「楓の青春」 平子純
社会はたった六十年前まで存在した遊郭の事や遊女達の生涯を知らない。ましてや彼女達の青春等興味もないだろう。そこで私は父母たち戦中派の時代も含め一人の遊女の物語を語ってみようと思う。
遊女の名は楓と言った。昭和八年日本は満州事変を経て、大陸に野心をあからさまにした頃だ。東北は例年の冷害で食う事にも困り多くの農家が娘を売って凌ぐ年が続いていた。楓は十三になったばかりの秋、紅葉が色づく頃に名古屋へ売られて来た。汽車で女衒につれられて笹島駅で降り中村へと向った。
まず一泊目は現在の鵜飼リハビリテーションの敷地になっている紫水という宿で泊り一日だけの娑婆との別れをする。次の朝売られた先の店へと送られた。それから二~三年は行儀作法、郭言葉、歌舞音曲等みっちり仕込まれ初潮を迎えた後十五、十六で遊女となる。最初は見習いで花魁の付人となる。女郎の社会は相撲社会と同じような階級制度があり人気がある娘程上の位に付き、多くは関取になれない相撲取りのように一派人から下の体を売るだけの存在だった。
一番下位の女達は各地の遊郭を売られ売られして来た者達でその夜時間までに売れ残るとスーパーの安売り時間と同じで安価で一晩に何人もの客を取らなければならなかった。楓は東北美人の特性を持っていて色白で肌もきめ細かった。
客を初めて取る数日は、顔見せで店の上客に初物と言って高く買ってもらう。処女を買うのは最初の男だけだが、それは商家の金持ちで初物好きの好色と決まっている。こうして十五歳になったばかりで男を知り遊女生活を段々身に付けていった。昭和十年代になると日本は軍事色を深めますます戦争へとのめり込んでいった。それに反比例して庶民の自由は制限され恋愛も許されなくなり郭だけが男の自由区のような形となった。
色恋沙汰は浮世では許されないという余裕のない社会となっていった。楓は十八となり店の看板娘となっていた。それには彼女の美しさともう一つ床上手という評判がたったからだ。彼女は客が喜ぶ事が自分の生きがいのような形になっていった。客が喜べば自分に優しくしてくれる、思わぬ金もくれたりする。ある客が男と女は合歓の木になる時が一番愉楽の時だと教えてくれた。十八になり自分の体が男と共に共鳴するようになり合歓の意味が分った。男と共に自分の体が素直に半のし歓びを表せば客は喜んでくれる。その事さえ分れば男を愉しませるのは容易だった。
その頃兵隊が女を初めて知るのは遊郭が多かった。特に中国戦線に送られ死ぬかもしれぬ兵士にはこの世の名残りに女を経験させる、つまり童貞を失う機会を与えたのである。楓の店にも名古屋の師団のそんな兵がよく来た。
楓はそんな兵には自分の仕事が聖職と思って心から体を委ねた。そんな若い兵士の一人に恋をした。二人共互いが忘れなくなった。兵士が中国へ渡ってからも葉書が送られて来た。その度に心が躍った。そんなある日。紅葉が深くなり落ち葉が舞い散る夜、痩せこけた見知らぬ男がやって来て楓を抱いたことがあった。男は執拗に楓の唇を吸った。唾液を通し彼女に違和感のある物が入って来た。こうして彼女は肺病になった。肺病を患った遊女は悲惨である。彼女は隔離部屋へ入れられ、ただ死を待つ身となった。病はどんどん進んで行き寝たきりとなり血を吐くようになった。遊女の身では療養は考えられなかった。近くの鵜飼病院の医師は半年は持たないだろうと告げた。
中国戦線へ渡った兵士、武夫は松井大将の下、南京を攻め、そのとき傷つき腕を失い、帰国する事になった。彼は国へ帰ったら楓を見受けしよう、と勢んで名古屋へ帰り楓に会いに行った。二年ぶりの再会だったが楓は湿気の強い余り新鮮な空気の通らぬ部屋で寝かされたままようやく頭を持ち上げると消え入りそうな声で待っていたわ、会いたかったわ、とだけ言って微笑を浮かべた。
武夫という兵士は、楓をとにかく店の外に出そうと考えた。もう郭の主人も拒まなかった。楓は武夫に引き取られ中村区の小さな長屋の一室に住むようになった。薄倖な彼女にとって本当に幸福な日々だったが三カ月後、彼女は大量の血を吐いて旅立った。検死は、鵜飼医師が行い、彼女の骨は中村観音に祀られた。武夫はその後、焼夷軍人としてその姿をよく駅で見かけられたが故郷岐阜の寺へ入ったと聞いた。(完)