「おかあさん」 牧すすむ
仕事通いの渋滞を避けて私はいつも近くの公園を抜けて行く。その道は、春には満開の桜並木、夏には涼しげな木陰のトンネルを作り多くの人達の憩いの場となっている。私も時々道の隅に車を停め、暫しの安らぎに身を委ねてリフレッシュしている。
又、春から夏へ向かう頃この公園はもう一つの顔を見せてくれる。道の脇にある小さな池がその舞台だ。水面を覆い隠すように敷き詰めた緑の丸くて大きな葉の間から、いくつもの薄紅色の花が姿を現す。ハスの花だ。
可憐さと不思議な色香を合わせ持って美しく咲くその様は、まるで妖精のようにも見える。そんな風情に魅せられて連日たくさんの人達が手に手にカメラを持ち、池の周りを巡りプロさながらのポーズでシャッターを切っている。
時には木の柵を越えんばかりに身を乗り出し、お目当ての妖精を写し撮ろうと懸命だ。余りのカメラの数の多さに花の色が奪い取られ、薄くなってしまうのではないだろうかと余計な心配が胸を過(よぎ)る。
しかし、そんな花の命も短く儚い。あれ程に賑った池にも今は人影すら無く、時々小魚が跳ねて作る波紋が静かに広がるばかりだ。
♪命短かし 恋せよ乙女♪そんな歌の一節をつい思い出してしまう、春と夏の間(はざま)―。
その頃を〝梅雨〟というのだが今年はどうも様子が違う。一気に夏が来たかのように30度を軽く超えた気温が日本中を包み、北国であるはずの北海道が沖縄よりも暑かったり、又、記録的と言われる豪雨が河川を氾濫させ、連日各地に甚大な被害を及ぼしている。日本列島が異常な梅雨の嵐に襲撃されまくっているのだ。
これも地球温暖化の成せる業なのか。目まぐるしく変化する自然環境に恐怖を覚えながら、今日もテレビの報道に見入っている。
先日のこと、所用があり激しく雨が降る中を外出した私。案の定台風のような強い風にあおられてさした傘が勢いよく裏返しになり、危うく転倒しそうになった。ただ、今の傘は丈夫に出来ているようですぐに元に戻せたが、もし怪我でもしていたらと思うとゾッとしてしまう。やはり梅雨時のそれはしっとりと肩や髪を濡らす風情でありたいと、心からそう願わずにはいられない。
傘といえば一つだけ忘れられない思い出がある。中学に上がった梅雨の頃のこと、教室の窓からクラスメート達が重なるように身を乗り出し、何かを見ながら口々にワイワイと騒いでいる。何事かと私も同じように外に目をやると、なんと! そこには母の姿がー。
そして窓の中に私の顔を見つけると、持った傘をちょっと振って笑いながら近付いてくる。午後から雨になったため私に傘を持って来てくれたのだった。
都会暮らしが長かった母は着る物や化粧が少し派手で、当時の田舎では目を引く存在だったようだ。子供心にもそれは知っていたし、私もそんな母が好きだった。ある時などは若い男の先生が母に話し掛けられ、顔を真っ赤にしていたのを覚えている。
あれからもう半世紀を遥かに越えた。そしてその母も一昨年百歳の生涯を全うし、愛する父の元へと旅立った。私にとって傘は若き日の母の姿であり幼き日の自分の姿なのだ。だからこそ梅雨はあくまでも〝しっとりとした梅雨〟でなければならない。いやそうでなければいけないのだ。
今日も怪し気に曇る空を見上げながら心からの叫びを神に告げている私なのである。(了)