「平和を楽しむ」 真伏善人

 争いがなく、おだやかな日の続くことは、誰もが望んでいることであろう。しかしこの地球上の情報を見聞きする限り、残念ながら毎日のように争いごとがある。そして核開発だ。争いは生物の宿命でもあり、それによる新陳代謝が世界の歴史を作りあげているとも言えるだろうが、この先が本当に心配になる。
 いったい平和とはどう理解し、受け止めたらよいのだろう。幸いこの日本という国は戦争の傷跡があるとはいえ、今では平和な国とされている。これからも世界の動乱に惑わされず進んでほしいものだ。

 さて、この自由で平和という国の中で生活してきたのだが、もう自分の人生は終盤にかかっている。これからの日々をどう生きがいを持って楽しく進めるかを以前から考えてきた。結果、まずは人間関係を狭めることである。出来るだけ避けて進みたいのである。人間は関係が太くなるほど相手の影響も受けやすく、いつかは言葉の行き違いや理解の仕方などで心を痛め、そのことで離れていくのは辛い。
 それと繁華街へはよほどの事がない限り足を向けない。これらを土台にして楽しく過ごせることを考え、行動に移せればいいのだが、ハードルは高かった。まずはこれまでの人間関係である。退職してからも電話での誘いが絶えることはなかった。また、近くの友達に口伝えでの誘われがあったりと、断るのにひと苦労であった。「自分の平和づくり」は甘くなかった。意を決して辛い決断をするしかなかった。

 吹っ切れた気持ちは自由奔放をもたらした。まずは単独行動を基本として、一日を過ごせることを考えた。
 道路地図を買い求めた。車のハンドルを握り郊外をめざす。そこは限られた地域の、河川敷である。人影は少なく、川の流れを目の前にして腰を下ろす。小石の敷き詰まった河原の凸凹感を尻で受け止め、足を投げ出す。
 流れに見飽きたら、この辺に化石はないかと歩き回ったりをする。空を見上げれば季節感のある雲が浮かび、何とも言えない幸せよ。対岸の景色に見とれたり、声を上げて小石を精一杯遠くへ投げ込んだりと、身体を使う満足感もあった。

 しかし、河川敷にばかり通うわけにもいかず、山の麓へと足を延ばした。広い道路から、くねった細い道へと進んでいく。里山が近くなってくると、川幅も狭くなり、招かれているような気持ちになる。青い田んぼや茶畑の美しさに、思わず見とれて車を停める。時を忘れ、歩く歩く、ただ歩く。木々の豊かさがあって、時には動物たちに出あったりもする。この穏やかさは、まさしく平和であるからこそだろう。そんなことを多く楽しんでいるうちに、ふと風景の美しさに、じっと見入ることが多くなっていた。

 写真を撮ってみたい気持ちが湧きあがり、デジカメを持って出るようになる。切り取った風景写真を家でも楽しめ満足な日々を過ごす。描いてみたい―湧きあがる気持ちのままに、絵の具と画用紙を購入してしまう。自分が楽しめればそれでいいのだが、思いを込めて描かないと風景に申し訳ない。

 こんな平和を楽しんでいると、ふと同じ地上で生きている動物たちはどうなのだろうと、余計なことを考えてしまう。同じ自然現象の中で生きているのに、平和とは人間社会だけが願い、思い、感じていることなのだろうか。 (完)