「旧家族」 真伏善人
僕の父は新潟県の北部で、農家の長男として生まれ育っていた。だが成長するにつれて、農家を継ぐ気持ちが次第に薄れていったらしい。いつか親にそんな態度をみてとられて激怒されたが、本人の気持はもう他に移っていたようだ。親にその旨を願い出ると、怒声の「出て行け!」を言い渡されたらしい。勘当同然で東京へ向かったという。家族を全員連れて行くことはできず、とりあえず妻と長男だけで向かった。残されたのがおばあさんと二男三男長女の、計四人であった。
都会での商売は、思ったようにいかず、すぐに茨城へと移ったという。やはりそこでもうまくいかず、今度は宮城県へと移動となる。そこで始めた商売が、思いのほかうまく進んで、かなり恵まれた生活が出来るようになっていたという。そこで新潟に残っていた家族たちを呼び寄せて一家がそろったことになる。
だがその数年後、悪夢が襲ってしまう。日本が戦争という国策に舵を切った。有利に戦えたというのは一時のことで、その後は日本上空に戦闘機の群れが舞い、爆弾を雨のように投下したという。それは仙台市に店を構えていた父の地域にも及び、逃げることだけで精一杯で、家も失い命からがら故郷へ戻ったという。
しかし故郷は当然冷たく、背を向けられてしまう。仕方なく親戚にたよるしかないと、頭を下げて、ようやく豚小屋の一区画を貸してもらえる。そして、なんと僕はその豚小屋で、五男として生まれたのだった。手狭になったらしく、他の親戚の裏小屋に移り、窓のない筵敷き広間で、菓子作りを続けるのであった。
僕が記憶にあるのは、そこでの家族六人の生活からである。 その後、三つ違いの次女が生まれて兄となってしまう。この家に時折、背の高い男が入ってきて、なにやら親と言葉をやり取りしていたが、それが家族の次男であることを、随分あとで知ることになる。僕は菓子の仕入れに来ていると思っていたくらいだ。長男にいたっては、勤め先の菓子店舗で生活を続けていたらしく、まるで面影はなかった。
僕が小学校に通う年齢になった春-。これから必要な制服や帽子、そしてランドセル。これをどうしても揃えなければならない。母が毎日のように近所を回り、お古を貸してもらえないかと、頭を下げていた。同じように頭を下げている人たちがいて、見通しはつかないと首を垂れるばかり。新しいものを揃えるようなお金は、到底都合ができなかったのであろう。
そんな日が続いていたある日。住んでいる小屋の、狭くて暗い入口に「小包でーす」との声があった。手を止めて出て行く母。大きな包みを抱いて戻ってくるや、床筵にそっと置いた。
父が溢れんばかりの笑み。
「開いて見ろ」
おそるおそる手をかける母。
「わあ!ランドセルがきたあ」
名古屋で働いている三男の兄からであった。顔も知らない兄からランドセルと学用品が届いたのだ。声をあげて、とびまわったあのうれしさは、今でも鮮明に覚えている。それは、生涯忘れることができない。顔を見たこともない兄、口を利いたこともない兄、こんな家族の中で育ったのだが、残っている旧家族は僕と長男、姉妹の四人である。 (完)