「過ごす」 牧すすむ
先日のこと、知人から私のもとに連絡があった。それによると、長年続けて来た中学の同窓会は先回を以って終りにする。との事だった。一瞬「エッ!」と驚いたが、まあ仕方がないか、と思い直した。
来年で八十才を迎える年齢となり幹事も中々大変だろうと納得して電話を切ったのだが、そう言えば新聞等でも同じような内容の記事を何度か目にした事が有る。自分達にもいつの日か必ずやって来るその時を重ね合わせ、人事ながら感じたうっすらとした淋しさの記憶がちらっと頭をかすめた。
思えば中学を卒業して以来四年毎に続けて来た同窓会。広い学区なので四つに分けた地域が順番に幹事を受け持ち、私も何度かその大役をこなして来た。それでも当日集まった多くのクラスメートの顔を見るとそんな苦労も吹っ飛び、時間が経つのも忘れて昔話に花が咲く。来賓としてお招きした先生方のお顔を見るのは更に嬉しく、お変わりの無い御様子に安堵を覚えるのが常だった。
しかし近年は回を重ねる毎に参加者の数も減っていき、大きな淋しさを感じていた。恩師も例外ではなく、先回は遂に皆無となってしまった。
中学しか出ていない私にとってはたった一つだった同窓会。長年会わなかった友人達も瞬時に時を遡り少年や少女の顔になる。
懐かしい話も途切れることなく、ビールを片手にテーブルを巡り歩き笑い声も絶えない。次回の再会を誓った後は全員揃っての記念撮影となり、後日送られて来た写真からはいつも弾けるような青春が満ち溢れていた。
話は変わるけれど、「青春」でもう一つ。私が主宰する大正琴の会も既に四十年を越えている。数え切れない程の生徒を受け持ったし年齢も様々だ。又、その大半が女性である。
当初はやっと女性が趣味を持てるようになったそんな時代でのこと。ブームと言われる程に各地で多くの教室が始まった。只その当時は現在のように外へ働きに出る人は少なく、農家であれば農作業の他は家で過ごす事が殆ど。当然着る物も派手さを欠いていた。
それに気付いた私は一計を案じ、こんな話をしてみた。
「十才若い自分を演出してみませんか?」。
最初は戸惑っていた人達も日を追う毎に私の言葉に染まっていき、見るみる内に教室は若やいでいった。
音楽をするには若さが不可欠。心が若くなければ楽しい演奏は出来ないし、聴く人達にも幸せは届けられない。そんな思いから生まれた提案でした。更に習い事には発表会が付き物。そして又舞台上に年齢差は無い。
練習そっちのけで連日連夜衣裳作りに励み、晴れの日を迎えた彼女達の顔は見違える程の若さで美しく輝き、そこには確かな青春の夢が花開いていた。
私は事ある毎に口にする言葉がある。それは〝今が青春〟である。人生は長いようで短い。だからこそ常に青春であるべきなのだ。当然私もそれを大切にし、自身にもしっかりと言い聞かせ心に宿している。
生徒達の心にも、又、前述のクラスメート達の胸の中にも〝青春〟の二文字を刻み付け、いつまでもいつまでも若く元気に過ごしてほしいと願い続けている私なのである。 (完)