、わいている。

 吉乃はあらためて過去を振り返り、いま、つくづく思う。
 信長の母、土田御前の生まれた土田一族にお類として嫁入りし、弥平次との間には二人の子に恵まれた。弥平次は心優しい男だった。あゝ、それなのに。優しかった夫は一五五六年(弘治二年)九月の明智長山城・田の浦合戦に犬山、岩倉両城主が送り出した救援部隊の一員として参戦。敵方の斎藤義龍率いる長井隼人の家臣、長屋勘兵衛と槍を合わせて討ち死にし、帰らぬ人となってしまった。
 それまでの新居での弥平次との楽しかった日々とは一体、何だったのか。一変して幸せが音を立てて崩れ去ったのである。こんなわけでお類は、生まれ故郷の尾張之国小折村の生駒家に傷ついた心を引きづって戻ってきた。弥平次との間には既に男の子と女の子がいた、とされるが二人とも弥平次の実家で預かるというのでそのまま残し、ただひとり生家の門をくぐったのだった(このふたり。その後、岐阜の土田家一族から小折の隣、岩倉の商家である舩橋家に預けられ、育ら忍びの女たちの助けもあって大切にそだてられたらしい。が、二人についての記録となると、なぜか、どこにも残ってはいないという。地元歴史研究家のなかには、実は弥平次との間に子はなかったのでは、とする人もいる)。
 お類が生駒屋敷に出戻った時は、それこそ一撃を食らわせられたようで足は重く、胸が高鳴り、身も心も張り裂けそうだったが兄で生駒家四代目当主だった八右衛門家長の「よくぞ帰って参った。辛かったのう」の温かいことばに甘えた。「お姉ちゃん、また一緒に楽しく暮らそうね。ほんと言うとね。あたし、待っとったんだから」との妹須古らの偽りのない言葉も身にしみ、意識が折れそうではあっても、わたし、アタイには生駒屋敷があるのだと、の思いを強くしたのがつい、きのうのようでもある。

 その生駒屋敷に帰ればこそ、吉法師さまとこうして再会でき、ここまで生きてこられた。亡き夫・弥平次のおかげで今があるのだ、と。お類から吉乃に生まれ変わった彼女はこんなことを何度も何度も反芻し思うのである。と同時に西の丸館で寝屋を共にしたり、木曽川河畔や生駒屋敷近くを流れる幼川(おさながわ。現五条川)の堤を共に歩くなど互いの愛が深まれば深まるほど「弥平次さま。許して」と前の夫に対する償いの情もなかなか消えはしない。かえって追慕の情が輪をかけて増幅していく自分を感じてもいたのである。
 あれは傷心のまま実家に出戻ってしばらくした、ある日のことだった。信長さまは既にれっきとした若殿さまとなっており、鷹狩りの帰途、小折の生駒屋敷に兄の生駒八右衛門家長を訪ね、このとき、接待の茶を差し出されよ、と生母と父家宗(生駒家三代目当主)に毅然としたさまで言われ、茶を持ち運んだ。これが吉法師さまとの再会のきっかけとなったのである。
 信長はそのとき幼少時代を思い出し、あらためてお類への思いの丈を強くし、それ以降というものは何かにつけ、生駒屋敷に顔を出すようになっていた。以降、二人の仲は〈何かの縁〉でつながれたような、そんな関係にまで発展。奇妙丸(のちの信忠)をはじめ茶筅丸(信雄)、五徳(徳姫)と新しく三人の子も次々と授かった。ことに一五五七年(弘治四年)夏に長男、奇妙丸を授かった時などは大変な喜びようで、信長は吉乃の手を握ったまま何度も何度も「でかしたぞ」と述べたという。 

 実際、信長に再会して以降も、吉乃の身の回りには今川からの間者や細作の横行や信長に関するあらぬうわさなどいろんな雨、風、嵐が降ってわいた。が、そのつど木下藤吉郎ら周りのご家来衆の機転や妹の須古、さらには忍びの女仲間の育たちにも助けられ、ここまで切り抜けてきたのである。
 そんななか、吉乃にとって何にも替え難いものは信長、そしてその一の家臣である藤吉郎を取り巻く多くの温かい人びとの存在と出会いだった。一五四八年(天文一七年)に種子島に伝来して間もない鉄砲を大阪の堺経由でいち早く入手し信長軍を早くから支えたばかりか、川並衆としても木曽川での渡し船の行き来を一手に引き受けた蜂須賀小六正勝率いる、いわゆる蜂須賀党、木曽川河川敷での馬の放牧地「馬飼い地」開放など何かと信長軍に尽くした前野将右衛門長康一族、さらには蜂須賀党の有力メンバーで「持ち舟、数百艘」「舟をあつかう者、舟を頼みて富を為す」とまで言われた草井長兵衛を筆頭とする生きのいい船頭衆たちなど。
 良人、信長を守る周りの多くの人たちの存在を知ったのもこのころだった。

 気がつくと、かつての少女、お類は新しい女、吉乃に生まれ変わり信長にとって、かけがえなき存在になっていたのである。桶狭間すなわち田楽狭間の戦いに至るまでのしばらくの間、吉乃は信長と離れれば離れるほどに、いっそう身を焦がす自分を強く感じていた。別れているほどに思いは深く、そのぶん自身も美しくかつしなやかに。若鮎のように育つ私(わたくし)でなければ、といった自分自身がそこにはいた。
 そして。このころになると、吉乃の美貌と柔らかな物腰や物言い、温かさに圧倒され、信長の側室であることを知りつつ、何かと吉乃のことを気遣う多くの男たちも生駒屋敷に相次いで現れ、出入りを始めたのである。将右衛門しかり、自らの出世に如才のない藤吉郎とて吉乃には目がなく、結果的に吉乃は彼女を慕うこれら大勢の男たちに守られてもきた。
 男たちのなかには、産後の肥立ちに良いと聞いたドジョウや里芋を近くの小川や田んぼ、伊木山まで行って取り、そのつど信長には内緒で持参し献上してくれる者まで現れ、やがては生駒屋敷二の丸館に住む吉乃の住まいを吉乃の方のお屋敷だと呼ぶ者まで現れるようになったのである。

 秋。〈かぜ〉がさやさやと肌に心地よい。きょうは、雲の流れが早い。
 目の前にどこまでも広がる木曽川河畔の濃尾平野は、その年も収穫を前に稲穂が黄金一色に輝き、穂先を揺らせている。幼い三人の子を抱える吉乃は、侍女のお亀やおちゃあらの手を借りながら相変わらず家事に、子育てに、余裕があれば忍びの女・育たちに頼っての清洲城の管内あるきと尾張、美濃周辺の情勢把握に、と忙しい日々を過ごしていた。
 実を言うと、前にも触れたが、信長の身の安全を願う吉乃はいつのときも夫の周りに「網」をかぶせるように二重三重の忍びの女たちを張り付け随時その状況を報告させてもいたのだった。とは言え、以前、今川義元が健在だったころに駿河はじめ甲斐、相模の国から大量に送り込まれてきていた当時に比べれば明らかに間者の数も少なくなってきたようだ。このところ、ここ尾張之国に関しては桶狭間の戦いの前のような戦乱に次ぐ戦乱にふりまわされることもなく、心は穏やかに流れていた。

 そんなある日の午後のことだった。
 信長が愛馬「月の輪」に乗り、同じ馬上姿の小姓数人を伴い、二の丸館に現れた。馬からやおら下りるや「吉乃、きょうは、そちを良きところにつれていこう。すぐ、そこじゃ。わが子を生んでくれ、桶狭間の戦いなど合戦のつど戦国武将のワシを守り続けてくれている。そんなそちに心からの褒美がどんなものか、を見せたいのじゃ。子らはおちゃあらに任せておけばよい。さあ、支度じゃ、支度じゃ。支度をせい」というので、外出用の少し華やかさを感じさせる橙の袷に着替え、頭には白頭巾をかぶり、鞍台に乗ると信長は前の吉乃を支えるようにし「さあ~、いこう。出発じゃ」というが早いか、「月の輪」の横腹を鐙で軽く蹴り、こんどは尻尾に鞭をあて走り出した。

 馬上から見る空は、どこまでも澄んでいる。雲がながれる。
 愛馬「月の輪」はまもなく木曽川堤を一気呵成に駆け上がったかと思うと、両脇に雑草が生えそろった堤防道路を走り抜け夕暮れに染まり始めた伊木山を対岸に望む渚の空き地で止まった。吉乃を馬から下ろすと、信長は立ち木に手縄を繋ぎ「そろそろ、現れるころじゃから。よい天気じゃな。川の流れも穏やかでよい」と満足そうに空を仰いだ。
 ほどなくすると全身毛むくじゃらの大男が近づき「殿。信長さま、準備は整うてまする。吉乃のお方さま。ようこそおいで下さいました。あっしが、殿に常日ごろお世話になってやす蜂須賀小六正勝でござんす」と頭を下げて進み出た。一体何ごとか、と見守ると、今度は別の男がこ走りに一歩、前に出て人懐こそうな顔をほころばせ「吉乃のお方さま。お待ちもうしていました。あっしは、船頭の草井長兵衛と申しやす。おうわさのお方さまには、ぜひ、ひと目お会いしとうて。こうして皆でお出迎えに上がった次第でして」というが早いか「おぅ、野郎ども。奥方さま。きつのさまのご見参じゃ。抜かりなく」と声を張り上げた。
 と同時に、木曽川の川べりのあちこちからオゥ、オゥ―ッ、まかせとき! といった声が飛び火となって聞こえてきたかと思いきや河原に立つ吉乃と信長の目の前にはあっというまに、十艘ほどの渡し船が勢ぞろい。船という船から「キツノさま、キツノさま、お方さま。キツノさまぁ。いつもお疲れさまです。いつも殿を守ってくれて、ありがとな。ありがとござんす」の声が波のうねりの如く怒涛となって押し寄せてきた。
 これぞ、これまで信長を助け、支え続けてくれていた、世に聞く天下の川並衆であった。

 目の前に立ちはだかる屈強な男という男たち。頭や首に手ぬぐいを巻いた男たちがいたかと思えば、麦わら帽姿、手ぬぐいを腰に下げた半纏男と、みな日に焼けて、笑顔で白い歯を覗かせている。小六が集結した船の方を意味ありげに振り返ると、何十艘もの船の中の数艘の船底には何十、いや何百丁もの鉄砲までが整然と並べられていた。吉乃は思いもかけない光景を目の前に、ふと「これならば、今ここで戦いが始まっても信長さまは、決して負けないだろう」と思った。
 これほどの頼もしい男という男たちがいるのだから。信長さまはなんと、恵まれたことよ。これも藤吉郎はじめ、兄の八右衛門、前野将右衛門らが夫を守ってくれておればこそ、じゃ。そう思うと、吉乃の目には涙がとめどなくあふれ出、ひと滴ひと滴が、どこまでも渚の土に吸い込まれていくのだった。
「ころくサマ。そしてちょうべいサマ。わざわざ、われ、わたくしのことを思い、ここにおいでくださった皆みなさま。ウチの信長が大変、お世話になっています。本当に何もかもがあなた方のおかげです。ありがとうございます。このご恩を、わらわ、いや、わたくしは決して忘れません」
 そう言って何度も何度も頭を下げる吉乃。川並衆たちの目という目がうるみ、あとは言葉にならない。そんな吉乃の肩に手を置き、信長は「こやつらは、戦時には舟を並べて緊急の橋まで作ってくれてのう。木曽川渡河作戦への貢献はむろんのこと、ほれっ。見てのとおりじゃ。既に鉄砲とて大量に入手し実弾演習も欠かさぬ、この国で最高に頼りになる輩ばかりじゃ。じゃから、こやつら、こやつらの存在こそがそなたへの褒美も同然じゃ。こやつらは、皆宝物じゃて。であるから、もう泣くな」とだけ口を開き、これまでの労苦をいたわるように二度、三度と吉乃の肩をぽんぽん、ぽんとなでるように叩くのだった。

 気がつくと、信長の両の目からは涙があふれ、ひと筋の滴が両の頬を伝っていた。夕焼けのせいで木曽川の川面はいつのまにか茜色に染まり、対岸にそびえ立つ伊木山は夕暮れ富士そのもの、この山は釈迦の寝姿に似ていることから時に【寝釈迦山】とも呼ばれるが、吉乃にとっては恐らく生涯で初めて見る身も、心も、美しい山となったに違いない。
 この夜、信長は桶狭間の戦いで武勲のあった兵士も従え、木曽川で吉乃や家臣らと共に既に千年近く前から続くとされる伝統の鵜飼も楽しんだが、信長自身、初の鵜飼見物になったらしい。信長の発想は豊かで、後年、岐阜入城後の長良川鵜飼の鵜匠制度はこの日の見物をきっかけに、信長の発想で制度化されたものだとも言われている。(続く)