「カオスの方舟」 山の杜伊吹

 それは昔の出来事、あなたのカオスと私のカオス。方舟にふたりで乗ったら、音も色もない精神だけの研ぎ澄まされた深遠な宇宙にいました。揺らり揺られてあっちの世界へこっちの世界へ、今思えば二度と戻らないふたりだけの時間が確かにありました。
 25年前、あの時のあなたには私が必要だったと今ならはっきり分かるけど、当時は分かりませんでした。あなたの神様が私の神様と取引して、私の神があなたの神の要求を受け入れたとしか思えません。
 酷いこと言ったね、ごめんね。すっごく傷つけた。私は本当に馬鹿でした。あなたの自尊心を傷つけました。25年経った今、とても後悔しています。あの時にワープして、言葉を選んでって自分に言いたいよ。あなたも私を傷つけた。それは自覚してる? 体じゃなくてハートのほう。きっとお互いさまね。

 久しぶりの再会で長く封印してきた心と体の記憶がフラッシュバックします。なぜあんなに近くの席になったの。私の方が先に着いてて先生の隣を陣取っていたんだから、あなたが選んだんでしょ、あの席を。私の目の前じゃなくて、斜め前の席を。頭の良いあなたの計算? 祈ってた。あなたが今回も来ないことを。
 どんな顔して斜め前の席に座っていれば良い? 目を合わせないように? その方が不自然だよね。だから適当に会話に参加して、相づち打って、ふーん、そんなお仕事してるんだーとか、自然に、自然に。誰も気付きっこない私たちの小さな秘密。
 会が盛り上がってみんな自由に席を移動して私とあなただけのテーブルになる。運命の神様は、仕掛けてくる。自然に、あからさまに。誰のために? 何のために? 意識が、あなたと方舟に乗らないようせき止める。私は必死にカオスの渦から出ないようにしてる。
 まだ熟れる前の青い果実だった若い頃のホンのひとときを、一緒に過ごした。それは長い人生の中で一瞬のこと。目を凝らさなければ見えないくらい遥か遠く仄かに灯ってるよ、夢の中みたいに。無口なのは変わってないね。何かしゃべらなきゃと努力してる風なのもあの頃と同じ、少し暗い所も。私は明るくなったのよ。優しい夫と小さな家を建てて子どもを育ててる。とんがったりしなくなった分、輝きはなくなったかもね。
 お勉強がずば抜けてできたあなたは私から見たら異星人のはずなんだけれど、会話は自然とはずむ。宇宙に向けてアンテナが立ってる私と同じレベルで会話を成立させる人だった。たしか夏生まれ、私はとても寒い冬が誕生日で心も体もいつも冷たかった。バースディにくれたチューリップ。あなたは一番好きな花だと言ったけど。
 二次会はわざと離れた席に座った。なのに一人帰って2人帰って詰めなよって誰かが言って隣になる。いたずら好きの運命の神様は、仕掛けてくる。
 私の好きなあの曲を歌ってる横顔、あの時も歌ってくれた。グラスを倒して水浸しのテーブルを拭くとき、あなたのスマホ動かしたらかわいい子どもたちの待ち受けが見えた。

 もうそろそろ帰る時間ね。いつまでもタイムスリップしていたいけど帰らなきゃ。遊びはもう終わり。私たちの間に起こった出来事が奇跡のよう。全然モヤモヤしてない澄んだ気持ち。みんながぎゅうぎゅう詰めに乗って、一番家が遠い私はあなたの隣の助手席にって誰かが言う。また仕掛けてくる。あいつを送って、次にあいつを降ろして最後に残る、意識が時空を超えて鮮明にあの時を蘇らせる。神様、いまさら2人っきりにしてどうする?
 方舟から降りて一瞬つないだ手を離して、今はまだ楽しい夢の途中ね。(完)