「ジプシー文士 食事求めて何千里」 伊神権太
今回のテーマは「食べるです」と知らされ、何よりも先に頭に浮かんだのは昨年5月、満百二歳になる直前に命を落としたわが母の顔である。なぜか。母は晩年、愛知県日進市内にある老健施設で当時、その施設では最高齢者にもかかわらず、ピアノを弾くなどして余生を穏やか、かつ楽しく過ごしていた。
ところが、である。何の因果か。新型コロナウイルスによるコロナ禍に感染し、隣接の病院にしばらく入院。それでも元気に病を克服し退院し、再び施設に戻ったのである。そして。施設に母をしばしば訪ねる兄夫妻に向かって放ったことばが「たかのぶ(私のこと)。たつ江さん(私の妻)が居なくなってしまったけれど。ちゃんとごはん食べているかしら」というものだったという。
当時、私はたつ江(伊神舞子)を前年の秋に病で失って、まもない時でもあり、母は「たかのぶは、たつ江さんが居なくなってしまったけれど。ちゃんと毎日ごはんを食べとるだろうか。何を食べているのかしら」と私の食事のことを心配し、施設に顔を出す兄夫妻の顔を見るつど私のことを思い出して、そう言ったものらしい。
母はその言葉どおり、たつ江がこの世を去ってしまってからというもの=彼女は一昨年の10月15日にこの世を去った。享年69歳=、ずっと私がちゃんとごはんを食べているのかどうかが、とても気になっていたらしく、折に触れては施設を訪ねる兄夫婦に「たかのぶ。ごはん、ちゃんと食べとるだろうか。食べとってくれたら、いいのだが」と心配してくれていたものらしい。
というわけで、若いころに調理師資格の免許を取得、料理を作るのが大好きで随分とおいしいものばかりを私たち家族に食べさせてくれた妻に比べたら、私の場合、逆に料理をつくるということは妻任せで、からきしダメ。それまで、食事と名のつくものときたら全てノータッチできた。それだけに、どう考えても料理など作るはずがない。いや、作ろうにも作れないのである。
だから。私は、妻がこの世を去ってからというもの、お昼は毎日、ジプシーのように車で自宅周辺をさまよい歩き、どこかランチを出している適当な喫茶店をはじめ、ピアゴやアピタ、平和堂、イオン…といった大型ショッピングセンター内の食堂、それか街の中華料理店、うなぎ屋さん、ほかに自宅近く古知野食堂や料理屋の「むさし屋」「キッチン・くま」、近辺のすし屋さんなどを、順ぐりにまるで放浪作家でもあるように巡回し食べて回っている。ほかにも車で運転中、気が向いた店にふらり入ったり、ちょっとおしゃれで粋なお店に入るなど、それこそ日々足の向くまま気に入った店で食事をしているのである。
幸い、自宅近くには箸の紙袋に【創業昭和54年 たくさんの感謝に心を込めて】と書かれた古知野食堂がある。そして昭和54年といえば、私は新聞記者として油が乗り切っていた。新聞社の名古屋本社社会部でサツ回り(名古屋中村、西署周り)をしていたころで、あのころは事件取材の合間にペコペコだったお腹を満たそう、としばしば入った名古屋中村署近くにあったよく似た食堂が思い出される。実際、夜、昼、朝と続いた取材の合間に出入りした日々が、今となっては懐かしく思い出される。
今。妻に去られた私は歌を忘れたカナリアのように愛妻が歩きなれたスーパーに行き、店内か周辺のどこかで食事をして弁当売り場で夕食を買って帰る。近江牛のワッパ飯などおいしそうな弁当を前にすると決まって「舞よ、これにしようか」と相談して購入し、帰る。大勢の人々の笑顔をみると舞だったら、どんなにか胸弾ませて歩いたことだろう、と思う。
つい2、3日前にはパン工房とやらに入ってみた。そして。思いもかけないおいしさに、どっきり。彼女が隣にいたら、どんなに喜んだろうと思うと、涙があふれ出たのである。一度でよいから、一緒に来たかった。
最後に。今にして思うに母が何かあるとは作ってくれ、舞が「おかあさんの味に少しは近づけたかしら。私はまだまだよね」と話していたゴボウとニンジンのまぜごはん、そして舞自身が志摩の海女さん直伝で教えられ、たまに思い出しては作っていた天下一品の〝てこねずし〟。
これにかなう味は、永遠に見つからないだろう。(完)