連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第四章

第四章 幻を覚える

   1

 米田恵理子の担当する教室は、真面目な生徒が多い。これは恵理子の自慢だった。それが一瞬にして崩れ去ってしまう日が来るとは、恵理子を含め同僚の先生たちも思っていなかっただろう。
 八月の後半に差し掛かったころだった。うみほたる学園には夏休みという概念はない。生徒たちは卒業まで実家へ帰省してはならない規則がある。一般的に言う夏休み中も、補習授業があったり、敷地内にある農園の作業の手伝いなど、イベントも多いため学園での生活は続く。そのため教師たちは、シフト制の休暇を取ることになっている。
 恵理子も普段の休暇では、学園の敷地内にあるアパートでのんびりと本でも読んで過ごすか、学園外へ遊びに行くついでに実家へと帰省する。
 今年の夏休みも普段と変わらず、帰省して久しぶりに親と会うつもりでいた。しかし、予定を変えなければいけない事件が起こってしまったのだ。

   *

 その日、恵理子は洸生会という生徒のために創られた組織の拠点を訪れていた。洸生会を知っている者はこの学園内でもごくわずかで、恵理子はその中のひとりだった。しかし依頼というものは一度もしたことがなく、今回が初めてだった。
「おかしな行動をする生徒がいる?」
 向かい側のソファに座っている少年が、首をかしげながら恵理子の言葉を反復した。
 部屋には恵理子と洸生会の代表である川崎竜太郎の二人だけがいた。他にもメンバーはいるはずだが、今日は不在らしい。
 恵理子は竜太郎がこの学園に来たばかりの頃から知っているし洸生会が創設されたときにも立ち会っていたので、この場にいることはとても気楽だったが、真面目な話をしているからか緊張感があった。
「ええ。具体的には、補習中にぼーっとしているかと思えば、急に立ち上がって奇声を発したりね。注意してもまったく聞かないの。仕方がないから保健室に行くように言ったけれど、結局行かなかったみたいで。その後は図書室で寝ているのを発見したの。まるで電池が切れたようだったわ」
「米田先生でも、てこずる生徒がいるんですね」
「これは深刻な問題なの。他の先生にも協力してもらって、別の学年クラスでも変わったことがないか調べたわ。そうしたら、私のクラスの他にもおかしくなった生徒が数人いることがわかったわ」
「一人二人ではないということですか。幸い、僕のクラスにはそんなことをする生徒は居ませんが。もっと調査するべきでしょうね。話は聞いてみたのですか」
「もちろん。それでわかった事なのだけれど。どうも、幻覚を視ていたらしいの」
「幻覚?」
 恵理子の言葉に、竜太郎が眉をひそめた。
「みんな、幻覚を買ったって言っていたのよ」
「買ったって。誰かが、売っているってことですか」
 竜太郎が目を丸くしている。
 当然、売る人がいれば買う人もいる。需要がなければ売られることはない。売るだけでその先に進まなかったのだとしたら、簡単な話だったのだが。
 恵理子は短く息を吐く。
「私も、そう思うわ。どこで、誰から買ったのと問いただしたけれど、誰も口を割らないのよね。全校生徒の名簿を調べてみたけれど、幻覚を作れそうな能力者の候補は数人いるわ。そこで、仕方なくあなたたちに依頼することにしたのよ。丁度いい人材がいるじゃない」
 恵理子はそう言って竜太郎に目配せする。
 今この場にはいないが、他人の心をよむ能力を持った少女が、洸生会に所属している。恵理子はそれを知っている。彼らなら解決できる事件だと思って。だから依頼しに来たのだ。
「ええ。こちらの手の内を知らなければ、可能でしょう。ただ、売人が名乗っていなければ、心をよんでも客は売り手の名前を知ることはできない。変装をして姿をごまかしている場合もありますし、直接会うのは至難の業でしょう」
 竜太郎の説明に、恵理子は困った顔をした。彼の推理は的を射ているだろう。恵理子もその可能性を考えていなかったわけではない。
「なら、どうすればいいと思う。自身の持つ能力が原因で、平凡な人におかしいと思われる行動をしているのなら、こんなに心配しなくてすむのだけれど。能力者が、能力を悪用して他人を巻き込んでいるとしたら、問題よ。何としても止めさせなければいけないわ」
 恵理子は、顔をしかめながら言った。
 能力者がらみの問題は、学園内部で解決するしか方法がない。だから恵理子は洸生会に頼らざるを得なかった。
 この学園には教師や警備員はいるが、警察の代わりになる大きな組織がない。場合によっては外の警察に頼ることになるだろうが、そもそもこれは犯罪に値するのだろうか。
 仮に犯罪だとしても、立件は難しいだろう。売人が能力で幻覚を作り出しているのならば、物的証拠を出すことが不可能に近いからだ。
 時期尚早かもしれないが、今のうちに対処する事が正しいと恵理子は考えている。この学園には身体は大人だけれど、思考が成熟していない者たちもたくさんいると恵理子は思っている。だからこそ、広がる前に止めたいのだ。
「米田先生の気持ちは、わかりました。こちらでも出来る限りの事はしてみます。犯人が特定できれば良いのですが」
 竜太郎の返答に、恵理子は満足して頷いた。
「ええ。お願いね。あなたたちにこんなことを頼むのは心苦しいけれど、私たちも自由に動けるわけではないから。犯人が特定出来たら連絡を頂戴。その後の事はこちらに任せて」
 恵理子は竜太郎にそう告げると、小屋を後にすることにした。
 もう一つの目的も、達成できると良いなと願いながら。

   2

「それで、あたしたちは何をすればいいわけ」
 斉藤寧々が竜太郎の目の前で、首をかしげて言った。
 洸生会のアジトであるプレハブ小屋には現在、竜太郎と斉藤。そして小池燐音の三人がいた。竜太郎の座っているソファの前にはテーブルが置いてあり、その向う側のソファに、斉藤と小池が横並びに座っている。
 依頼内容について、竜太郎の口から説明していたところだ。
「斉藤は、能力を使って怪しい会話をしている奴をみつけてほしい。そして小池にはそいつが嘘をついていないか、能力で確認してほしいんだ」
 作戦を説明しながら、竜太郎は二人をみる。
 小池は何も言わずに頷いたが、斉藤は額にしわを寄せた。
「なるほど。でも、そいつが声を発していなかったらみつけられないよ」
 斉藤の言葉に、竜太郎は頷く。
「それでも構わない。直接会って取引しているのかどうかが、わかるはずだ」
「そいつがこそこそやっているのなら、どちらにしろこの学園内だとリスクが高すぎる。色んな能力者がいるんだ。みつかる確率が高すぎる。そんなことも考えられない犯人なのか。そいつは一体何のために、そんなことをしているんだ」
 斉藤の疑問はもっともだった。ただの馬鹿であるのか、それとも他に目的があるのか竜太郎にもわからない。
「それを、確かめなければならない」
 竜太郎は眉をひそめた。
 正直なところ情報が少ない現状で、犯人を特定するのは至難の業だ。濁った水の中に手を入れて、すばしっこい魚を捕まえようとしているのと同じことだろう。
「わかったよ。じゃあしばらくの間、静かにしていてくれる。集中するから」
 斉藤は竜太郎の返事を聞く前に、両目を閉じて両耳を両手で覆うように触った。その行動から察するに、彼女は早速能力を使って犯人の捜索をしてくれているようだ。
 竜太郎は半端に開けた口を黙って閉じるほかなかった。斉藤の邪魔をしたくない。斉藤の隣に座っている小池は、大分前から唇のひとつも動かしていなかった。
 しばらくの間は三人の間に沈黙が流れるかとも思ったが、斉藤が何やらぶつぶつとひとり呟いていた。
「これは違う。これも。んー。どこだ」
 険しい顔をして、斉藤は頭を悩ませている様子だった。
 しかし彼女は、能力を上手いことコントロールしているようだ。竜太郎は思わず感心してしまっていた。
 斉藤の首元には、普段の余計な音を遮断する為のヘッドフォンがかかっている。これは彼女がここへ来る前から愛用されているものだ。当時は能力をコントロールしきれていなかった斉藤が、苦肉の策で着けていたものだ。ヘッドフォンからは極小音で音楽を流しているらしい。ヘッドフォンの機能、ノイズキャンセリングで音を最小限に押さえないと、大勢の人の声が聴こえるために頭がおかしくなりそうだと斉藤は言っていた。
 だが近頃は、ヘッドフォンをつける機会が減ったらしい。今はこの学園の数いる能力者の中では、彼女の能力をコントロールする力は高いと言えるのではないだろうか。
 竜太郎は、斉藤の力を信じて待つことにした。小池も不安そうな顔をひとつもせずに、両手で両耳を覆いながら目を閉じている斉藤をみつめていた。
 そして数分が経ち、斉藤は「あっ」という声と共に、両目をぱっと開けた。
「聴こえた」
 斉藤がはっきりとそう言って、竜太郎のほうに視線を向けてきた。
「どんな会話だった」
 竜太郎が尋ねると、斉藤は両耳から両手を離した。
「おそらく本人じゃない。ただの噂話。でも、かなり有力な情報。午後六時。雑貨屋の裏路地。フードを被った男。そいつが幻覚を売ってくれるらしい」
 斉藤はそう言うと、座っていたソファの背もたれに身体を預ける。力を抜いたようにそのまま項垂れて、息をゆっくりと吐いた。
「お疲れ様。それだけの情報があれば充分だ」
 竜太郎は斉藤に向かって、労いの言葉をかける。
 後は、直接本人に会って小池の能力を使い、真偽を確かめるだけだ。
 竜太郎は疲労している斉藤のために、空っぽになっていた湯呑に、新しい緑茶を急須から注ぐ。斉藤は小さな声で「ありがとう」と言ったが、今はそれを呑む力もないらしく、ただソファに埋もれるように座っていた。
「こんなことに力を使ったのは初めてだ。あたしでもこんなふうに役に立てることがあったんだな」
 斉藤がそう言いながら、右手でこめかみを触っていた。それはまるで恥ずかしさに顔を隠すような仕草だった。
 竜太郎はそんな彼女の様子をみて、思わず口角を上げた。
「そのための洸生会だからな。生徒たちの手助けをする。それは何も自分たち以外の生徒たちってわけじゃない。自分たちだってその対象になる」
「それは、お前も含まれるのか」
 斉藤の問いに、竜太郎は頷く。
「もちろん」
「そっか」
 斉藤は納得するようにそう言って、自分の首にかけたままだったヘッドフォンを耳につけた。これ以上会話を続ける気はない様子だった。
 竜太郎は小池のほうに目を向ける。彼女は困ったような顔をして、竜太郎と目を合わせた。
「もちろん、君も助ける対象だよ」と声をかけようか迷ったが、やめておいた。言われなくてもわかっているだろうから。
 竜太郎は窓の外を確認する。午後六時まではまだ時間がある。色々準備をして、それから向かおうと思う。

   3

 自分の事を嗅ぎまわっている人がいる。寺沢椎也は本能的にそれを感じていた。別に誰から聞いたわけでもない。ただの勘だった。
 心当たりがなかったわけでもないが、それでも自分は間違っていないという考えであったから、逃げも隠れもしないつもりだった。
 椎也は幻覚を作り出せる能力を持っていた。それも相手のみたい幻覚を、何でも。
 売人を始めたのは、この能力を生かすためである。別に金が欲しいわけではない。この学園で金を持っていたとして、使い道はそんなにないからだ。ならばなぜこんなことをしているのかといえば、人のため。この言葉に尽きる。
 この学園には可哀想な人が多すぎる。自分の能力がそんな人達をたった一時でも救うことが出来る。椎也はそう考えていたのだ。
 学園に来て数週間。椎也もここでの生活に慣れ、食堂での事務仕事も慣れてきた。行動を起こすなら今だと思った。 
 今日は少しだけ残業して午後五時半に退勤し、一旦近くのアパートに帰宅する。私服に着替えて雑貨屋へと向かった。
 鼻歌交じりに道を歩いていると、犬の散歩をしている学生とすれ違う。
「こんばんは」と軽く挨拶を交わし合った。
 学生は犬に引っ張られるようにして寮のほうへ歩いていった。おそらくあの犬は寮で飼っている柴犬だ。みたことがある。
 そんなことを思いながら目的地に到着すると、椎也は最近のいつも通りに雑貨屋の裏路地に立つ。別に誰かと待ち合わせているわけではないので、ここからはひたすら人を待つことにする。

   *

「午後六時。雑貨屋の裏路地。フードを被った男。そいつが幻覚を売ってくれるらしい」
 噂を流し始めたのは二週間ほど前だった。最初こそ人は来なかったが、最近は一人二人来るようになった。この調子で広まれば、この学園中の人間が救えるかもしれない。そう考えると自然に笑顔になった。
 腕時計を確認すると時刻は丁度午後六時を回ったところで、椎也は着ている黒いパーカーのフードを頭にかぶせる。
 今日はどんな客が来るだろうか。どんな顔をしてくれるだろうか。
「あなたですか。幻覚を売ってくれるという人は」
 眼鏡をかけた少年と、隣に少女が一人。いや、二人が立っていた。全員学生服を着たままだ。この時間帯は、生徒たちはとっくに寮に帰って私服に着替えているはずだ。先ほどすれ違った学生も私服を着ていた。だから珍しいなと思った。
「そうです。どなたでもみたい幻覚。いや、夢をみることが出来ます」
 自分で言葉にしてうさんくさいなとも思うが、嘘はひとつも言っていない。
「夢、か。物は言いようだな」
 背の高いほうの少女が言う。
「買うのはどなたですか。もしや全員ですか」
 椎也の問いに、三人は顔を見合わせた。
 それから眼鏡の男が剣呑な目つきで、こう言った。
「いいえ。あなたを止めに来ました」
「止める?」
 椎也は彼の言葉に、顔をしかめた。
 今まで数人の客を相手にしてきたが、そんなことを言った人は初めてだった。一人もいなかった。椎也はまるで自分が悪いことをしているという物言いの彼に、不快感を覚えていた。
「そうです。幻覚を売っている売人を捕まえて止めさせるようにと、とある人に頼まれまして」
「頼まれた? 誰に。なんで止めなきゃいけないんですか」
 尋ねると、少年は首を横に振った。
「それは言えません。プライバシーを守るためなので。それと、悪いことだからです」
 少年は、はっきりとそう言った。
 悪いこととは、心外だ。と椎也は思った。だから食い下がることにする。
「ふーん。言えないのに、俺のすることを否定するんですね。でも俺がしていることって、別にこの学園の規則に反しているわけじゃないですよね。能力を利用することが悪いことでしたら、俺もしません。でもそうではないですよね。俺は何も悪いことはしていないです」
 椎也がそう言うと、背の高いほうの少女が額に眉をひそめて言い返してきた。
「あんたな。そういうの屁理屈って言うんだ。大体、能力の悪用は禁止されている」
 椎也は頭を回転させて次の言葉を探す。目の前の人達の言いなりになることはしたくなかった。彼らは何か勘違いしている。
「これだけははっきり言えます。俺は悪用はしていません。ただ利用しているだけです。それもむしろ、悪というよりは善意でやっていることですので」
「善意?」
 少女の疑問に、椎也は堂々と答える。
「そう。善意です。これはみんなの幸せのためにしているんです」
「幸せ? あたしはあんたが何を言っているのかがわからない。人に幻覚をみせて結果的に悪影響が出ている。まさか知らないとか言わないよね」
「何の話ですか」
「とぼけるな」
 随分と口の悪い少女だと思った。そしてその子に隠れるように後方に立っている小柄な少女は、先ほどから一言もしゃべっていない。少々気味が悪いと思った。
「あなたから幻覚を買った人間が、授業中に異常な行動をするんです。これでも悪用していないと言い張るんですね」
 ため息をつくように、眼鏡の少年が言った。
「そうなんですか。知らなかったな」
 椎也は顔色一つ変えずに、そう言った。
 それをきいた少年が、何故だか無口な少女の方に視線を向けた。
「嘘です」
 ぽつりと、小さな声で少女は言った。まるで一円玉がカーペットに落ちたときみたいに、本当に微かな声だった。
 確かに。能力を使用されたことによって、副作用による異常行動の可能性は十分あり得る話だ。椎也はそれを知っていたのだから、嘘をついたともいえる。
 見透かされたような気がしたので、もしかしたら今のはそういう能力だったのかもしれないと考えがよぎる。
「随分と素敵な能力をお持ちですね」
 椎也が言いながら視線を向けると、無口な少女は肩を震わせた様子だった。どうやら本当に能力らしい。
 口の悪い少女が、椎也の視線を遮るように一歩前へと進み出た。
「この子がどんな能力を持っていたって、あんたには関係ない」
 睨むような目つきで、少女は言った。
「まあ、確かにそうですね。でもそれなら、俺がどんなふうに能力を使おうが、君たちには関係のないことですよね」
 椎也が言うと、少女は首を横に振る。
「それとこれとは別問題だ。とにかく、こっちはあんたの嘘をすべて見破れる。無駄だってことだよ」
「厄介ですね。では正直に言います。副作用の可能性は考えていなかったわけじゃないです。けれど、実際に使用してみないとわからないことってあるでしょう」
 言いながら椎也は肩をすくめた。
 嘘は通用しないとなると、これ以上ごまかすのは無駄のようだった。
 口の悪い少女はため息をついた。
「それなら、わかった時点でやめたほうが懸命だったよ。こうして問題になっているんだから」
「何か代償があるとしても、それが誰かの救いになるなら、何の問題もないと思いますけど」
「さっきから何を言っているんだ。善意とか幸せとか救いとか。あんたの考え方はどこかおかしい。売人をやめないって言うんなら、こっちとしては理事長に突き出すしかないんだけど。それでもいいの」
 少女の言葉に、椎也は眉をひそめた。
 彼女たちがどうして、自分の邪魔をしようとするのかがわからない。人のために何かをしてやろうと思っただけなのに。悪意なんか微塵もない。どうしてそれをわかってくれないのかがわからない。椎也は本気でそう思っていた。
「あなたに悪意がなくても。他の人がそれを悪意だと思ったなら。それは悪意なのかもしれないです」
 不意に、無口な少女が口を開いた。
 椎也は目を見開いて問う。
「どうして」
「人って、そんなに強くないです。あなたもそれは理解しているはずです。あなたは善意だって言うけれど、本当にそうですか。あなたは人を救いたいと思っていますけれど、本当にそうですか。本当はあなたが――」
「黙れっ」
 少女の見透かすような物言いに、椎也は思わず声を荒げて叫んだ。
 少女は再び肩を震わせ、怯えるように胸の前で両手を合わせた。
 傍にいた眼鏡の少年が、少女の肩に手を置く。大丈夫だと言いたそうな瞳で、少年は少女をみつめていた。
 だが椎也は少女にそれ以上の言葉を言ってほしくなかった。認めたくはなかった。
「何ですか。俺の心の中でも覗いているみたいな、その能力。俺よりよっぽど悪用しているじゃないですか。そう思いませんか。他の人がそれを悪意だと思ったなら悪意なのかもしれないって今、あなた自分で言いましたよね。俺はこれ、悪意だと思うんですけど」
「違います」
 弱々しい声で、少女は否定する。
「違うんですか。なら俺も違いますね」
 椎也は、言葉でなら彼女に勝てると思った。彼女はその自信のなさが、敗因だ。
 そんな椎也をみてか眼鏡の少年が、ゆっくりと息を吐いて言った。
「このままじゃ、らちが明かないな」
 少年は、椎也に歩み寄ってきた。
 少女たちより一歩前に出て、椎也と対峙していた。
「寺沢椎也。あなたの過去をみせてもらいます」
 少年はそう言うと、突然に椎也の右腕を掴んできた。
 とっさに抵抗しようと掴まれた方の腕とは逆の手で、彼の手を掴んだ。

   4

 あの窓からみえる風景だけが、世界のすべてだった。
 欲しいと言ったものは大抵手に入った。流行りのおもちゃや優しい両親、何を言っても怒らない友人。だからそれが寺沢椎也にとって世界のすべてとなった。
 椎也は先天的な肺の疾患を有していた。一生抱えていかなければいけなかった。だから椎也の世界にあるもの以外はすべて諦めるしかなかった。
 朝起きるのが怖かった。今日もちゃんと生きているだろうかと心配した。大きく体を動かすことも、走ることも出来ない自分が腹立たしかった。
 しかし、それももう数週間前のこと。
 椎也は今、本当に欲しいものを手に入れている。
 朝起きるのが、怖くなくなった。今日もちゃんと生きているだろうかと心配する必要もなくなった。大きく体を動かしても、走っても、何故だか身体は元気だった。
 身体の異変が、突然使えるようになった能力と同じようにきたことも、ちゃんと理解している。だからこれを失うとき、椎也の身体も元に戻ることも知っている。
 それは何もかも唐突に起こったことで、きっかけなど無いに等しい。ただ前日に、夢をみた。それだけだ。他には何もない。
 どんな夢だったか。椎也が元気に外を走ったり、いたずらをして両親に本気で怒られたり、友人と本音で言い合いしている夢だった気がする。
 椎也にとってまさにそれは夢であり、ありもしない幻覚であった。
 夢から覚めると、不思議と身体が軽かった。
「治療はもう必要ない」と初老の主治医に伝えると、当然驚かれ身体中を検査された。
 能力が最初に発動されたのは、その時だった。椎也は無意識に能力を使ってしまったらしい。ほんの数分間。主治医は幻覚を視ていた。若くして亡くなった息子に会っていたと彼は言った。
 彼は当惑していたが、すぐにあらゆる可能性を考え、最終的にそういう能力だと結論付けた。
 主治医と同様に。いや、それ以上に椎也自身も戸惑っていた。身体の事も能力の事も驚愕し、そして感嘆していた。
「これは君の精神的な問題でもあるんだよ」
 と主治医は言った。椎也は首を傾げた。
「私の知り合いに、そういったものに詳しい方がいてね。治療は一旦中止にせざるを得ないし、せっかくだからその方に会ってみるのはどうだろうか」
 主治医の提案に、椎也は二つ返事で了承した。
 うみほたる学園の話をきけば聞くほど、興味がわいた。能力者ばかりを集めた学園。色々なものを諦めてきた自分には、勿体ないほどの場所だ。
 主治医の紹介で、理事長に会うことができた。理事長は椎也の能力を聞くなり入学を勧めてきた。学園に興味があると伝えると、理事長は喜んだ。
 そうして椎也は二十歳という年齢になって、学園という場所に足を踏み入れることになった。
 幼少期からまともに学校というものに通うことができなかった椎也にとって、うみほたる学園は思っていた以上に面白い場所だった。
 理事長と相談して、学園とはいえ年齢的にも生徒ではなく働いてみないかと言われたときは、自分にできるだろうかと思ったが、心配するほどではなかった。食堂で一緒に働く仲間はみんな気のいい人たちで、そして同時に自分と同じ能力者で、そして可哀想な人たちであった。
 例えば職場いじめを受けていた人。両親からDVを受けていた人。大切な人と死別した人。そういう人たちを、椎也は憐れんだ。そして自分の能力を使えばその人たちの心を救うことが出来るのではないかと考えたのである。
 例え一時の幻覚という名の夢であっても。自分に都合の良い夢であっても。彼らは救われるはずだ。
 そうして椎也自身も、救われたかった。誰かの役に立ちたかった。
 ただの自己満足かもしれない。ただの偽善かもしれない。
 それでも、何かしたかった。何かしてやりたかった。
 この醜い感情を誰が許してくれるだろうか。

   5

 幻覚を視た。
 両親と妹。四人で海に行くというものだった。ほんの一瞬だったけれど、とても幸せそうな光景だった。
「竜太郎」
 斉藤の声が聴こえて、竜太郎は現実に引き戻された。
「大丈夫か」
 心配そうな顔をして、斉藤が竜太郎の目の前に立っていた。どうやら彼女が寺沢椎也との間に入って、彼から引きはがしてくれたらしい。
「あ、ああ」
 竜太郎は頭を抱える。
「何か前と様子が違うって、燐音が言うから心配した」
 斉藤に言われて、竜太郎は小池のほうをみた。彼女も不安そうな表情でこちらをみていた。
「ありがとう。二人とも」
 竜太郎は礼を言った。
 寺沢に何をされたのか、考えるまでもなかった。
「幸せな夢を、視ることはできましたか」
 寺沢が竜太郎に向かって、笑顔でそう問いかけてきた。
 彼がこの幻覚を、夢と称すのが何となくわかった。それは確かに夢であった。ほんの一時の、泡沫の夢。目を覚ませば一瞬で消えてしまいそうなその夢は、とても大切な竜太郎の記憶であるはずのもの。ただの願望かもしれないもの。
「ええ。一瞬だけでしたが。そしてあなたのことも概ね理解できました」
 竜太郎はそう答えると、寺沢のほうを真っすぐにみた。
「よかった。俺の事を理解できたんですね」
 寺沢が満足そうな表情を浮かべ、竜太郎の事をみていた。
 米田恵理子から受けた依頼内容は、犯人の特定だ。たった今、寺沢が竜太郎に能力を使ったことで、彼は言い逃れのできない状態になった。身体を張ったこと、怒られるだろうか。そう思ったが、止まらなかった。
「あなたは、可哀想な人です」
 竜太郎の言葉に、寺沢の眉根がぴくりと動く。これが、彼が一番言われたくない言葉であることは、彼の記憶を視る限り明白だった。
「何を言っているのか、わかりませんね」
 とぼけるように、寺沢は言った。
「あなたは色々なものを諦めてしまった。それが可哀想だって言っているんです」
「君にそんなことを言われる筋合いは、ないと思いますけれど」
 寺沢の言葉に、竜太郎は頷く。
「ええ。そうかもしれません。ですが、あなたにだって他に出来ることが沢山あると思うんです。こんな能力の使い方をせずとも、あなた自身が幸せになることだってできるはずなんです」
 寺沢が嘲笑する。
「俺が、幸せになる? 俺は十分幸せですよ。十分すぎるぐらい。日常的に感じていた息苦しさもないし、能力だって使える。今ならなんだってできます。俺は幸せです」
 自信満々に言う寺沢に向かって、竜太郎は首を振る。
「いいえ。そう思い込んでいるだけです。本当は、いつそれが終わるのか怯えているんですよね。そんな状態で、本当に幸せだと言えるのですか」
「それは――」
 寺沢が言い淀み、迷いをみせた。
 竜太郎はたたみかけるように話を続ける。
「自分は幸せだと思い込んで、自分より不幸せだと思う人達に、能力を使って一時の幸せをみせてあげよう。御立派な考えですけれど。それって人を下にみているだけですよね。そうやって自分と比べて、自分はその人達よりマシだと思い込んで、優越感に浸っているだけですよね」
「それの何が悪いと言うのですか。俺は可哀想なんかじゃない。俺より可哀想な奴はいっぱいいる。だから俺はそいつらに恩を売ろうとしているだけです」
 寺沢の言い分は、無理に自分を肯定しようとしているように思えた。それは悲痛な叫びだったのかもしれない。
 今、寺沢が言ったことは本心だろう。ならば竜太郎がかけるべき言葉はこうだ。
「そうやって売った後。あなたに残るものは、一体何でしょうか。してあげた事に対する報酬は、お金ですよね。でもそれってあなたを本当に幸せにするものですか。あなたの本当に欲しいものは違いますよね。誰かの役に立ちたくて。自分の存在意義を確かめたかっただけですよね」
 竜太郎はとても冷静に言った。
 過去の記憶を視るときに、竜太郎は相手の感情も何となくだけれど感じ取ってしまう。小池ほどの精度はないし、あくまでも過去の感情だ。現在の時間のものではない。それでも、竜太郎は過去も現在も彼の感情は同じものだと思った。
 彼は病気のせいで色々なものを諦めてきたのだと思う。彼が何を願って能力を手に入れたのかが竜太郎には何となくわかる。彼は。寺沢は、夢をみたかったのだ。それは、眠るときにみる夢ではなく、叶えたかった夢だ。諦めてしまった夢だ。
 寺沢が、自分を落ち着かせるかのように深く長く息を吐いた。
「そこまでいうのなら、どうすればいいのか教えてください。俺は、どうするべきだったのか」
「少なくとも、周りを巻き込むべきではなかったと思います。あとは、弱い自分も可哀想な自分も、受け入れることが大事だと思います」
「そうか――」
「簡単にはいかないかもしれませんが。あなたは頭の良い人です。きっと前に進めますよ」
 酷なことかもしれないが。と竜太郎は思いながら、彼にその言葉を贈る。
 けれど寺沢はそれで納得してくれたのか、幻覚を売ることを止めると約束してくれた。
 
    6

 このうみほたる学園に来てから、もう何度目かの朝焼けをみた。窓からみえていた月は、いつの間にか沈んでいた。かわりに現れた太陽に、椎也は目が眩んだ。
 欲しかったすべての物を手に入れて、その後に残るものは何だろうと、ずっと考えていた。一晩中。自分の『本当』について考えていた。
 力を失いたくないと、どれだけ願っても無駄だとわかっている。けれどそれだけは、諦めたくない夢だった。いつかは、絶対にその時が来る。
 今日も朝が来た。仕事に行かなければならない。石のように重い身体を動かして、出かける準備をした。仕事に行きたくないわけではないが、昨日の疲れがとれていないような気がした。

   *

 玄関を出て、ゆっくりと職場へ向かう。食堂へ着くと、誰かが待っていた。
 ショートカットの良く似合う、黒色のスーツを着た女性だった。
「寺沢椎也くん」
 名前を呼ばれても特に驚かなかった。彼女の風貌をみるに、普通の人間ではなさそうだったからだ。
「誰ですか」と椎也は質問した。
「米田恵理子。ただの教員よ。洸生会から、昨夜の報告を受けたわ。あなたは幻覚の販売をもうやらないと約束してくれたようね」
彼女。米田の返答に、椎也は一瞬で状況を理解した。
「ああ。あなただったんですね。彼らに依頼したのは」
 椎也は言うと、昨夜のことを思い出した。
 知らない学生が三人ほど、椎也に会いに来たのだ。彼らは言った。幻覚を売っている売人を捕まえて止めさせるようにと、とある人に頼まれたと。それがおそらく、今椎也の目の前にいる女性だ。
「ええ。そうよ」
 米田が頷いた。
「ならもう解決済みです。俺はもう能力を使いません」
 彼らの前で誓ったことだ。この言葉に嘘はない。
 竜太郎と呼ばれていた少年。彼の能力は非常に厄介だった。どういう能力か具体的にはわからないが、椎也のことを理解したような口ぶり。あの無口な少女と並んで、人の事を見透かせるような能力だと推測できる。
 彼らの前で、嘘は吐けない。これはもう、素直に諦めるしかないと思った。だから彼らの言うとおりにするしかなかったのだ。
「そうなのだけれど。ひとつ気になることがあってね」
 米田がゆっくりと、息を吐きながら言った。
 気になること。と椎也は心の中で反復する。
「何ですか」
「あなたが、川崎竜太郎に能力を使ったと聞いたわ。何の幻覚を竜太郎にみせたの」
「さぁ。能力を使っている間。俺には、他人の幻覚を視ることが出来ません。というか、わざわざ俺に話を聞きに来ずとも、先生なら学園内にいる能力者の資料やらなんやらで、それぐらいわかるんじゃないですか」
 米田の質問に、椎也は肩をすくめながら言う。
「それじゃあ意味がないと思って」
 米田はそう言いながら、眉をひそめていた。
「何の意味ですか」
 そう問いかけると、米田の瞳が揺らいだように感じられた。
「それは答えられないけれど、もう一つ質問があるの」
「何でしょう」
「その幻覚は、その人がみたことのある物で構成されているのかしら」
 嘘を吐く必要もないので、その質問には素直に答える。
「俺の能力は、他人の願望を幻覚としてみせているだけです。でもその元となる人物などはその人の記憶のはずです。聞いたことありませんか。寝ている間にみる夢は、みたことのある人物しか出てこない。俺の能力は、幻覚でもあるし夢でもある」
 米田は納得したのか、「そう。わかったわ。ありがとう」と、それだけ言って去ろうとしたので、椎也は「ちょっと待ってください」と呼び止める。
「ずるいじゃないですか。俺に色々と質問しておいて、それだけですか。俺、昨日から損しかしていないじゃないですか」
「損? 自業自得じゃないかしら」
 米田はそう言って、首を傾げた。
「うわ。この人、最悪だ。昨日の少年よりたち悪そう」
 椎也は米田に聞こえるか聞こえないかの声量で、呟くように言った。
「竜太郎よりは悪くないわよ」
 米田はそう言って、嘆息をもらした。
「先生が生徒の事を、悪く言っちゃダメなんじゃないですか」
 指摘すると、米田が困った顔をする。
「う。そうだけど。子どものころから知っているから、つい」
 意外な返答に、椎也は少しだけ目を丸くした。
「長い付き合いなんですね」
 米田は頷いた。
「ええ。と言っても五年ぐらいだけれど。彼が十二歳のころにこの学園に来た時、同時期に私も赴任したの。子どもの成長って早いわね。あっという間に身長を越されたわ」
 米田の言葉に、椎也は昨日の竜太郎の姿を思い出す。
「確かに、身長は俺とさほど変わりませんでしたね。なるほど、それで目をかけていると」
 納得したように、椎也は言った。
 米田にとって竜太郎は、特別な想いのある生徒らしかった。もしかしたら、息子のような存在なのかもしれない。
「もういいかしら。あなたとの話は終わったの」
 呆れた様子で、米田が言った。
「まだダメです。こっちは、俺のやりたかったことを潰されているんですよ」
 椎也は引きとめるるもりで言う。
「納得したわけじゃないのかしら」
「あれ以上は面倒くさかったから」
 米田の疑問に、椎也は本音をもらした。
「そう。なら、あなたが納得するまで依頼者の私が相手をしないといけないわね」
 米田に真っすぐな瞳を向けられて、椎也は戸惑った。
 とことん話に付き合うわよという態度を取られると、椎也も困ってしまう。忘れるところだったが、椎也は出勤前なのだ。残念だが、お茶を飲むような時間はなかった。
「まあ、俺これから仕事なので、今日のところは勘弁してあげますよ。それじゃあ」
 椎也はそう言うと、さっさと米田に背を向ける。
「待って」と、今度は椎也が呼び止められる番だった。
「何ですか」
 これ以上は遅刻するなと思いながら、椎也は仕方なく振り向いた。
「最後に一つだけいいかしら」
 米田が、真剣な表情で言った。

(第五章へ続)