「酒にまつわるエトセトラ」 光村伸一郎

 酒にいい思いではない。おまけに飲酒取締りのこの御時世だし飲む機会はどんどん減っている。飲むのは勢いを要する創作の時だけと決まっていて普段はあまり飲まない。どちらかと言うとなるべく酒とは距離を保ちたいと思っているのである。
 俺は以前、老人介護という低賃金のわりに責任が重く、世間一般でとてもやりがいがあると思われている仕事をしていたが、その仕事を失くした原因も酒だった。若かった俺は前日の明け方までバンド仲間と飲んでいてその足で仕事に行ったのである。一睡もせずに。おかげさまで目は真赤で意識は朦朧としていて吐く息と汗は酒臭く、気分は最低だった。だからと言って他の従業員が俺をとがめるようなことはなかった。その頃俺が働いていた施設はバブル崩壊のツケで就職できなかった若いヤツらや、不況のあおりで会社が倒産して、行き場を失ったようなヤツらが多く、誰もその程度のことでは文句を言わなかった。好き好んで仕事をしていたのはフローレンス・ナイチンゲールを崇拝しているごく一部の女だけだったし酒飲みも多かった。
 当然その日は朝からきつかった。施設特有のまずい飯の匂いや、ジジィやババアのクソの匂いに徹夜と酒で弱った胃が刺激されて何度も吐きそうになった。かといって深酒をしたことには何も後悔を感じなかったのだが。それより俺が後悔していたのはこんな仕事にしかつけない自分に対してだった。病室の暗さとそこに立ち込める匂いが俺をより卑屈にさせた。二日酔いの翌日はとかくヤケになりやすい。
「たかだか十数万のはした金のために一体なんてザマだ。どこから我が人生は狂い始めたのか? 生まれた時から? なんで俺はヴァイオリン弾きや弁護士になれなかった?」
 そんなことをつらつらと考えながら病室でシーツを代えたり、オムツを代えたりしていると、いかにもブルジョワといった感じの家族が見舞いにやってきた。母、娘、父、息子という家族構成で、ケバケバしい色をした高そうな花の束を持っていた。
 連中は寝たきりのババアの横に座ると、とってつけたかのような鎮痛な面持ちでそのババアを見つめた。俺の頭の中を偽善という言葉がよぎった。幼い娘と息子は何でこんなところに来なきゃいけないのよと思っている様だった。俺は施設に面会に来る他の家族を見て思うことをこの家族に対しても思った。そんなに悲しそうな顔をするならこんなところにぶち込まなきゃいいのにと。手に負えずに施設にぶち込んでおいて、いざ、その爺さんやら婆さんやらに何かがあるとキチガイのように喚き散らすのはこの類のヤツらだ。「最愛の父を返してください!」とか「最愛の母をなんだと思ってるんですか!」とかぬかして。俺はなぜだかラム酒がむしょうに飲みたくなった。童謡を聴きながら。
 その家族はバアさんの耳元で月並みな言葉を一通り吐くとすぐに出て行った。奥さんがさかんに旦那に何かを言っていたが気にはしなかった。するとしばらくして施設長がやってきた。その施設長は他の従業員とちがってかなりいい車に乗っていて、残業代を払わないハンバーガー屋の経営者を崇拝していた。
「おい光村」と施設長は言った。「おまえは一体どんなつもりなんだ」
 俺は院長を横目でにらんだ。犬を呼ぶかのようなその言い方が勘に触った。二日酔いと睡眠不足ゆえのイライラが頂点に向かって暴走を始めるのがわかった。俺は何か辛らつなことを言ってやろうと考えた。
「今、御家族からクレームが入ったぞ」と院長は言った。「おまえが・・・・」
 俺は施設長をさえぎって言った。「あんたがチンピラくさい黒塗りの外車に乗ってるって言ってだろ?」
「おまえは俺を怒らせたいのか」
「もう怒ってるじゃないか」
「おまえは自分のしている仕事がどれだけ重要かわかってないみたいだな。人の命に関わることだぞ。酒の匂いをプンプンさせながら働くとは何事だ」
「その割に金が安いよな」俺は言った。「責任だけ重いくせに。俺達に還元はなしか?」
「おまえは金のことしか頭にないのか」
「あたりまえだ。働くっていうのはそういうことだ。あんただってそうだろ」
「おい。俺はおまえを使ってやってるんだぞ。何だその口の聞き方は」
「トヨタ自動車で使われたかったな」
「何?」
 もうここからは書く必要もないだろう。俺はあなたが思うように売り言葉に買い言葉で仕事を辞めるはめになった。どこにも行く当てなどないのに。
 おかげさまで俺は一万ピースのジグソーパズルを組み立てるよりも面倒くさい職探しをするハメになり、散々自尊心を傷つけられるハメになった。そんな俺を見限って、付き合っていた娘も去っていった。三ヶ月で仕事を辞めるような男は最低と言って。そいつは俺と別れてすぐにウスラバカの配管工と付き合い始めた。脳ミソも面白みもないが安定した収入だけはあるという男と。酒が招いた悲劇だった。
 それから三ヶ月ほどして手取りで十五万円ほどの守衛の仕事についたが、その間ははっきり言って『地獄の季節』だった。金もなく、女もなく、仕事もなくと、キも狂わんばかりだった。自分には肉を食べる価値がないのではないかと思えて食事をする気になれなかった。
 友人が以前言っていた。酒と美しいだけで真心のない女はよく似ていると。わりきって付き合う分にはいいが、深追いするとろくなことがないと。確かにそうだ。酒はタチの悪い売女と紙一重だ。