汐音と鬼太夫(掌編時代小説ふう)
潮騒が聞こえている。鬼太夫は耳をすまし、まるで汐音の祈りのようだと思った。
浜辺に打ちたてられた十字架に彼は縛られ、処刑されるのを待っている。彼はこの辺の海は知り尽くしている。どんなに入り組んだ湾も複雑な地形の島の岩だって知っている。俺はなんといっても、九鬼水軍の頭だったんだからな。今頃は飛び魚がそこら中の海を滑空しているはずだ。彼が汐音を女房にしたのは三年前の夏の終わりの日差しが強い昼下がりだった。
そのころ彼は織田信長に従い九鬼水軍の頭として毛利や叡山の兵と戦い鉄甲船に乗り散々に打ち破り敵兵を殺しまくったものだ。
信長公の戦術はいつも冠いていて驚かされた。誰が船に鉄の鎧を着せ鉄砲や矢を防ごうなどと考えるであろう。無敵なはずだ。哀れなのは敵の兵だった。慌てふためいて九鬼の兵の餌食になるばかりだった。
汐音に会ったのは、そんな敵の一向衆が最後に逃げ込んだある島の岸壁に立つ城だった。鬼大夫の役目は、小舟に乗り追い詰められた一向衆の人々が仕方なく三十㍍はあろうかという崖から飛び込むのを待ち受けていて運良く生き残った者を槍で刺し留めをすることだった。海には死体があふれ血で赤く染まった。もう殺すのにも倦んだ。もう自分の海を汚したくはない。 拳も紅く染まり洗ったとてたやすく取れやしない。死臭が付いて離れない。そう思って空を見上げた時だ。崖の上に若いなよなよとした娘が髪を靡かせ立っているのが見えた。鬼太夫は多分城主の娘だろうと一瞬思った。その刹那赤い単衣の着物が翻って短冊が舞い落ちるように見えた。彼は思わず海深く飛び込んでいた。水中深く潜り海面を見上げた。そこには幾つも骸が浮かび赤く血が流れている。彼が見終えるのと半裸になった娘が落ちて来るのは、同時だった。
黄金の夕日が海に射し込み娘の躰を美しく映し出した。神々しいものを見るように彼は沈んで来る娘を見、その腕に受け止めた。娘の黒髪が長く棚引き、まるで海草のようだと思った。
彼は気を失った娘の首を腕に絡め水中を泳ぎ小舟へたどり着くと娘を自分の着物で包み船の中へ運び入れた。それはやってはならなぬことだったが、頭の彼は仲間の者達に内緒になと口を封じそのまま自分の小屋へと向かった。
小屋は戦の中の仮の家で粗末だったが、娘を横たえるとつくづくと全身を見た。娘は十五、六で鶴のように首が長く体もたおやかで髪が胴辺りまで流れていた。彼は禁を犯し連れてきてしまったがどうしたもんかと考えた。だが欲望の方がそれに勝った。どうしようもなく手に入れ女房にしたくなったのだ。小屋に射し込む夕焼けが娘の真珠色に輝く乳白色の肌に当たりいろんな色に輝いて見えた。小屋には潮騒の音が聞こえて来る。彼は、娘を汐音と呼ぶことにした。彼は宝ものを見つけたように娘を抱き、愛おしんだ。髪が彼の首に巻き付いて心地良かった。潮の香りもした。娘は小波のような声を上げた。
人の口には扉が立てられない。いつしか皆の噂が広まりとうとう信長公の耳にまで伝わってしまった。二人は追われることになった。鬼太夫は志摩の海は知り尽くしている。追っ手を逃れ、日ごと島を変え逃げた。ある時は無人島へ。食べる物は彼が魚や貝や海老を、娘が野草や木の実を。それで何年か過ごすことが出来た。初めは怯えてばかりいた汐音も時折、微笑を浮かべるようになってきた。
ある時、仲間の一人が娘さえ出せば鬼太夫の命だけは助けてもらえると言ってきたが、彼は断った。一時でも幸福を失いたくはなかったのだ。とうとう追い詰められた鬼太夫は二人で死のうと考えある時、汐音を抱え海深く潜っていった。五㍍ほどで汐音の息は止まり、彼も苦しくなり思わず手を離し浮き上がってしまった。
彼は捕まり十字架に縛られた。槍が彼の胸に当てられた時、彼は汐音が日ごろ朝夕祈っていた南無阿弥陀仏と呟いた。(完)