「一日一食ですが、何か?」 伊吹
朝起きて、口をすすぐ。口の中の雑菌を外に出す。
その後、浄水器の水をコップ一杯ぐびぐび飲む。水はなるべくたっぷり摂るようにしている。身支度を整え、クルマのハンドルを握る。大声で、発声練習をしながら走る。仕事先に到着。朝ごはんと昼ごはんは食べない。夕方、帰宅してお茶を飲みYouTubeを流しながら夕食を作り、家族と食べる。
食事を一日一食にしてから1年くらいになるだろうか。
きっかけは、一日3食は多すぎるという話を聞いたから。3食食べると、常に内臓が働いていることになり負担が大きく、食べ過ぎというのである。
これまで、朝食はしっかり食べていた。その方が、頭が良くなると信じていたから。朝食を食べないで登校した子どもより、朝食を食べて登校している子の方が成績が良いと聞かされてきた。でもテストの点はちっとも良くならなかった。社会人になってからも、朝食を食べることで、頭に栄養が行き届いてしっかり働けると思い込んでいた。
ここ3年間で、常識を疑うことを覚えた。自分が信じていた人や物事や習慣が、ただの流れだったりこじつけだったり、じつは何も根拠のないことだったり、古い迷信だったりすることを目の当たりにして衝撃を受けた。
黒だったものが白だった。あるいは白に見えていたものが黒だった。悪だと思っていたものが正義だったり、きれいに見えていたものが汚いものだったことも知った。
豊かさと貧しさ、外見と中身、良い悪い、常識と非常識、病気と健康、楽と辛さ、太陽と月、目に見える表面と本当の姿。
なんとさまざまな物事に囚われ、一喜一憂していたことか。この世に無条件で信じられるものは、自分しかいないという境地に至った。一日3回食べなければならないという食生活は、子どもの頃から私たちに植え付けられた洗脳なのだ。
起床して、自分の腹を意識する。ぜんぜんお腹が空いていない。だから食べる必要がない。家にフルーツがある時には食べることもある。ごはんが余っていて食べたいと思ったら食べることもある。コーヒーや紅茶を淹れることもある。夕食作りをする際に、子どもが菓子をつまんでいたら、食べることもある。
食べるということを決めない。食べないことも決めない。基本は食べないけれど、どうするかは私自身が腹に聞いて決める。自由なのだ。こんなシンプルなことを、知識とか常識が邪魔をして考えることもせずルーティンとして繰り返していた。
朝食昼食を抜くと、夕ご飯が今日初めての食事となり、とてもおいしい。朝ごはん、昼ごはんの縛りがなくなったことで得たメリットがいくつかある。一番は、時間だ。
これまでは、「何を食べようか」と考えることから始まり、「何かを作る」行為が発生した。さらに昼ごはんに至っては、店を探したり、赴いたりする時間がいる。実際に食べる時間を入れると、1時間はかかるだろう。昼食を抜けば、この時間を仕事に充てられる。朝ご飯と昼ご飯の時間がいらなくなり、その時間で別の何かをすることができるのだ。
仕事がはかどってきたころに、昼ご飯で集中力が削がれロスタイムになっていたが、それがなくなった。
朝食代、昼食代がいらなくなり、出費も抑えられている。
これまで朝は、パンを食べていた。おいしいパンを求めて買い物に出掛けた。「明日の朝のパン」を必ず購入していたのだ。加えて明らかに痩せた。お腹のでっぱりをつまんでため息をつき続けた40年。一日一食にすることで、お腹がペタンと引っ込み、スカートがゆるゆる入るようになり、ズボンがスッキリした。
お相撲さんは一日2食しか食べないから太っていると聞いて、3食食べていたが、お相撲さんが2食なのに私が3食も食べていたら、そりゃあ痩せるわけがない。そんなことにも気付かないくらい洗脳されていたのだ。
始めた当初は変な感じがしたけど、1週間で慣れて、2週間で習慣化した。
辛くもなんともない。ダイエットでもない、手軽にできるプチ断食。常識を疑うことで、新たな世界が見えてくる。次は、どんな常識をぶち壊そうか。(完)