「他言しない、それが愛」 伊神権太
内緒の話、イコール秘密といって良い。人間、善きにつけ悪しきにせよ、ヒ・ミ・ツが多いほど魅力的だと。私はそう思う(なかには〝秘密だなんてアカンよ〟と言う方がおいでかもしれない)。デ、私の場合はといえば、だ。もう時効になるやもしれない。人並みに時には恋にも溺れ多くを傷つけてきた。自分の方が、血がしたたり落ちるほどに傷ついてきたのかもしれないが。そのごく一部を告白しよう。
「なりたくて仕方がなかった新聞記者にとうとうなれる」。そう胸を弾ませ記者のトロッコ、すなわち駆け出しとして松本支局にサツ回りとして着任したのが昭和44年の夏。私は、それまでの1年近く。三重県鼓ケ浦での新人合宿社員教育に始まり雨季の金沢での販売店実習に続き本社で整理、校閲のイロハを学んだ。そして夢がかない地方支局生活が始まることとなった。
その日。母に見送られ国鉄(現JR)名古屋駅から松本に旅立った中央線のプラットホーム。ホームの柱の陰で私を送ってくれたのが、それまで内緒で付き合っていた年上の人妻、Sさんだった。松本の下宿に着くや、彼女からは雨に濡れた封書が届いており、その後2、3度手紙を交わしはしたが名古屋にいた時のように会うわけにもいかず、互いに疎遠になっていった。
あのころは〈君は心の妻だから〉や〈時には母のない子のように〉が大ヒットしており、たまに女鳥羽川沿いの居酒屋やスナックに入るにつれ、よくこの歌をうたったものだ。
時ながれ。舞台は三重県志摩半島に移る。かつて真珠王御木本幸吉の右腕として君臨し和具漁協組合長だった松田音吉さん。音吉さんには未明の熊野灘に出ての密漁摘発の定置網同行取材をきっかけに何かと大切にされ、伊勢神宮奉納大相撲の高砂一門(親方は3代目横綱・朝汐太郎、高見山が相撲界に入って間もなかった)の組合長宅を開放しての打ち上げに招かれたりした。
音吉さんの家を何度も訪れるうち、お孫さんのK子さんと親しくなり彼女がカンタベリ大学に留学するというので、石川啄木の詩集を餞別代わりに持参し、泣く泣く別れたことがある。K子さんとは、なぜか気があい私は彼女が東京の大学から帰省するつど、半島突端に近い自宅まで出向いて何度もお会いしたものだ。
音吉さんは私を独身と思い込まれていたようで、彼女の帰省のつど「ガミさんや。今、孫がきてる。チョッコし、きましょ」と誘いの電話をくださり出向くと「わしゃ、アンタに、あの島ひとつをそっくりやろう思っとる」とまで言ってくださった。そのころの私は、といえば。阿児町鵜方にあった新聞社の志摩通信部で幼な妻との駆け落ち逃亡記者生活のさなか、取材も何かにつけ命がけで、二人の女性を同時に思う〝ふたつ心〟に揺れたのも事実。森進一の「襟裳岬」が流行っていた。
岐阜への転勤が決まって初めて音吉さんに自分が既に結婚していることなど一部始終を話したが、「本音を言うと、わしゃ、かわいい孫を嫁にもろうて欲しくて、な。互いに好きおうてみたいやし。失礼してしもうた。ガミさんは駆け落ちまでしたんやから。奥さんを大切にせんといかん」とまで話してくださり、「これはウチのがこしらえたやっちゃ」と真珠のネックレスなどお祝いまで頂いた時には涙が出て止まらなかった。
ほかにも数えしれないほどの大事件や大災害。そんな激務のさなかにひょんなことで出会った踊りの師匠はじめ大学の後輩、県警の電話交換手、書道教師、生け花の先生など。忘れ得ぬ人は多い。秘密といえるかどうか。三重の嬉野豪雨では遺族に責められ、カメラマンが撮った貴重なフィルムを「これですむなら」と谷底に投げ捨て、通信局で留守を預かる妻が暴力団組員に「殺せるものなら殺してみな」とタンカをきったり、訪れた読者にビンタをくらわせた。これとて秘密といえば秘密。今だから話せる。
すれ違いというか。ヒ・ミ・ツは数えしれない。生きている以上、誰とて同じだ。後年。本社務めのころ、それまで〈おわら風の盆〉の旅の取材などで越中八尾を訪れるつど宿の手配などで何かとお世話になっていた女性がある日突然、氷の如く冷たくなったことがある。あとから考えれば、私が中国人の女性琵琶奏者と連れ立って一泊したあげくに彼女の店ののれんを一緒にくぐったことに堪忍袋の緒が切れたためらしい。
最近では「お金を貸してくれなかった」と私の元を去った画家(私はご本人のためにも貸さなくて良かった、と信じている。彼女は文化センターナンバー1の売れっ子講師だった)など別れた女性となると、数えしれない。
そんな私を目の前に「みんな分かってる。言わないだけよ」と嗤う妻。もしかしたら、そんな彼女にだって、そうしたヒ・ミ・ツはあるかもしれない。人は秘めごとを胸に抱かえて生きていくもの。最近、私はそう悟って生きていくことにした。でも決して他言はしないでいきたい。♪ボウフラが人を刺すよな蚊になるまでは泥水のみのみ浮き沈み、か。ああ~ (完)