新連載・権太の地球一周船旅〈海に抱かれて みんなラヴ〉/7月23、24日(25日以降、しばらく休載)
☆お断わり 現在、伊神権太が乗船しているオーシャンドリーム号による102日間に及ぶ地球一周の船旅は、引き続きグアテマラのプエルトケツァル(7月25、26日)メキシコのマンサニージョ(29日)同エンセナーダ(8月2日)の順に寄港し、この後は2週間に及ぶ太平洋のクルージングを経て8月17日朝、日本の横浜に帰航予定です。何度も恐縮ですが、新生「熱砂」へのリニューアルの関係で、本欄〈海に抱かれて みんなラヴ〉の再開は、8月に入ってからになります。よろしく、お願いします。
また、ユーチューブで発信中の「伊神権太が行く世界紀行 平和へのメッセージ/私はいまその町で」は〈中国・厦門(アモイ)編〉〈シンガポール・プーケット(タイ)編〉〈スリランカ/コロンボ編〉〈エジプト編〉の順で既に公開中ですが、何しろ洋上からのアップによる前代未聞の公開となっただけに、苦労の連続となりました。それでもピースボート映像チームの皆さんの協力にも支えられ、横浜に帰航するまでには〈ヨーロッパ前編〉と〈ヨーロッパ後編〉までをなんとか公開したく思っています。
現在、訪問中の〈中南米編〉と〈総括編〉はあまり無理することなく帰国後に、と思っています。公開に当たっては取材などで多くの人々の協力を得られましたことをお伝えさせていただきます。ありがとうございました。
なお、私の今回の「地球一周の船旅」と「平和のメッセージ発信」に至るいきさつと狙い、そして旅先での忘れられないドラマの数々、さらにはエピソードについては、日本最初の民放ラジオ局で知られるCBC様により、8月上中旬にオンエアの予定です。詳しい日時が分かりましたら、またお伝えします。それでは、しばらくの間。さようなら。 ――伊神権太より・グアテマラに向かう洋上にて。7月24日午前
× ×
昨夜(23日)遅く、首都マナグアの革命広場と近くのホテルで行われたニカラグア・オルテガ大統領主催の歓迎会からバスを連らね、帰ってきたばかりだ。現在、24日午前2時(日本時間午後5時)を過ぎた。
少女たちの華麗な民族舞踊には思わずうっとり
緑が多く日本によく似た風景が広がるニカラグア
きのうは昼過ぎに、コリントの港をバス約10台で出発。
片道3時間をかけて現地ニカラグア国家警察車両のサイレンを鳴らしながらの物々しい先導でマナグアの歓迎フェスティバル会場へ。現地あげての彩りも鮮やかな民族舞踊を楽しんだあとは、場所をホテルに移してオルテガ大統領夫妻とピースボート乗客との平和に関する意見討論会が行われた。
日本からは原爆の生き証人や福島原発事故の被災者も登壇。詩人でもあるオルテガ大統領夫人が大統領に代わって「平和のメッセージを携えてのニカラグア訪問に心から敬意を表します。ようこそ」とあいさつ。なかなか改善されない福島原発の厳しい現状などについてピースボート側から報告があったあと、両国とも力を合わせ「核のない世界」実現を目指していくことを誓い合った。
オルテガ大統領は、ちょうど33年前の7月19日こそ、(それまでの独裁政権を打ち破って)オルテガさんたちが立ち上がった記念すべき日であることを強調、「これからは〝世界市民〟として、核のない、原発のない、平和な社会づくりに力を合わせましょう」と呼びかけ「こうして各年代にまたがるピースボートの方々の来訪を見ていると、平和の使者たちのバトンタッチを見る思いで感激しています」と付け加えた。
オルテガさんは、この後、ステージから下り、日本から訪れたピースボートの乗客1人ひとりに手を差し伸べ「共に平和の使者になりましょう」と声をかけて回ったが、私自身もオルテガ大統領に近づき右手で握手しながら「あなたの、きょうの〈核のない平和な世界づくり〉のお話、とても素晴らしかった。こうした〝平和の使者〟たちの存在を、私なりに世界の人々に発信していきます。ニカラグアと日本の両国が中心となり、核のない世界実現を共に目指しましょう」と目を見つめて話すと、オルテガさんも盛んにうなづいてくれたのである。
× ×
先日、今回船旅の助けになったものをあげておいたが、1番重要なもの2つを忘れていた。それは、妻から要所で送られてきた日本の状況を知らせる1枚のファックス用紙と私の母が船旅の前に託してくれた腕時計である。時差が刻々と変わる世界の町角でどれほど役に立っていることか。
2人には心から感謝しておきたい。
そして先日も触れた息子がセットしておいてくれた洋上からの送受信の手だても私にとっては、最強のブレーン役を果たしてくれた。正直言って、これら3つがあればこそ、私の船旅はどうにか持ちこたえてきたのである。
心からありがとう。
★お知らせ(予告) 縦書きにこだわった文学活動を繰り広げてきた私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」では、これまで以上に世界の多くの方々に同人の作品を読んで頂けるよう現在、新生「熱砂」へのリニューアルを進めています。このため作業工程の関係上、7月25日~30日までは本欄・伊神権太の新連載・地球一周船旅ストーリー〈海に抱かれて みんなラヴ〉も休載させて頂きます。作品掲載の再開は8月からを予定しています。どうか、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
平成二十四年七月二十二日
港に詰めかけたコリント市民と吹奏楽演奏で歓迎する地元学生たち=ニカラグア・コリント港埠頭で。22日午後写す
オーシャンドリーム号は、中南米はニカラグアのコリント港埠頭に昼過ぎ到着した。
岸壁には地元小中学生はじめ大勢が詰めかけ、吹奏楽を演奏したりするなどして歓待してくれた。それにしても、過去多くの貧困や圧政などを背負ってきたというのに。ラテンの人たちは何故にこれほどまでに明るく陽気なのだろう。日本では、とても考えられない。
これまでのように午前中の入港とは違うため、けさはいつも通り社交ダンス教室があり、私もいつものように出た。ダンスのあとは、ピースボートのクルーズリーダー・井上直さんが中南米の水先案内人伊高浩昭さんとピースボート共同代表・吉岡達也さんにインタビューする『国家元首たちの素顔』なる企画をのぞいてみたが、興味深く聴かせて頂いた。吉岡さんが、これまでに会ったいろんな国の国家元首の素顔に迫るのが狙いのようだが、中身も良かったと思う。
特にあす、バスで片道3時間の道のりを往復して訪問予定の首都マナグア。ここの革命広場で開催予定の〝ニカラグア・ニホン平和と友好のフェスティバル〟でお会いするオルテガ大統領の素顔など関心も高いだけに、急きょ実現したという好企画は予備知識にもなり乗船者の間で歓迎された。きょうの座談会企画の言葉を借りるなら、私たちはあす貴重な、ある劇的な〝歴史〟と遭遇するわけだが、何といっても、あすのオルテガさんの表情と発言がどんなものか。楽しみにしている。
オーシャンドリーム号は、きょうの午後9時からあすの午前4時まではピースボートからの支援物資の搬出作業のため、いったん離岸し別の埠頭に着岸する、とのこと。これとて、互いの友好の絆を深めるために重要なことだ。
【出会い】きょうのコリント港前広場。わざわざ出迎えてくれた小中学生や学生さんたちに混じり民族衣装もあでやかな女性の姿も。わが子の手を引いて訪れた多くの家族連れも見られた。皆さん、笑顔の出迎えで「あぁ、国際親善とはこういうことなのだ」と笑顔を返しながら納得した次第。
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平成二十四年七月二十一日
写真は水彩画同好会の船内展示会=21日午後写す
今回クルーズのハイライトの1つ、パナマ運河通航を終えたオーシャンドリーム号は現在、次の寄港地であるニカラグアのコリントに向かって進んでいる。日本との時差は1時間広がり、これまででは最高の15時間にまで開いている。こちらは、午後8時半を過ぎた。ということは日本の今は、22日の午前11時半を過ぎたところか。
昨夜は、船室内のシネマキャビンでフランス映画「SALSA」を見たが、フランスの天才ピアニスト、レミがクラシックピアニストの道を捨て大好きな音楽・サルサを弾くためにパリのラテンバンドを訪れるが、彼らが望んでいたのは白い肌のレミではなく、キューバ人ピアニストだった。そしてキューバ人になりきろうとするレミの前に、この映画のもう1人の主人公であるナタリーが現れ、2人でサルサを踊るシーンなど、なかなか迫力があった。
そのダンス教室の方だが、きょうも午前と午後の部に出席。相変わらず時折咳き込みながらも、なんとかステップのコツがのみこめてきた。この調子なら途中、脱落することもなく皆さんについてゆけそうだ。つい最近になり昔、青春の命を燃やした柔道で相手の体形を崩したり、大内刈りや背負い投げなど技に入る際の足の動きがナントナク、ステップと似かよっていることに気付いたからかも知れない。
午後の社交ダンス教室のあとは伊高浩昭さんの【ニカラグアを語る】を聴いたが、そのなかで出てきたのが、ニカラグアが生んだ世界的詩人、ルメンダ・リオ(故人)。ルメンダ・リオと聞けば、なぜか日本を代表するかつての放浪詩人、長谷川龍生(現大阪文学学校校長、元日本現代詩人会会長、歴程賞受賞詩人)は今、日本のどこでどうしておいでだろうか。
文学の世界で私をここまで導いてくださった彼ならば、リオの詩につき1日中、滔々と語るに違いない。詩人である前にジャーナリストでもあったというリオの詩をインターネットで調べてみよう。世界が開けてくるかもしれない。
昨夜、講談社文庫「聖の青春」(大崎善生)を読み上げた。けさ枕元に残された自身のメモ用紙を手に取る。そこには私自身のペンで「私は、それでも一気に読み続けた。気が狂ったように。涙がとめどもなくあふれ出て止まらない」とだけ、書かれていた。
―私の心の中にはいまも村山聖が生きている。……腎機能が停止し、膀胱を摘出され、肝臓に癌が転移した夜も、村山は夢を目指した。将棋は村山にすべてを与えてくれた。村山の心にはいつも将棋盤があり、その上には果てしない青い空が広がっていた。…(エピローグから)
間違いなく、心に迫る小説だった。
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さて、私にとって思い出多い地球一周のこの船旅も1カ月を切った。ここで今後のためにも、これまでに旅の助けになったものを以下に列挙しておこう。
▽パソコン(息子が事前にセットしてくれた船内からの送受信メール、そして「熱砂」への作品アップ手段。ほかに〝nototemari〟のパスワード。家に忘れてきてしまい、横浜で急きょ、長男夫妻のアドバイスで購入したパソコンコードも含む)▽まろやか干し梅▽洗濯バサミつき物干し▽デジカメ、ビデオ、スマートフォン、クレジットカード、ICレコーダー▽横笛とハーモニカ▽自著など(「懺悔の滴」「町の扉―1匹記者現場を生きる」「いがみの権太 〈大震災笛猫野球日記〉」、ほかに吉村昭の「海も暮れきる」など)▽歯の痛み止めと内用薬▽靴(1足だけだったが、英国で1足購入)▽髭剃り機、歯ブラシ、歯磨き▽辞書(特に和文英訳)▽うちわ
これらのうち、パソコン関係は子どもの助けによるところが多く、洗濯バサミつき物干し、まろやか干し梅、歯ブラシ、歯磨きなどの携行は妻の機転の愛によるところが多い。
【出会い】最近、作品アップのためパソコンがアクセスできる場所に行くと、いつも出会う女性がいる。大体、席を空けてくれ、助かっている。「やあ、頑張っていますね。お世話になります」と言葉を交わすだけなので、名前も知らない。
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平成二十四年七月二十日
最後のミラフローレンス閘門が開き始め、太平洋に出る直前のオーシャンドリーム号=20日午後2時過ぎ。パナガ運河にて
アメリカ橋。これを抜けると、はるかな国・日本に続く太平洋だ
私は見たー
何をみたか、と言うと大型船の大西洋から太平洋へのパナガ運河通航の実際を、だ。
ギリギリの水路幅のなかを慎重に、ゆっくりと。一歩一歩、体操の選手が平均台をこなすように前に少しずつ進み、最後に太平洋上のアメリカ橋に出てしまうまでの8~9時間に及ぶドラマ。その実際を、この目でオーシャン・ドリーム号の船上から見ていたのである。
このパナマ運河は、それこそ人間たちの叡知を集めた結晶だろう。右舷、左舷の両サイドを線路上を走る機関車とガトゥン、ペトロミゲル、ミラフローレンス閘門の調整に支えられながら通航。まるで軽業師のような熟達の通航劇には、感動した。
乗客の中には「これでスエズ運河も通ったしパナマ運河も通った。スエズ運河の通航は特に見ごたえがあった。わしゃ、もう言うことない。いずれも天候に恵まれ最高でした」と感激していた方もあったが、同感である。
というわけで、きょうは何回もデッキに出たり船室に帰ったりで、体力的には少々疲れた。でも、パナマ運河通航の実際をこの目で、それも船上から確かめることが出来た。昨日は、というよりも昨夜からきょう未明にかけ本欄〈海に抱かれて みんなラヴ〉の原稿執筆などやることが多過ぎ、時折、咳こみながらの執筆が延々と続き、途中少しだけ船内の居酒屋「波へい」に顔を出した。いったん帰り、また執筆。なんだか、いい小説が書けそうな気がしている。
やっと床に入れたか、と思うまもなく午前5時半過ぎになり、今度は船内一斉放送で「ブリッジよりご案内申し上げます」ときた。耳を傾けないわけにはいかない。「本船はパナマ運河を通航します」とのことで、「過去、パナマ運河最高の通行料は、2008年のノルウェー船籍、9万3000トンで米ドルにして31万3千ドル、日本円だと、およそ3130万円を支払いました…」というもの。私はいよいよ作家三宅雅子さんの小説「熱い河」の舞台が目の前にあり、今回クルーズのハイライトの1つでもあるパナマ運河通航が始まると思うや、デジカメとビデオ、スマートフォン、メモ帳を手に10階デッキへ飛び出した。
デッキに出ると、右舷側と左舷側の両側に、そこにはパナマ運河と並行して機関車の線路が敷かれ、巨大な閘門が視界に迫った。機関車とオーシャンドリーム号の船体はそれぞれ巨大なワイヤーロープでつながれ、常時平衡感覚が保たれている。なんでも、ワイヤで結ばれた機関車が並行して走るのは船体のバランスの安定化を計るのが狙いで、進むこと自体は船自体の力によるそうだ。船を水位調節で階段状に上昇、下降させる最初の閘門が〈ガトゥン閘門〉なのだ、という。私は、デジカメ、ビデオ、そしてスマートフォンの順で自身が納得いくまでシャッターを押し続けた。
この間ピースボートの運航を司るジャパングレイス側も「ブリッジよりご報告申し上げます。これより本船はペトロミゲル閘門に入って行きます。全長1・5キロ。高低差は10メートル、通過所要時間は40分で今度は1段だけ階段を下りることになります。」と
か「本船はいよいよ、ちいさな湖へと入ってゆきます。本日最後の閘門となりますので、ぜひお見逃しなく、ご覧ください」「次は最後の閘門、ミラフローレンス閘門です。全長1・9キロ、高低差16メートル。通過時間は約1時間で水門の扉1枚当たりの重さは500トンです。この閘門は太平洋に抜け出るため、太平洋の水位に合わせなければなりません」とのアナウンスを随時流してくれ、助かったのも事実だ。
きょうは、パナガ運河通航のため、大半のカルチャー教室がお休み。その代わり、「~洋上カルチャースクール~水彩画同好会船内展示会」が開かれている。
【出会い】毎日、毎日多くの人々とあいさつを交わす。大抵は互いに見覚えのある者同士だが、それでも初めてお会いする顔にちょくちょく出くわす。船内生活は、だから面白いのかも知れない。
平成二十四年七月十九日
海から初めて臨むパナマ。そこは緑が多く高層ビルが立ち並ぶチョットした都会の風情で、湾内には多数の碇泊船が見られ、どこまでもお洒落でカラフルな国に見えた。
オーシャンドリーム号は、そのパナマの大西洋側、クリストバルに予定通り、きょうの午前10時に着いた。あすはいよいよカリブ海からガトゥン湖沿いにパナマ運河を経て太平洋に出る。パナマと言えば、1941年にアメリカ合衆国によって開通した全長約80キロに及ぶパナマ運河はあまりにも有名だ。きのうも本欄で少し触れたが、10年に及んだ難工事では日本人土木技術者・青山士も含め、多くの人々の血と涙の結晶があったことを忘れるわけにはいかない。これは作家三宅雅子の小説「熱い河」を読めばよく分かる。
そして、このパナマ運河は各閘門(こうもん)の開閉とそこに貯める水位の調節で、船を階段状に上昇・下降させる「開門式運河」で、26メートルもの高低差を超えていくところが圧巻でもある。
さて、クリストバルに到着したあと、私はオプショナルツアーの「先住民族の人びとと出会う」グループに参加。港をバスで出発し、先日開通したばかりだという高速道路経由でボート乗り場へ。ボートに分乗してエンペラ族のコミュニティを訪問したが、景観を見ながらのボート行は夢紀行のような錯覚にさえとらわれた。ボートを降りると、そこは裸の風俗習慣が当たり前のエンペラ族の集落で到着するや、私たちは踊りや笛、太鼓の器楽演奏で手厚くもてなされた。
踊りと器楽合奏で手厚く歓迎された=19日午後、エンペラ族集落入り口で
それこそ、素裸の交流に笑顔と歓声が上がった
歓迎のあいさつのあとは、さっそく昼食をごちそうになったが葉っぱにくるまれた蒸しごはんに焼き鳥、パイナップル、バナナ、洋ナシジュースのおいしかったこと。それこそ、ほっぺが落ちそうだった。引き続き、集落内を散策したあとは交流に移ったが、やはり交流の主役は音楽と器楽演奏、そして現地の人たちの開放的な踊りの数々だった。
器楽演奏では太鼓をたたく人たちと一緒に横笛をふく現地人がいたので、私は横笛を持参しなかったことを深く後悔(荷物が多くなるので必要最小限の所持品にしたのがいけなかった)。代わりに持参したハーモニカで〈蛍の光〉や〈仰げば尊し〉〈浜辺の歌〉など数曲をふくと、大喜びしてくれ嬉しく思った。
横笛は持参しなかった自分への罪と罰として集落の土産物店で日本の篠笛と同じものを5ドルで購入した。でも、穴が7つしかなく私のより1つ少ない。これでふけるだろうか、とちょっぴり心配である。
先住民族の家は茅葺きの家ばかりで通気といい、居心地は最高にステキに思われた。集落内をガイドの案内で散策中には、ナマケモノが木の上でゆっくり、ゆっくりと体を動かしている現場を生まれて初めて目撃。ボートで帰る道すがらには大学ノート大のカメさんに遭遇する幸運にも恵まれた。だが、何といっても一番楽しかったのは、集落の子どもやお母さんと手をつないで楽器の曲に併せ、いつ知れずとも知れないほどに踊り狂いとおしたことだろう。
おかげで午後7時に船に帰った時には靴もズボンもビショビショ、シャワー室で洗うだけでも30分以上かかったのである。そんなわけで、19日付本欄〈海に抱かれて みんなラヴ〉の執筆は深夜にずれ込み、たった今=19日午後11時半過ぎ=やっと書き終えたので遅いアップとあいなった。お楽しみの方には、ご容赦のほど、よろしくお願いします。
おかしなもので、いろいろしなければならないことが多かったせいか、風邪はどこかに飛んで消えていきそうだ。このまま消えてくれたらいいが。今宵は「波へい」に行って少しだけ1人酒を飲もう。あすは、いよいよ今回地球一周船旅クルーズのハイライトの1つでもあるパナマ運河を航行する。
【出会い】きょうは、エンペラ族のほとんど素裸といって良い人たちと一緒に気が狂うほどに踊ることが出来、これに尽きる。ちなみにパナマの総人口は300万人。うち40万人が先住民族で7つの部族に分かれている。エンペラ族に教わった言葉はただ一言「サワ・ドゥアン」。これは「元気ですか」という意味で、スペイン語なら「コモ・エスタス?」に当たるそうだ。きょうの歓迎ぶりには、それこそ素裸で、心が開かれた感じがする。
平成二十四年七月十八日
いやはや、長丁場の船旅だ。いろいろある。
昨夜は、これまでの船内生活で意気投合した高年カップルが〝結婚〟にゴールイン。男性が学ぶ英会話教室の仲間が中心となり有志約20人が集まり、お披露目の宴が船内レストランで開かれた。
尾崎夏子さん(中央)と酒井さん(左端)
晴れて一緒になられたのは元東京都庁職員の尾崎夏子さん(65歳、東京都中野区)と元会社員酒井功一さん(62歳、同荒川区)。いずれも独身。
なんでも2人はスリランカでのオプショナルツアーでたまたま知り合い、その後雑談を交わすなか酒井さんが「ボクが死んだら遺骨を世界の海に散骨してほしい」と言ったところ、尾崎さんも「アタシもお墓になんか入るのはいやだから。いいわよ」と散骨を約束したことが、そもそもの馴れ初めらしい。
交際はその後も続いたが、急接近したのは元々胃かいようを患っていた酒井さんがアイスランドのレイキャビクで、船室トイレに大量の血を吐血したのがきっかけだという。船内医に船内入院を勧められたが、尾崎さんが「私が酒井さんの介添えに当たります」と自ら看病を志願。いらい、点滴スタンドを室内に持ち込み、3日3晩付き切りの看病に当たり酒井さんは無事、回復したという。
この間、尾崎さんも4人部屋を引き払って酒井さんの船室(1人部屋)で同居を始めるなど多くのドラマの末のゴールインになった。いずれにせよ、おふたりには心からおめでとう、と祝福したい。酒井さんは「この人は私と一緒で、死んだら海に流してもらいたいそうです。〝千の風〟になりたいのですよ。最初、初めて会った時、ボクより10歳ほど年下だろう、と思っていましたが。まさか姉さん女房だったとは」と破顔一笑。尾崎さんも「入籍などはせずに、互いに気ままに。自由な形の新しい時代の夫妻でいたいですね」と話している。
きょうはパナマ入港を前に、伊高さんの【パナマ情勢】を聴いたが、これまでの講演のように映像によるところがなく、話だけなので少し分かりづらかった。私は初めて質問。「パナマ運河開削に当たっては多くの人々が雇われた、と聞いている。そして、その中には日本人ではただ1人の土木技術士・青山士もいたが、彼の役割と開削の歴史を教えてほしい。そしてパナマ運河を泳いだ人からは36セントを徴収したというが、36セントの根拠は」と質問したが、伊高さんらからは納得ゆく答えは得られなかった。
もしかしたら、青山士の名前自体、私の質問で初めて知ったのではないか。知らないなら知らないで「これから勉強して、お伝えしたい。」となぜ、答えられないのか。「パナマ運河史という本があるので、それを読んでいただけたら」など答えになってない。これでは何のための水先案内人なのか。何のための質問だったのか。
この船旅も、あと一カ月を残すだけとなった。1日1日を大切にしなければ、と思う。
きのうは体調が悪くて午後のダンス教室を初めて欠席したが、その後体調も回復したので、きょうは2回とも出た。ダンスの基本がステップにあることをしみじみ感じている。あすの寄港地・パナマのクリストバルからは、オーバーランド組「アンデスの空中都市マチュプチュ8日間の旅」に向かうグループもある。それこそ、コンドルは飛んでゆくーの世界への旅立ちである。私はオプショナルツアーの「先住民族の人びとと出会う」に参加するが、バスで港を出発しボートに分乗してエンペラ族のコミュニティーを訪ねる、ということで今から楽しみだ。
平成二十四年七月十七日
きのうから全身が痛くて、鼻が詰まるなど。またしてもひどい風邪をひいてしまった。「また、風邪を引いたの。ほんとに弱いのだから」とまたまた美雪に叱られそうだ。きのうは外出先から帰った時、猛スピードで走ったこともあり、汗で全身びしょ濡れになった。だから、あの時、帰船すると同時に船室でシャワーに当たれば良かった。ビショビショになったまま、あれこれと余分なことをしていたので風邪にやられたのである。だから今朝のダンス教室は死ぬほどえらく、ティッシュやハンカチを手に鼻を押さえながらの難行苦行となった(午後の教室は、とうとうダウンし欠席した)。
私たち平和の使者を乗せたオーシャン・ドリーム号は昨夜9時過ぎ、多くの思い出と友情を積み込んだベネズエラのラグアイラの港を出航曲「Freedom」が流れるなか、出航し次の寄港地であるパナマのクリストバルに向かっている。出航時には、それこそ旅愁を感じた。ラグアイラの町の、陸の明かりがネオンに輝き、出航曲が流れるなかでの新たな旅立ちは本当にステキだった。
本日付船内新聞・伊高浩昭さん=元共同通信中南米記者で詩人=の署名入り記事によれば、ベネズエラでは10月7日に大統領選挙があり1999年以来、政権にあるウゴ・チャベス大統領が4選を果たして連続20年の長期政権を目指す。彼は21世紀型社会主義建設を掲げ、建国の父、シモン・ボリバールの遺志を受け継ぎ〝ボリバリアーナ革命〟と名付けた改革政策を実施。これに対してチャベスに政権を奪われた旧支配階層(富裕層)はことし2月、初の野党統一候補としてエンリケ・ガブリレスを指名し一騎討ちの様相で、両陣営の熱気は高まる一方だという。
× ×
市民市場は多くの人々でにぎわっていた=16日午後、ラグアイラ市内で
水揚げされたばかりの巨大な魚の数々には、目をみはった
きのうは、チョット怖い思いした。
午後、1人でラグアイラの市街地の果物や肉屋さんなど市場をぶらつくうち、足は自然と魚市場へ。なかを見て回る途中、水揚げされたばかりの巨大な魚の数々に足を何度も止め写真撮影をしていると、いきなり男が私の前に立ちはだかった。
「ワンダフル、ジスフィッシュ、メニィーメニィー ワンダフル」と言って場を取りなおそうとしても言葉が分からないとみえ、ヒゲの男が食ってかかって2本指を立てて金をせびってきた。それまで市場の誰もがニコニコ顔で写真撮影に対してもOKと言ってくれていたのに。1人だけならず者が居た感じで、心理的にはいきなり崖から突き落とされそうになった感じだ。
私は何とかこの場を逃げ出さねばと思い、とっさに仕草を交えて「エニウエイ ジスフィッシュ イズ ワンダフル ソウ アイ テーク ピクチュア」と話すと、男は言葉は分からないながらも突然、気分を直し「俺はイスパニア語しか分からない。英語とチャベス、チャベスなんて。大嫌いだ」と話しながらも、手招きで「案内してやる」と、市場横のレストランへと私を強引に導いた。
この男、私より体はかなり大きい。でも、腕づくなら(講道館柔道3段のたしなみから)一発で投げ飛ばすことはわけない。かといって、大衆の前で事を荒立てるわけにもいくまい。どうしていいものか。
「やはり、金か何かをたかろうとしている」。
そう直感した私は現地通貨の有り金全部、すなわち65BSFをあらかじめ見せて食べるふりをし「オンリージス。これだけしかない。このお金の範囲内で」と何度も念押しをした。男も「OK。ノーグラシャス(心配ないから)」と同意し、しぐさで仲直り? して「俺がごちそうする」とまで言って勝手に魚の巨大テンプラのようなものとビールなどを注文。私も仕方なく、食べることにし「あなたも」と言って一緒に食べたまでは、よかった。
いざ、支払いの段階になって男の態度はガラリと豹変、食事が終わって男から手元に見せられた金額は、ナント予想をはるかに超えた高額。これでは話が違う。払いようがない。第一、持ち合わせてない(ベネズエラは現地通貨しか使えないので、事前に両替えした分しか持たず日本円もドルも持参してなかった)。それにこの請求書のなかには、男の飲んだドリンク代も入っている。そんなにいらない、と言ったのに。男も魚料理を一緒に食べたではないか。この理屈からいけば、事前にお願いした65BSFあれば十分のはず、と言って帰りにかかると、男はとんでもない剣幕で金をせびり始めた。
あなたは当初、それだけあればお金の心配はないからーと言っていたじゃないですか、とやり返しても、なにしろ肝心の会話がスパニッシュと英語では、チンプンカンで何が何やら分からない。それに相手はたかるのに一生懸命だ。そのうち「帰ります」と言って席を立つと、男は猛烈な剣幕で私を追い回してお金をせびってきた。「ないものはない。それでは高すぎる」と言うや、私は手持ちのお金をそっくり投げるようにして手渡し、「これであるはずだ」とだけはっきり述べて店を離れた。
それにしても、とんでもない男と出会ったものだ。アレは明らかに最初から〝たかりや〟だ。いやはや、態度を豹変させて金をせびり始めた男のあの表情は思い出すだけでも、ぞっとする。ベネズエラは治安が悪いので十分注意なさってください、とはこういうことだったのだ。飛び道具でもぶっぱなしかねない剣幕だっただけに貴重な経験をした。私の逃げ足も信じられないほどに速く、彼の大声で威圧する声だけが風に乗って消えた。
結論から言えば、1人だけで行動するときには、もっと慎重に。そして現地通貨も多めに持参する必要がある、と自戒した次第だ。
そのためにも、これからはスペイン語も少しはマスターしよう。語学が出来れば、もっと早く男から逃れられていたはずだ。
いずれにせよ、ベネズエラでの2日間は乗客のみんなにとっても、思い出多いものとなった。オプションツアーの内容も芸術都市・カラカス訪問からアフロベネズエラの文化体験、ベネズエラの教育を考える、真実の報道を求め市民メディアの闘い、ベネズエラの子どもたちと交流、医療から見えるベネズエラ―など。多岐に及び、みなさん多くを学ばれた。
【出会い】ピースボートに乗るのは、今回が7回目だとおっしゃる大草由紀子さん=東京都中野区東中野=と夕食の席でお会いした。例のサッちゃんの紹介で、あいさつさせて頂いたが、とても「80歳」には見えず、若々しい。毎日歩くのが日課です、とのこと。
10回達成を目指されたら、の問いには「この船には、68歳から乗り始めたのですが。今回でやめることにしているの。娘が心配するから」との返事。「でも、お若いから。まだまだ大丈夫ですよ」と言うと「そうね。状況次第では、ネ」とトーンが替わられた。
今の日本の繁栄は、こうした女性たちのパワーのおかげがあればこそだ、とふと思った。
平成二十四年七月十六日
きのう午前中に本欄〈海に抱かれて みんなラヴ〉をアップしたのち、1人でベネズエラのラグアイラ市内に出てみた。歩いていて気がついたのは、銃をかついだ兵士が2人1組となり至るところ見受けられたことと国民的英雄でもあるチャベス大統領のポスターや紹介パネルが、これまた町の隅々で見られ、むしろ親しみさえ感じたということだ。
スペイン語の新聞も購入したが、やはりここにもチャベス大統領の顔があふれ、もはや彼はこの国の象徴的、神格化された【ベネズエラの顔】であることが、よく分かる。私は、港の見える丘に立ち並ぶ商店街を中心に約二キロ四方にわたってゆっくり、ゆっくりと歩いてみたが人々の生活は日本と変わらず、家族とくつろぎ幸せそうな顔が随所で見られた。タクシーも、乗合バスも、道行く人々も、何事もない町を何事もなく、歩いている。この国はいま、平和なのだ、と実感した。
【ベネズエラの顔・チャベスさん】には、どこでも会うことができる=ラグアイラ市内にて
途中、わが子をあやしていた夫婦連れに写真を撮ってよいか、と聴くと大歓迎ということで何枚もパチパチと撮り、その場で画像を見せるとすごく嬉しそうで私までが、なんだか楽しくなってきた。言葉は何ひとつ分からない。でも、人間と言うものは身ぶり手ぶりのジェスチュアという、心だけの会話で互いに意思が通じるいきものであることをつくづく感じたのである。
少し早く港に戻った私はターミナルのベンチに座り、久しぶりに海に向かって持参の横笛をふいてみた。〈酒よ〉を手始めに、〈さくらさくら〉〈越後獅子〉〈よさこい節〉〈笛吹童子〉…と順番にふいてみたが、音はすぐに馴染んで異国の町の空と海、そして大気に染まって〝かぜ〟に流れ、自分の分身が、この国に融けこんでいったようで、うれしく思った。
夜は、港に近いフェスティバル会場で歓迎ムード一色のなか、地元バルガス市長とバルガス州知事も出席し〈ベネズエラ&日本 友好と連帯のフェスティバル〉が行われた。全員が立って地元青少年オーケストラによるベネズエラ国歌とバルガス州歌の演奏のあと、市長らがあいさつ、ピースボート側から楽器などの支援物資の提供が行われたが、最前列に座った私たちに折り鶴の絵とともに〈ベネズエラ&日本 友好と連帯のフェスティバル〉と描かれた白い帽子がベネズエラ側から1人ひとりにプレゼントされ、感激した。
フェスティバル冒頭の式典歓迎の言葉では、市長が「平和のメッセージを携え、平和の使者として、世界各地を回られるピースボートの皆さん、ようこそ。皆さんのこの行動が世界平和をもたらします。ここで互いに大きな手を広げ、『平和』の抱擁をしたく思います」と。続いてステージに立った州知事も「チャベス大統領の名のもとにこの国を代表し、日本の皆さまを歓迎したい」と挨拶。
これに対してピースボートの吉岡代表も「日本の市民として感謝します。今回のピースボートには4人の福島県民も乗船しています。原発事故が起きたフクシマで今、何が起こっているのか、をきちんと世界の人々に伝えたく思います。命をもっと大切にする世界にしましょう」と力を込め、それぞれに心が感じられ、とても嬉しく思ったのである。
【出会い】港に戻ってきたところで、これからラグアイラ市内に出かけようとする居酒屋「波へい」のアリたちインドネシア人クルーとバッタリ会った。日本の横笛を見せると大喜びだったが、演奏する手と口のポーズだけに留めてふくまではしなかった。いずれ、演奏しなければ、と思っている。やはり、外出する時はみんな仕事を忘れてニコニコ顔である。
平成二十四年七月十五日
オーシャンドリーム号は、けさ中南米ベネズエラ・ラグアイラのテルミナル・マルティマ・デ・ホセ・マリア・バルガス、通称ボリバリアーナ・デ・プエルトスに着岸した。あす16日までのラグアイラ滞在中、芸術都市・カラカス訪問や音楽教育システム『エル・システマ』の魅力にせまる、ベネズエラの教育を考えるーなど数々のオプショナルツアーがあるが、今回は1人で町歩きをするなど、のんびりしようと思っている(実は「ベネズエラの教育」を申し込んだ時には、既に定員オーバーだった)。
きょうは朝、ボリバリアーナ・デ・プエルトスに着岸するや、ベネズエラの女性や子どもたちがにこやかな踊りで歓迎してくれ、なんだか胸が熱くなった。そして最初のこの国の印象は、想像していたのとは違い意外や、緑が多いことだった。
ベネズエラは緑に包まれていた=15日朝、ボリバリアーナ・デ・プエルトス港にて
歓迎の踊りを披露してくれた地元女性たち。みなさん、キラキラと輝いていた
昨日午後、楽しみにしていた「対談八木啓代×リサ・サリバン ラテンアメリカの教訓から学ぶべきこと~ワーキングプア、消費税増税、TPP問題を考える~」を聴いたが、八木さんの『日本のマスコミは政財界にコントロールされ何も書けない』といった一方的な見解には、これまでそれなりに彼女を評価していただけに、少し疑問を感じるというか。幻滅し、がっかりした。
それこそ、日本のマスコミを思い込みから頭から愚弄するもので、これまで平和精神に徹し敬意を表してきたピースボートの対談にしてはアレレッ、と首をかしげた乗客も多かったに違いない。なぜ、こんなことを書くか、と言うと対談のあと「あの八木さんの発言、少し決めつけ過ぎではないですかね。日本人として不愉快に感じました。同じ日本人なのに何ですか、あの発言は。権太さんは、どう思われます」といった指摘を5、6人の人からされた、ためである(私が元新聞記者だったからかも知れない)。
確かに権力に弱い社もあれば記者もいる。政治部や経済部のなかには、権力の言うなりに報道している体たらくな、メディアもあるにはある。この点では部分的に当を得ている。でも、大半の記者たち(放送界含む)は権力にこびることなく、日々、世のため人のために、と健筆を奮っている。何も知らないヒヨッコにとやかく言われることはない、のである。福島原発でどこのメディアもメルトダウンを書かなかった、と断言されたが、あなたは新聞のどこを読んでいたのだ、と言わざるをえない。(ドキュメント方式で書いてある社もあれば、いち早くメルトダウンか、と憂えて書いた社もある)。
特に私がかつて勤めた東京新聞(中日新聞)の記者たちは社是〈真実、公正、進歩的〉を胸に権力に屈することなく論陣を張ってきている。
八木さん、もしかしたら、あなたの付き合っているマスコミ人は権力に毒された、弱い人間ばかりなのでは。だから、ああした軽率な発言となるのでしょう。それとも、日本のマスコミに恨みでもあるのですか。各新聞社の名前や新聞記者、弁護士の友人から聞いたなどと第一、口が軽過ぎる。ネタ元をそんなにペラペラとしゃっべって良いのですか。
「友人の記者が、弁護士が、元特捜検事が、こう話していた」などと滔々と並べ立て、背伸びをした自分の発言がいかに幼稚で安っぽくて甘いものか。胸に手をあてて、よお~く考え、これから安易な発言はやめてほしい。乗客に対しても失礼だ。
かつて足を棒として調べて回り、何度か権力者を引きづり落とした=調査取材と言います=私としては無知な勉強不足の人物から、とやかく言われたくはない。むしろ、記者としての感覚から言わせてもらえば、あなたの中にこそ、危険なにおい、温床のようなものを感じる。それとも、ピースボートのなかに、はびこる何かがあるのか。取り越し苦労なら、よいのだが。まことに嘆かわしい限りだ。発言に至る根拠を本気で取材し書かせてもらいましょう。いつでも受けてたちます。
皆さん、大枚をはたいて真剣な決意で家族と離れてピースボートに乗ってきた乗客です。その前で「今度は北極圏へ、ただで乗せてやるから」と言われ「マスコミに追い回されているさなかに、この船に乗った」とは、思い上がりも甚だしい。
きのうの対談を聴いた限り、撤回がない限り、私は今後いっさい八木さんの話を信じない。それとも誰かの弱みを握って、この船に乗ってスター気取りでいるのか。私には、そんな感じがしてならない。今後、発言には十分注意をしていただきたい。
× ×
それに引き替えリサ・サリバンさんは、違う。彼女の発言は、十分納得のいくもので聴くものの心に染み入る説得力があった。あまりの人間性の落差に、八木さんの発言になんとか合わせよう、とするリサさんが健気にさえ見えた。
それでも、リサさんはこう言ってのけた。
「日本で尊敬するのは憲法9条です。私が思う日本は、そもそも平和な国というイメージで、日本は大変、平和な国です(この点では日本の場合、ある程度マスコミ本来の使命が機能しているからだ、と思う)。それに引き替え、米国は戦争を持ち込んだり、軍を持ちかけたりしています。私はラテンアメリカに35年住んでいることもあり、アメリカのやることに胸を痛めています。少なくとも、日本は軍を使って制圧することはない。だから世界の人々は日本を見習う。そのためにも、これからピースボートの役割はますます重要になってくるのです。(中略)〝平和〟をひと言では語れません。でも、平和の質的な面から、日本の皆さんは大変よいものを持っている、と思います」
そんなことよりも、きょうは久しぶりにのんびりし新しい作品の執筆にでも取りかかろう。本も読まなければ。夜には船内でバルガス・ラグアイラ市長らも出席しピースボート側から支援物資の贈呈がされたあと、〈ベネズエラ&日本 友好と連帯のフェスティバル〉があり、オーケストラの演奏やピースボートからの合唱と和太鼓披露、サルサバンドの演奏などが予定されている。チャベス大統領のもと、これまで言われなき米国の抑圧や一方的ともいえる金融出資、クーデターをはねのける、など苦難の道を自分たちで切り開き、今の平和に辿り着いたベネズエラの人々の演奏を今から楽しみにしている。
【出会い】夕食の席で(以前にも本欄に登場した)関西は高槻市のドラゴンズファン・ウシさん(牛田さん)夫妻と同じ席になり、プロ野球を中心に「中日の大野投手が初勝利をあげたそうだ」などと、あれやこれやと話し合った。ウシさんの奥さん曰く「私はネ。いつも主人の後ろを半歩下がって歩いているのですよ」と。聞けば、ウシさん。トラック野郎で40年間を務め上げ、日本の国内ならたいていの道は分かるそうだ。こういう方こそ、本物である。着飾った偽者とは格段に違う。
平成二十四年七月十四日
オーシャンドリーム号は、その後も〝バミューダトライアングル海域〟東の大西洋をどんどん南下、プエルトルコ沖から浅瀬で知られるバハマ諸島海域も超え、昨夜の間にカリブ海に入った。いまはガルフストリームと呼ばれるメキシコ湾流(暖流)のなかを進んでおり順調なら、このままカリブ海を縦断してあすの朝にはベネズエラのラグアイラ港に到着する。中南米が、もう目の前だ。
きのうの航路説明会の説明によれば、私たちはアイスランドのレイキャビク出航後に立ち寄ったグリーンランド沖、北緯66度33分以北の北極圏遊覧も含めれば、実に7778キロ(4200マイル)もの距離を(きのう現在で)12日間のクルージングで南下してきたことになる。
けさ、オープンデッキに出てただ1人、海を見ていたら、海面にキラキラ光る、金色の粉のようなものがフワフワと浮いているではないか。私は思わず「わあ~、きれい。なんて、きれいなのだ」と見とれた。
海流がメキシコ湾流に替わったからなのか。どこまでも青い波の間に、金色の薄い絨毯を広げたような線が次から次へと浮いては海のなかに消えてゆく。よく見ると、藻のようなものが陽の光にキラキラと浮遊し、それが線となって波間に幽玄の異界を現出していた。私はしばらく見とれたまま寄せては返す海のなかに、金色の光線のようなものを何本も探し、いつまでも佇んでいた。
ボランティアの協力もあってリサ・サリバンさんのラテンアメリカの話が楽しく進んだ
中南米への寄港を前に、きのうは7階前方のブロードウェイで平和活動家リサ・サリバンさんの「ラテンアメリカ諸国の新たな選択~地域統合~」を聴いた。ボランティアの若者たちが出演、過去40年間の中南米諸国の苦難と忍耐、そして成長の歴史が演劇形式でまとめられ、その内容は、分かりやすくなかなかの出来だった。
1960~70年代の軍事独裁時代から80~90年代の米影響下の経済制裁時代、そして2010年代の統合時代へと移り変わっていった中南米諸国。これら変遷過程を若者1人ひとりがキューバやエルサルバトル、ホンジュラス、ニカラグァ、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、ボリビア、ブラジル、パラグァイ、アルゼンチといったの〝国の役〟を演じていく方法で進められていった。
おかげで、これまで長年続いた軍事独裁のあとも、(リサさんが言うには)米国の抑圧と国際通貨基金や世界銀行の身勝手な出資下で苦しんできた中南米諸国にも、最近になって〝アルバー〟と言われる米州ボリバリ同盟や、南米諸国連合、〝セラック〟と言われるラテンアメリカカリブ諸国共同体が生まれてきたーという話もよく分かり、中南米の人々が、これまでどれほどにまで米国の抑圧下に耐えて来たかも同時に痛感したのだ。
【出会い】一昨日夜、津江慎弥さん=藤沢市在住=の誕生会があり私も出席したが、奥さま美也子さまから伺った中日ドラゴンズ・山本昌投手に関する重要な話を書き忘れていた。話は、こうだ。
―私、実は日大藤沢高校購買部に28年務めていたのです。マサくんは、高校時代から知っています。弟さんが、野球部の監督をなさっています。ドラゴンズに入ってからだって、学校には何度も来られ「お帰りなさい。また、きてね」「おばちゃん、また来たよ」だって。よく軽口を交わす仲なのです。マサくんとは記念写真を撮ったことも何度かあります。マサくんには、今シーズン、〝日本のプロ野球の星〟として、ぜひ頑張ってほしい」
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昨日、9階デッキで昼食を食べていて、たまたま向かいに座っていた若い女性に挨拶代わりに「どこから、おいで?」と何となく聞いてみた。そしたら、ナント彼女曰く「滋賀県長浜市からきました」と。なんだか、同郷の方に会ったような気がして嬉しく思った。長浜と言えば、新聞社の大津主管支局長当時に真冬の盆梅展や黒壁の町などを訪ねた日々が懐かしく思い出される。『何かあれば、遠慮なさらず連絡してくださいね』と言って別れた。長浜、と聞いただけで親近感を覚えるのはなぜか。