「心の声が聴こえる」伊吹
鏡で自分の姿を見ても、それは他人の見ている自分ではないという。自分には、自分の姿が見えない。
これまで、私という人間が、人にどう見られているか、他人にどういう印象を与えているか考えることがなかった。自分を良く見せようなんて考えていると、きりがないし、自意識過剰みたいでカッコ悪い。たとえ残念な自分であってもそれが私なのだから仕方がないし、出会った全ての人に好かれるのも無理な話だし、カッコイイ自分を見せて期待されるのも重いし、私は私のままでいい。この思いはずっと変わらない。
だから、声の診断なるものを受けて、波動が「社長タイプ」であり「ストレスがたまっている」と出た結果はいいとして、「見た目と全然違いますね」と言われたことの方が気になった。
私、あなたの目にどんな風に映っていますか? と聞くと、「ほわっとした大人しいタイプ」に見えるのだという。へえーっ。そうなのか。当たってはいるけれど……。そんな風に見えているとは自覚していなかった。
これまでの人生でよく言われた言葉がある。
「アナウンサーになれば良かったのに」といった、人前でマイクを持つようなことが合うのではないか、というアドバイスである。そういった仕事には興味がなく、むしろ避けていた。
しかし、マイクを持たされた経験も幾度かある。台本を読む、ホールで何かの会の司会進行。結婚式のスピーチ。どれも性に合わないと思っていた。その心は「自信がない」の一言につきる。
幼少期から人前での発表が苦手だった。どこを見て話せばよいのか分からない。膝がガクガク、心臓がバクバクする。1対1や少人数なら大丈夫で、むしろ楽しめる。仕事でさまざまな人に会うけれど、初対面でズバズバ聞きたい事を聞き、切り込むずうずうしさも持ち合わせているのに。
令和3年度は、避けては通れない役員が回ってきた。自治会と子ども会である。どちらもよく知らない人たちの前で意見を述べたり、発表したりする場面がある。
これからの人生、逃げ惑うのではなく、自信のなさを克服し、人前で堂々と話せるような、カッコイイ自分に生まれ変わりたいと思い、話し方とボイストレーニングの講座を受講した。見た目については人からどう思われようが気にしないけれど、声に関して自信が持てないのはなぜか。声には、内面が表れる。自信のない自分が、あからさまに現れてしまうのだ。いざ、話し出す前に浮かぶ様々な不安なこと。これは、私が抱く恐れの感情だ。
人前に出る際の、足取りは変じゃないか。立ち方はこれで合っているか。話し始めてから浮かぶ雑念。声、低すぎないか。早過ぎないか。話の内容が変じゃないか。長くないか。なんでこんなに笑って話しているんだろう。変な人だと思われていないかな。さまざまなことを思いながら焦る自分を自覚しつつ、話を切り上げる。
その不安を講師に伝えると、全く変じゃないという。取り越し苦労だった。これまでの人生で「あなたの話もようすも変じゃないですよ」と言ってくれる人が現れていなかっただけの話だ。他の受講生の発表を聞いても全然変じゃないのに、皆さん自信がないとおっしゃっていた。
声に自信が表れる。音が自分自身を象徴するツールであり、その不安が波動となって、言葉とともに人に伝わる。人前での発表は、内容もさることながら、立ち方、表情、声にこれまでの人生が凝縮されて人前にさらけ出される、ある意味恐ろしい行為なのだ。
それが分かるにつれて、やはり暗かった幼少期が、大人になった今でも翳を落としていることに気付いた。発表する勇気のなかった自分。逃げてばかりで努力を避けていた自分。テクニック的なものはほとんど問題ではなかった。まだ私の中に癒やされていないインナーチャイルドがいたことに気付いた。
まずは「頑張ったね。声も発表も、とってもいいよ」と、いたわってあげようと思う。(完)