「雪上での成果」 眞鍋京子

 今から六十年余り前になる。琵琶湖畔のこの地方でも珍しく雪がたくさん積もり、子どもたちは大喜びで雪だるまを作った。炭団の丸い眼、炭を利用したいかつい眉毛、頭には帽子の代わりにバケツをかぶせる。雪を固く細長く、手の先には手袋がはめられている。側の山道は格好のスロープになっており、板で作ったそりで滑って降りる子どもたちも多い。
 
 月日は流れて幾星霜。冬季オリンピックの開催される日本では一九七二年に札幌、一九九八年には長野五輪が開催された。スピードスケートの清水宏保が五〇〇メートルで金、一〇〇〇メートルで銅メダルを獲得。女子スキーモーグルで里谷多英が金メダルを獲得した〈自然との共存〉を掲げた長野大会は「五輪と環境保護の両立」という課題を浮き彫りにした。
 スキージャンプ・ラージヒル団体で悲願の金メダルを取った原田雅彦が豪快なジャンプを決め号泣、次に出場した船木和彦の名前を「ふなき~」「ふなき~」と連呼した、あのときの感動的なシーンはいつまでも忘れられない。この年の成果は金五個、銀一個、銅四個の合計十個のメダルと輝かしい結果となった。
 そして。その後も各日本人選手たちの努力は目覚ましく、ことし二〇一八年の平昌冬季オリンピックが開催されたのである。この平昌オリンピックに日本選手団は百二十四人の選手が参加。旗手は冬季オリンピック史上最多、八度目の出場となる葛西紀明選手が務めた。この葛西選手は過去一九九四年のリレハンメルで団体で銀、二〇〇四年ソチでもラージヒル個人銀、団体でも銅に輝く成績をあげ年齢も四十五歳の大ベテランだが、日本の期待も多く、大会前からの重圧は相当なものだったようだ。

 このように各選手の思いもさまざまな中、今大会は特に女子選手の活躍ぶりがめざましかった。なかでもスピードスケートの小平奈緒選手は女子五〇〇メートルで金メダルを、一〇〇〇メートルでも銀メダルを獲得。五輪スタジアム近くの広場で行われた式典で金メダルを授与される光景が私にはいま鮮やかによみがえるのである。「重いなあ」と感じた小平選手は「金メダルって。こういう〈いろ〉だったんだ」と感慨深げに語りもしたのだ。
 事実、日本選手団主将も務めた小平選手はあの時、表彰台に飛び乗った。そして日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長から金メダルを首にかけられると、満面にやわらかな笑みをたたえた。手元に届いた栄光の証しには「うまく表現できない。けど、これまでのワールドカップ(W杯)や世界選手権とは違った気持ちになった」とその達成感を漂わせた。また頂点を争った親友で銀メダルのイ・サンファ(李相花)とは彼女が銀メダルを受け取ると、改めて健闘を称え合った。控室では名前のハングル表記を教わるなどしていっそう親交を深めたという。
 こんなふたりの友情には会場で見守った結城匡啓コーチまでが愛弟子の晴れ姿に目を潤ませた。式典後にそのことを知った小平選手は「(コーチの)泣いた顔は見たことがない。見たかった」とおどけてみせ、「まずは結城先生に金メダルを」と感謝の思いをにじませる姿まで見られた。なんと、すばらしい光景であることか。三度目の五輪出場となった小平選手は今大会、最初の個人種目のメダルとなった一〇〇〇メートルの銀と合わせ二つのメダルを獲得。そのほかにも、高木菜那・美帆姉妹はじめ高梨沙羅、菊地彩花、佐藤綾乃などの健闘ぶりが伺われた。

 最後にフィギュアスケートの羽生結弦にもふれたい。昨年十一月に右足の関節外側靭帯を損傷。氷上を離れた期間は二カ月に及んだ。「治るんだろうか」。不安にかられライバルたちの活躍に焦りが増した。「足の感覚をなくしてでも出たい」と考え、指まで神経を行き届かせ、速く、ぶれることなく最後のスピンを回った。観客の絶叫が幾重にもこだまするなか、羽生は迸る興奮を抑えるように決めのポーズを取り続けた。「帰ってきたんだな」。体の中から沸き立つ興奮と会場の熱狂が心地よかった。
 二つの四回転を含む三つのジャンプを決め、十月のロシア杯いらい百十八日ぶりの試合とは思えぬ驚愕の演技。羽生復活、首位おめでとう。「いろんなものを犠牲にして頑張ってきた褒美」が、そこにはあった。

 熱戦を生んだ平昌五輪が閉幕した。―日本勢は冬季五輪史上最多となる十三個のメダルを獲得しIOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長は次の北京へ、と引き継いだ。北京では、どんなドラマが生まれるのか。いまから期待している。(完)