連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第五章

第五話 過ぎ去りし刻

   1

 それは、小さなまるいほう石みたいにキラキラしていた。
 おとうさんとおかあさん。それからおにいちゃん。
 キラキラしたおもい出が、琴乃のたからものだった。
 おとうさんはまい日、おしごとへいく。ちょっとさみしいけれど、琴乃たちのためにまい日がんばっているんだよ。とおかあさんがいっていた。だから琴乃はまい日おとうさんをおうえんすることにした。
 おかあさんはまい日お花に水をやったりおせんたくをしたり、おそうじをしたり。琴乃たちのためにごはんを作ってくれる。琴乃はおかあさんもはたらきものだとおもうから、おかあさんのこともおうえんするね。っていったら、とてもうれしそうにわらってた。
 おにいちゃんはまい日、学校へいっておべんきょうをしている。かえってくると琴乃にたくさんおはなしをきかせてくれるの。琴乃も早く学校へいきたい。琴乃が学校へいけるのは、らい年のはるなんだって。そんなにまてないよ。
 琴乃はようちえんで自分の名まえをいっぱいれんしゅうしたの。かん字もすこしだけべんきょうしたんだよ。だから早くいきたいな。たのしみ。
 おかあさんがキッチンでお夕はんを作ってる。
 おにいちゃんは、テーブルでうんうんいいながら、しゅくだいをしている。
 琴乃は、それをニコニコしながらみている。
 おとうさんがかえってきた。
 おにいちゃんと琴乃は、おとうさんをおでむかえするの。
 それから、みんなでお夕はんをたべて、あったかいおふろにはいるの。
 それからそれから。みんなでいっしょに寝るんだよ。
 おとうさんとおかあさん。それからおにいちゃん。
 おやすみなさい。またあしたもたからものの一日になるといいな。

    *
 
 うみほたる学園に来てからというもの。小池燐音は不思議な夢をみることが多くなった。それは決して悪夢というわけではないのだが、目を覚ますたびに、何故だか哀しい気持ちになる。その夢を燐音は嫌だと思ったことは一度もなかったが、焦燥感に駆られることだけが、気がかりだった。
 幸せな家族の夢であるはずなのに、どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。どうしてこんなにも助けたいと願うのだろうと、燐音は胸が苦しくなる思いをしていた。
 しかし、自分にはどうすることもできないのだと理解している。このことを他の誰かに相談することもできないでいる。
 気がかりなことが、もうひとつある。
 川崎竜太郎の事だ。
 燐音は彼に会ったあの日。二つの点で驚いた。一つは、彼が家に来ること。これは、燐音の両親も知らなかったらしく、心をよむ能力を使っていても知りえる情報ではなかった。そして二つ目は、燐音が川崎のことを知っていたこと。
 六年前の話だ。燐音は当時小学三年生だった。友人と呼べるクラスメイトが一人しかいなく、その子と別々の学級になってしまった春の終わり。燐音は川崎と出会った。
 燐音はクラスに馴染めない生徒だった。ある日、授業に変更があったらしく、教室の場所がわからくなってしまい困ったことがあった。普段は遅刻もしない真面目な生徒だったのに、誰かに聞く勇気もなかった燐音は、生まれて初めて授業をさぼった。
 酷く情けない気持ちになりながら、同時に初めての体験に緊張していた。本来ならば授業の時間だが、燐音は学校内を彷徨うように廊下を歩いていた。
 こんなときに誰かに会ってしまったらと思うと、心臓が痛くなる。どんな言い訳をしたらいいかもわからない。頭の中が真っ白だった。どこへ行こうかと迷ったが、足は自然と大好きな音楽室に向かっていた。
 誰もいないことを祈りながら、扉の空いていた教室に恐るおそる足を踏み入れた。音のしない音楽室。そこには、誰もいなかった。
 燐音は少し安心して、教室の中を意味もなく歩いた。教室の隅にあるピアノは、蓋が閉まっていた。それを開けて鍵盤を触ることは出来なかったが、椅子に座って空中で指を動かして、ピアノを弾く真似をした。
 それから音楽準備室の扉も開いていたので、中を覗いてみる。楽器がたくさん置いてあった。それらを鳴らすことはしなかったが、あまりみる機会のないバイオリンなど、オーケストラで使うような楽器が置いてあり気分が高揚した。
 だから、部屋の奥である人物をみつけたときは心臓が一気に跳ね上がって、口から飛び出してしまいそうになった。
「ひっ」という息を吸う音が口から漏れたので、慌てて右手で唇を押さえた。音楽準備室の奥の棚に寄りかかるようにして、その子は体育座りをしていた。相手もすぐに燐音の姿に気づいて、一瞬だけ目を見開いてから慌てたように顔を膝に埋めた。彼は逃げることもせず、ただ子犬のように怯えていた。
 それが、川崎竜太郎と小池燐音の初めての出会いだった。
 燐音はこの場から立ち去ろうとも思ったが、自分もどこへ行けばよいのかわからなかった。しばらく動けずに、口を押えたまま放心していた。
 そんな状況で、「あの」と、先に声を発したのは意外にも目の前の少年だった。
「ごめんなさい。ここに居させてください」
 その声はとても小さく、けれど明瞭に聴こえた。もちろん燐音には、断る理由などなかった。だから「はい」と少年と同じく小さな声で答えた。
 どうしようかと思ったが、燐音はその場に彼と同じ姿勢で座った。そしてすぐに後悔した。彼と向かい合わせに座ってしまったことに。
 頭の中は白紙だった。何もわからなかった。ただ一つわかることがあるとすれば、目の前の彼も、燐音と同じ状況だということ。
 それから授業が終了するチャイムが鳴るまでの間。燐音とその見知らぬ少年は、何も会話をすることなく、二人とも無言で膝を抱えて座っているという不思議な時間を過ごした。
 その日の燐音はずっと緊張していて、チャイムが鳴って教室へ戻った後もそれは解けなかった。燐音のほうが先に準備室を出たのだが、去り際に彼が顔を上げて「ありがとう」と言った姿が目に焼き付いていて離れなかった。
 それからずっとだ。名前も知らない彼を、音楽準備室の奥で怯えていた彼を、燐音はずっと忘れなかった。覚えていた。あの日の記憶を、忘れられるはずがなかったのだ。

   *

 次に会ったのは、全校生徒が参加するイベントで、偶然にも同じ班になったときだった。話しかける勇気はなかったが、燐音はそこで彼について色々なことを知った。
 名前が川崎竜太郎だということ。燐音と同じ学年で、違うクラスだということ。普段からあまり話すほうではないこと。
 イベントは一年間を通して数回に渡って行われた。クイズや謎とき。班で協力することが多かったため、言葉を交わすことはたまにあった。慣れるまでは大変だったが、楽しかったことを覚えている。
 一年はあっという間に過ぎ、班で集まることもなくなってしまったので、小学四年生の頃には川崎との接点はなくなってしまったが、たまに姿をみかけることはあった。しかしいつしかそれもなくなり、転校してしまったのだろうかと思っていた。
 そして、六年ぶりに燐音は川崎と思わぬ形で再会したのだ。
 川崎は、燐音の事をみても驚く様子がなかった。それですぐに彼が自分の事を覚えていないことに気づいた。
 燐音にとってあの一年間の記憶はとても大切なものだったのに、川崎にとってはそうではなかったということがわかってしまった。それがただひたすらに、哀しかった。

   2

 米田恵理子からの呼び出しに、川崎竜太郎は頭をかしげながら応じた。幻覚売買事件から一日後の事だった。
 プレハブ小屋には、米田と竜太郎と本間宗太。それから、この場所に初めて来たであろう寺沢椎也がいた。寺沢は部屋の中を品定めでもするかのようにじろじろとみていた。
「ここはいい場所ですね。秘密の話をするのにもってこいだ」
 寺沢はそう言いながら、満足したかのようにソファに座った。竜太郎と宗太が一つのソファに座り、その対面のソファに米田と寺沢が座っていた。
「それで、今日は何の話ですか。昨日の件は、終わりましたよね」
 竜太郎は真面目な表情で、米田と寺沢に向かって問う。
「話があるのは、俺じゃなくて。米田先生ですよ」
 寺沢はそう言って、にこりと笑う。
「ええ。この場にいる全員は知っている問題で、彼にはそれを解決するために協力してもらおうと思って来てもらったの」
「問題って。何の」
 尋ねると、米田は真っすぐに竜太郎のほうをみた。
「あなたの、失くした記憶の問題よ」
 米田の言葉に、竜太郎は目を丸くした。彼女の口からその話を聞くのは、もうここ何年もなかったせいか、驚いた。そして気になるのは、この場にいる全員と言ったこと。
「寺沢さんに、話したんですね」
 確認すると、米田は黙って頷いた。
 どうしてそんな勝手なことを。と、怒る間もなく寺沢が口を開いた。
「俺の能力が、他人に幻覚をみせることが出来るのは知っていますよね。そしてその幻覚は、能力の対象者が、みたことのある人物や物しか出てこない」
 竜太郎は目を丸くする。しかし、予想できたことだ。
「つまり、僕の記憶を元に幻覚がつくられていたわけですか」
 冷静に言うと、寺沢が頷いた。
「そういうことです。なので、それを伝えに来ました。米田先生から君の事情を聞いたので。君が何の幻覚をみたのかは知らないですが、君がそう思うならそうです」
 寺沢の言葉に続けるようにして、米田が言う。
「竜太郎。あなたは一体どんな幻覚をみて、どこまで思い出しているの。私はあなたの記憶を戻すきっかけをつくりたいの」
 竜太郎は返答に困ったが、彼女の気持ちを無下にすることも出来なかった。
 米田は五年前。竜太郎に手を差し伸べてくれた人間の一人だ。それからずっと竜太郎のことを見守ってくれた人だからこそ、恩を感じている。彼女の気持ちは嬉しい。けれどそれを、記憶の事を口にすることが、竜太郎には難しいことだった。

   *

 プレハブ小屋の空気は、張り詰めていた。
 竜太郎は、落ち着くために一度深呼吸をする。隣に座っている宗太をみると、不機嫌そうにその綺麗な顔を歪めていた。
「ちょっと、勝手なんじゃないですか」
 長考していると、唐突に宗太が言った。黙ってみていることが出来なかったらしい。
「勝手?」
 気に障ったのか、米田が眉をひそめる。
「だってそうじゃないですか。竜太郎が記憶をとり戻したいって思っているとは限りませんよ」
 宗太の言葉に、竜太郎は自分の頭の中を見透かされた気がした。確かに彼の言うとおりだった。自分の記憶については、戻っても戻らなくても、どちらでもいいと思っていたからだ。
「むしろ、とり戻したくないと思っている可能性もある。って、俺も米田先生に助言しましたけれどね」
 宗太と寺沢の言い分に、米田は急に不安になったのか顔をしかめながら竜太郎のほうをみる。竜太郎は黙ったまま、彼女のことをみつめた。
「そうなの。竜太郎」
 米田が尋ねてくる。
「一言でこの感情を表してしまえば怖い、です。僕がみた幻覚は、とても幸せそうな家族の記憶でしたが、どこか他人事のようにも感じています。それは幻覚だからでしょうか。寺沢さん。改ざんされた記憶だから?」
 竜太郎は米田から目を逸らし、寺沢のほうをみる。疑問はたくさんあった。だがそのどれもが雲のようにつかみどころがなかった。これは本当に自分の記憶なのか定かではなかったのだ。
「あくまでも、記憶を元につくられている幻覚。夢。その人の願望が脳裏に映像として現れている。という説明をすれば、理解できますか。だから君の言う改ざんされた記憶というのも、あながち間違っていないんです。それが幸せな記憶であればあるほど、現実は幸せではないかもしれない」
 残酷な話だと思った。だがそれと同時に寺沢の説明に納得してしまっていた。
 竜太郎は、米田から聞いた話を思い出してみる。幻覚をみた生徒たちのおかしな行動。ぼーっとしたり、突然叫びだしたり。自分が一番欲しかったものや、幸せだった頃の記憶をみて、現実に戻って絶望する。それはそんな行動をとりたくもなってしまうのも当たり前なのかもしれないと思う。
「なるほど。だから我に返った時、みんなおかしな行動を取っていたんですね。副作用みたいな感じで。もう味わえないはずの幸せな記憶だったから」
「まあ。だから人によって副作用が出る出ないがあるんでしょう。元々記憶のなかった君が、出なかったように」
 思い返してみれば、竜太郎は幻覚をみたはずなのに、ちっともおかしくなどならなかった。竜太郎には元々覚えている記憶がなかったから当たり前の話だったのかもしれない。
「米田さん。僕は、記憶を思い出さなくてはいけないんですか」
 竜太郎は米田に尋ねる。真っすぐに彼女の目をみながら。
「少なくとも私は、そう思っているわ。あなたがこの学園に来てから。この五年間ずっと」
 米田は何かを決意したかのような眼差しで、竜太郎の事をみていた。
「あなたは何かを知っていて、そう思っているんですよね」
 竜太郎は米田にそう尋ねた。
 ずっと疑問だった。米田がここまで竜太郎の記憶にこだわる理由。きっとそこには、何かがあるのだろう。
「それは――」
「良いんです。わかっていますから。あなたにも守秘義務があること。僕に言えない、僕の記憶の事。だから、僕が自ら思い出すまで何もできない。そうですよね」
 米田が何かを言おうとしたのはわかっていたが、竜太郎はそれを遮った。
 この五年間。ずっと傍で見守ってくれていた彼女。米田が辛い立場だということは、十分理解しているつもりだ。その点で言うと、理事長のほうがもっと辛いとは思う。
 すべては、竜太郎が記憶を失ってしまったせい。その理由さえ、竜太郎は知らない。
「そうね。正直に話すわ。さっきも言ったとおり、私はあなたの記憶が戻るきっかけをつくりたかった。だから寺沢くんの能力は都合がよかったのよね。あなたたちに依頼すれば、寺沢くんの能力と接点がつくれる。生徒たちにこれ以上広まらないようにっていうのも本心だったけれど、本当の目的はこっちだったの」
 記憶の件を聞いてから、そうじゃないかとは思っていた。疑問が一つ解消された。竜太郎は米田に向かって尋ねる。
「寺沢さんの存在を、最初から知っていましたか」
「知っていたけれど、確証はなかった。能力者のリストをみて寺沢くんの能力のことは知っていた。けれど、幻覚を売っているのが、彼だという決定的な証拠はなかったの。だからあなたたちに依頼した。犯人をみつけてほしいと」
「随分、回りくどいですね」
 米田の回答に、竜太郎の腹は立たなかった。ただ他にやり方はなかったのかと思った。
「そうするしかなかったのよ。竜太郎。あなたのみた幻覚に出てきた家族は、どんな人達だった?」
 米田の質問に、嘘を吐く必要はない。竜太郎は出来るだけ詳細に答える。
「大人の男性と女性。それから小さな女の子がいました。僕はその人達が誰だか、すぐにわかりました。僕の両親と妹です。僕たちは一緒に海にいました。とても楽しそうでした」
 語り終えると、米田は優しい表情で、竜太郎に質問を投げかけてきた。
「もし家族に会えるとしたら。どうする?」
「それが可能ならば彼らに会って、忘れてしまったことを謝りたいです」
「その答えが聞けただけで十分よ」
 そう言って米田がソファから立ち上がる。竜太郎は思わずその動きを目で追う。
「あなたの妹に、会わせてあげる」
 その場にいた誰もが、予想できない一言だったと思う。

   3

 小池燐音は普段からあまり一人で行動することがない。何かをするときは決まって斉藤寧々と一緒であった。ただその日はなんだか胸騒ぎがして、昼御飯の後、用事があると告げ寧々と別れて、ひとりプレハブ小屋へ向かった。
 小屋の中には来客用の立派なソファが置いてある。けれどその人物は、窓際の床の上で膝を二つに折って座っていた。
 何かがあったのは、尋ねなくてもわかった。心が悲鳴を上げていたから。燐音は、能力で彼の心がわかってしまう。
 燐音が部屋に入ると、川崎竜太郎が驚いた表情でこちらをみた。
 川崎の目の前まで行くと、「座っていい?」と彼に尋ねる。彼は無言で頷いた。燐音は川崎から数歩離れた場所に、彼と同じように両手で膝を抱えて座る。スカートではなかったので、裾を抑える必要はなかった。
 いつかと同じように、燐音と川崎は対面で座っていた。けれどそのことを覚えているのは、自分だけなのだろうなと燐音は思う。なんだか緊張して、燐音は川崎の顔から視線をはずす。
「そこに座るんだ」
 川崎が戸惑ったように言う。
「うん」と燐音は頷いた。じっと自分の膝小僧をみつめた。
 川崎がこの状況に既視感を覚えてくれていたらと、願わずにはいられなかった。
「小池。ここの生活にはもう慣れた?」
 川崎が、唐突に質問を投げかけてきた。
「うん。二か月近く経つし」
 燐音は頷きながら言った。
「そうか。僕はここに来て五年経つんだ。時々ここの外の世界がどんなふうなのか、気になって、後から来た人に色々聞きたくなるんだ」
「え?」
 それはまるで、ここの世界しか知らないみたいな言い方だった。燐音は思わず川崎の顔をみる。彼から、嘘は感じられなかった。
「僕には、学園に来る前の記憶がないんだ」
 燐音の疑問に答えるように、川崎が衝撃の事実を告白する。
「さっき五年前からここにいるって言っていたけれど、それ以前の記憶ってこと? そんな」
 そんなの、あんまりだ。そんな言葉を呑み込んだ。口には出せずに、俯く。泣いてしまいそうになって、燐音は膝に顔をうずめる。自分が今どんな顔をしているのか、川崎にみられたくなかった。彼がどんな顔をしているのかも、みたくなかった。
 声が震えてしまっていなかったか、心配になった。彼に悟られてはいけないと思った。負担をかけてしまうから。
「別にそれが辛いとか、苦しいとか思ったことはないけれど。だからこそ誰かの過去を大事にしたいって思ったんだ。過去視の能力は、そういう気持ちから生まれたものだから。でも僕は今、自分の過去を知ることが怖いって思っている」
 川崎の吐露に、燐音は今にも壊れそうな桟橋の真ん中に立っている気分になった。少しでも足を踏み出せば、川崎も一緒に落ちてしまいそうだ。
「こんな話してごめん。記憶がなくてごめん」
 川崎は優しい口調で燐音にそう告げると、それ以上は何も言わなかった。気づいているのかいないのか。本当は何度も自分の事を覚えていないか聞きたいと思っていた。でもそれは出来なかった。する勇気が持てなかった。六年前の思い出を、覚えていないとはっきりと言われてしまったら、自分の中で積み上げていた大切なものが崩れてしまいそうだったから。
「謝る、必要はないと思う」
 燐音の口から、震えた声が出た。隠すことが出来なかった。
「それでも。君には謝らなくてはいけない気がしたから」
 哀しいとか淋しいとか色々な感情がぐちゃぐちゃになって、燐音の瞳から溢れていった。涙が重力に逆らえずに、ジーンズの上に一粒一粒落ちていく。
「教えてくれて、ありがとう」
 燐音は精一杯の勇気を出して、顔を隠したまま一言だけ小さな声で呟いた。
 これ以上は何も望んではいけないような気がした。燐音の過去の記憶を、川崎の能力で視ることは可能だろうけれど、それを提案するのは気が引けた。自分の過去を知ることが怖いと嘆く川崎には、何も言えなかったのだ。

   *

 それから川崎は、燐音に昨日視た幻覚の話をしてくれた。記憶の一部がそれに反映されていることも教えてくれた。それによると川崎には妹がいるらしい。彼女の名前は、川崎琴乃。彼女が六歳の時から、学園の中心部にある本部の地下室で眠っていることを、川崎は今日、米田恵理子から聞かされたという。
「詳しくは教えてくれなかったけれど、川崎琴乃に会わせてくれると米田先生は約束してくれた。けれど気持ちの整理がつかなくて、僕は時間が欲しいと答えた。それからずっとここにいる。ひとりで考えたかったんだ」
 燐音は川崎の話を聞いている間に、涙を拭いて頭を上げていた。彼の視線は少しだけ下を向いていて、目があうことはなかった。
 もしかしたら自分は、ここへ来てはいけなかったのかもしれないと燐音は思った。立ち上がろうとしたけれど川崎が続けて、「けれどダメだね。ひとりでいると悪い方向にしか考えられない。君が来てくれてよかった」と言ってくれたのでやめた。
 燐音が学園に来てからこうして川崎と二人きりになることはほとんどなかった。意図的に避けていたのもあるが、川崎が一人でいるところもあまりみることがない。大抵は、米田先生や本間宗太と一緒にいることが多かったためだ。
 けれど今だけは、他の人に来ないでほしいと願う。「来てくれてよかった」と言ってくれるこの人との時間を大切にしたいと、燐音は思ってしまったから。
 
   4

 一週間はあっという間に過ぎていった。
 竜太郎は米田にまだ返事をしていない。彼女の方も忙しいのか、顔をあわせても何も言ってこなかった。
 ところがその日。竜太郎に一通の手紙が届いた。差出人は、米田恵理子。手紙を渡してくれたのは、足立清二だった。何故彼がと疑問に思ったが、答えは手紙の中にあった。
 部屋で本間宗太と一緒に読んでほしいと白い封筒の表に書いてあったので、竜太郎はその日の夜に寮の自室で宗太と二人で封を開けた。綴じてあったシールは、ピンク色の宝石の形をしていた。
 簡単に言えば手紙の内容は、川崎琴乃についての詳細だった。
 琴乃の能力は、空想でひとつの世界を創ることが出来る。その世界は彼女の願望で創られた永遠の世界で、それを維持するため理事長が別の能力者を使って琴乃の時間を止めたこと。
 米田が琴乃の待遇を良く思っていないため、竜太郎の記憶が少しでも戻る兆候がみられたら、彼女は理事長に逆らうと決めていたらしい。そのひとつが、竜太郎と寺沢を会わせることだった。
 寺沢の能力は対象者の記憶を元に幻覚を作るため、それがきっかけになり竜太郎の記憶の一部を戻したかった。荒療治だったかもしれないと反省の文字も書かれていた。
 計画がある。と手紙の中の米田がいう。
 そのための協力者として足立。そして事情を知っている宗太の二人の名前があがっていた。
 手紙の最後は、『次の日曜日。午前十時に学園本部に集合してほしい』という文章でしめられていた。
「竜太郎。考えていた答えは出たか」
 隣で一緒に手紙を読んでいた宗太に、そう問われる。
 竜太郎は答えた。 
「米田先生の言うとおりその子が辛いめにあっているのだとしたら、僕は助けたいって思うんだ。それは僕が兄って立場にいるからではなく、生徒たちを助ける洸生会のメンバーだからだ。理由はそれでもいいだろう」
 宗太が頷く。
「ああ。いいと思う」
 答えなど最初から考えるまでもなかったのだと竜太郎は思う。色々な事実を突きつけられて混乱していただけなのだ。洸生会として動けばいい。悩む必要などなかった。
「けれど一つだけ我儘を言うならば。もうひとりだけ協力者を増やしたい」
 竜太郎には考えていることがあった。宗太には伝えても良いと思うことだ。
「俺は別に構わないが、誰だ」
 宗太に向かってその名を告げる。
「小池燐音」
 意外だったのか、宗太が目を丸くしていた。
「彼女が必要なんだ」
 竜太郎は真剣な表情で言った。
「理由を聞いても良いか」
 宗太の質問に、嘘を吐く必要はない。だから竜太郎は正直に答える。
「彼女に僕の記憶の話をしたんだ。だからまったくの無関係というわけではない」
 宗太は竜太郎の言葉を予想していたかのように、表情を変えなかった。
「それで何で必要と言い切るんだ。確かに彼女の能力は便利だ。けれど、わかっているのか。理事長の意向に逆らうんだ。ただで済むとは思えない。それに彼女を巻き込むことになるんだぞ」
 核心をつくように、宗太が言った。それが彼の優しさなのだと、竜太郎は知っている。
「それでも」と竜太郎は言う。
「よく考えての事なのか」
「それに彼女は、きっと断らない」
 宗太の言葉に、竜太郎は頷きながら断言した。

   5

 協力してほしいことがあるんだ。と川崎竜太郎が言った。
 理由は聞かなくてもわかっていた。川崎琴乃を助けるために手を貸してほしいと彼は思っている。小池燐音は自分にできることがあるならば喜んで協力すると、迷わずに答えた。
 一緒にいた本間宗太には、理事長に逆らうことになることを理解しているのかと問われたが、燐音はわかっていると返答した。
 それでも。琴乃を閉じ込めているという事実が、燐音にはどうしても間違っていると感じる。だから協力させてほしいと伝えると、本間は納得した様子だった。
 そうして日曜日。川崎と本間と合流した燐音は、学園本部へと向かっていた。そこで米田恵理子と合流する予定らしい。
 本部は学園の中心部にある建物で、生徒たちは滅多に出入りすることはない。緊張した面持ちで三人は正面玄関の前に立っていた。
 しばらくすると自動ドアが開き、奥から米田が姿をあらわして言った。
「来たわね」
 川崎は「お待たせしました」と軽く頭を下げながら言った。
「安心して。警備員はいるけれど、私が何とか出来るから。琴乃ちゃんを助けてあげて」
 声を押さえながらそう言って、米田は微笑む。燐音はその姿に違和感を覚えたが、彼女は何か別の事を考えているとかそういったことは心をよんでもわからなかった。ただ伝わってきたのは不安と哀しみだけだった。
 本部の玄関口には警備員が一人立っていて、米田は彼に何やら告げていた。「特別指導」という単語が耳に入ってきて、燐音は少しだけ胸をざわつかせた。米田の嘘を、警備員は信じるのだろうか。緊張感が漂っているような気がした。
 不安に思い、川崎をみると、彼も表情を強張らせていた。
 警備員との話が終わると、米田はそのまま歩き始める。
「こっちよ。ついてきて」
 言われるままに、三人は米田の後ろをついて歩いた。
 エレベーターに乗り、地下へ向かう。
「竜太郎くんと琴乃ちゃんは五年前、この学園へ来たの」
 米田がエレベーターの番号を押しながら、過去の事を話し始めた。
「そのとき私もまだここに来て間もなかった。慣れない仕事に四苦八苦していたわ。そのときに二人に出会った。竜太郎くんが十二歳。琴乃ちゃんが六歳のころだった」
 エレベーターは静かな音を立てて下がっていく。
 燐音と川崎と本間は、米田の話を真剣な表情で聞いていた。
「その時竜太郎くんは既に記憶を失っていて、琴乃ちゃんより先にこの学園へ来たの」
 しばらくすると、エレベーターは高い音を鳴らして地下一階で停まった。
 米田は一度そこで話を切ると、再び歩く。彼女が向かった先に大きな扉があった。そこには玄関に立っていた人とは別の警備員が、二人立っていた。米田は二人に挨拶をして、「許可はとってあるわ」と告げた。米田の再びの嘘に、警備員たちは不審に思うこともなく米田に一礼をして、それから扉の鍵をカードキーで開けた。

   *

 中に入ると、そこは大きな部屋だった。くまのぬいぐるみや積み木。子ども用のおもちゃが部屋の端のショーケースの中に入れられていた。中央にはベッドがある。そこに女の子が寝そべっていて、それを見守るように椅子に座っている男の人がいた。男はこちらに気づくそぶりもみせなかった。おそらく能力で琴乃の時間を止めている人物こそが、その男だったのだろう。
「琴乃ちゃんの時間は六歳のまま、こうして止められているの」
 米田が説明する。
 五年間。彼女はここでこうして眠ったまま、どんな夢をみているのだろうか。
 燐音はそれを想像して気持ち悪さを感じていた。それとほぼ同時だったと思う。
 川崎が突然走りだし、琴乃をみつめたままの男に掴みかかった。止める間もなかった。米田さえ予想もしていなかった出来事だったらしい。
「竜太郎くんっ」と米田が慌てたように叫んだ。
 川崎は一瞬我に返ったのか、自分の行動に当惑した表情をみせ、男を突き飛ばした。彼は、椅子ごと床に倒れた。
「うっ」
 うめき声をあげる男は、やっとこちらに気づいたのか起き上がりながら驚いた顔をした。
「君たちは、一体……」
 その場にいた全員が、川崎の行動に動揺していた。
「目が覚めましたか」
 川崎が剣呑な目つきで男をみおろしていた。
 燐音はとっさに、能力を使って川崎の心をよんでしまった。彼の心の揺らぎが、いつもより大きく、混乱しているように思えたからだ。
 そうして燐音は川崎が、記憶を取り戻したことを知った。彼は琴乃をみた瞬間に自らの記憶をすべて思い出した。そして男に対して記憶が戻ったことによる感情の混乱をぶつけてしまったのだ。
 それは当然の事だったように思う。仕方のないことだったと。理由を知れば、誰も彼の事を責められないと燐音は思う。
「交代の時間……。でもなさそうだな。米田さん。事情を説明してくれないか」
 男は倒れた椅子をそのままに、立ち上がるでもなくそのままその場にあぐらをかいて座った。面倒だったのか、それとも立ち上がる気力さえないほどに能力を使って疲弊していたのか。男は米田のほうを真っすぐにみた。
「すみません。黒川さん。こんな起こし方をするつもりではなかったのですが」
 米田が額に眉を寄せながら言う。
 燐音は口元を両手で押さえながら隣をみると、本間が嫌なものでもみるように、苦い顔をして川崎に視線を向けていた。
 川崎が黒川という男から目を離し、ベッドであおむけになって眠っている琴乃の近くへ寄って彼女に声をかけた。
「琴乃。起きろ。お兄ちゃんだぞ。迎えに来たんだ。一緒にここから出よう」
 それはまるで、本物の兄のような振舞いだった。
 川崎の手が琴乃の肩に触れようとしたときだった。
 黒川が立ち上がり、川崎の腕を掴んだ。
「あなたがこの子のお兄さんだというなら、やめてあげてください」
「え?」
 黒川の言葉に、川崎が顔をしかめた。
「この子は、幸せな夢を見続けています。ここでこうしていることが、この子の幸せなんです」
 それが当たり前かのように、黒川は言う。
「何を、言っているのですか」
 川崎の声が震えていた。
 黒川の言葉の意味は、燐音にも理解できなかった。
「みてください。この子が大事に抱えているもの。六歳の子どもが、なにも理解していなかったとでもお思いですか。この子は、この宝箱の中に幸せな世界を創造したんです」
 黒川の声は優しく部屋に響いた。
 みんなの視線が、琴乃のほうへと向けられていた。彼女はその小さな両腕で大事そうに、小箱を抱えていた。それが琴乃の小さな幸せの世界のようだった。
「黒川さん。琴乃ちゃんをこのままにしていて良いと本気で思っているんですか」
 米田が黒川に向かって尋ねる。
 黒川は一瞬迷うような表情をみせたが、琴乃をみつめる目は、自分は間違っていないとでも言いたげだった。
「少しだけ時間が進んでしまいました。彼女の体に負担がかかってしまいます。私が力を行使しないと、彼女は弱っていく一方なのです。彼女はこうしている間にも自らの意思で能力を使い続けています」
 黒川の説明に、米田が首を横に振りながら言う。
「なら、なおさらこのままにしておくのは」
「本当にそう思いますか。米田さん。あなたは知っていますよね」
 黒川が米田のほうをみずに、そう言った。彼の能力はみつめている間だけ、対象の時間を止める能力なのかもしれない。と燐音は思った。
 米田は黒川に返す言葉がないのか、そのまま黙り込んでしまっていた。
「それでも、琴乃を解放してほしいです。彼女のためにも。こんなことは間違っています」
 川崎が顔をしかめながら言った。
「もしも罪悪感からそう言っているのなら。あなたはこの子に会うべきじゃない。その理由は、あなたが一番よくわかっているはずです」
 川崎が肩を落とした。琴乃を助けに来たはずなのに、何もできないと、このまま助けられないのかもしれないと思っている様子だった。
「わかっている」
 川崎は悔しそうに唇を噛んだ。彼は何を思い出したのか。燐音にはそこまで知ることはできなかった。
 黒川がゆっくりと川崎の手を離した。
「理解していただけましたか」
 黒川は息を吐いた。
 燐音は、自分が今できることは何なのかを考えていた。何のためについてきて、ここまで来たのかを考えていた。協力するとは言ったものの、具体的に何をすればいいのかわかっていなかった。だから今のこの状況を鑑みて、頭を回転させた。
 そして気づいた。燐音には、燐音にしかできないことがあった。
 そこに思い当たった時、燐音は勇気を出さなくてはならなかった。
「待ってください」
 燐音にしては大きな声だった。僅かに声が裏返ってしまったので恥ずかしかった。
「小池?」
 本間が首をかしげて、こちらをみていた。
「川崎くんが、私をここに連れてきた理由がやっとわかりました」
 燐音は真っすぐに川崎をみつめて言った。
「琴乃ちゃんの心を、知りたかったんですよね」
 川崎の方も、琴乃ではなく燐音のほうをじっとみつめていた。
 そうだ。と肯定するかのような沈黙の後、川崎が口を開いた。
「琴乃と会話ができれば。小さな声でも聴きとることができれば、斉藤でもよかったんだ。けれど小池の能力があれば今の状態でも琴乃の気持ちを知ることができる。だから君が必要だったんだ。どうしても」
 燐音は、自分が必要とされた理由がはっきりとわかって安堵した。
「小池。琴乃はなんと言っているんだ」
「それは――」
 燐音が川崎に答えようとした時だった。
「やめて」
 突然、米田が拒むように言った。
 黒川以外全員の視線が、彼女に向けられた。
「やめて、それ以上は言わないで。知らないで。知らなくてもいいことよ。小池さん。あなたも言いたくないでしょう。ねぇ。そうでしょう」
 米田の声が震えていた。
「米田さん」
 黒川が琴乃から視線を外さずに彼女の名を呼んだ。その顔はとても苦しそうだった。
 彼は何かを知っているのかもしれなかった。 
「知らないほうが幸せなこともあるのよ」
 諭すかのように米田は言うが、燐音は首を横に振った。それは否定だった。燐音は米田の言葉を否定した。
 米田は矛盾していた。彼女は川崎の記憶を取り戻そうと奔走していたはずなのに、いざこの時が来たのにも関わらず、それを邪魔しようとしている。
 ――なぜ?
 隠そうとしている真実があるのだろうか。川崎の記憶を戻し、琴乃を助けたい気持ちと、琴乃の心を知ることは別物なのだろうか。黒川の言葉も気になる。だとしてもただ一つ分かることは、それは間違っていること。
「違います。米田さん。貴女のそれは、ただの過保護です。五年もここにいて。川崎くんが、何も成長していないなんて。まさかそんなこと、思っていませんよね」
 米田が守ろうとしているものが何なのかは知らないが。知らないほうが幸せだとは限らない。昔のことは知らないが、川崎が五年間ここで頑張ってきた意味がきっとあるはずだ。
 米田の瞳は揺らいでいた。肩が震えている。
「思っていないわ。あなたならわかるでしょう。けれど、知ってしまったらきっとショックを受けるわ。傷ついてしまうわ」
 米田の姿は、母親を想起させた。いや、きっとそうなのだろう。五年という間に、川崎と親子のような関係を築いていたのかもしれない。思えば彼の名前を呼ぶとき、ひと際優しい声色だった。 
「米田さん。貴女が思っているよりずっと。川崎くんは強いんですよ」
 そう言って、燐音は微かに笑った。
 この数か月間。燐音が知る限り。川崎竜太郎は思ったよりずっと頼りになるし強い。燐音はそう思っていた。
 だから協力してほしいと言われたとき、驚いたと同時に、それだけ自分が信頼されていることに嬉しさを感じた。それが彼に手を貸そうと思った理由だった。
 燐音は琴乃のそばに立った。彼女の心の声に集中する。本当はずっと聴こえていた彼女の心の声に、耳を傾けた。
 それから話し始めた。琴乃が心の内に秘めていたその想いを。自分はこのために来たのだと思う。

   6

 さいきん、おにいちゃんが学校のはなしをしてくれなくなった。
 琴乃がおねがいしても、おにいちゃんははなしたくないっていうの。
 おにいちゃんは学校がきらいになっちゃったのかな。
 琴乃はかなしい。おにいちゃんから学校のはなしがきけなくなったら、とってもさみしいから。

 今日はなぜか、おにいちゃんがずっとへやにいる。
 いつも学校へ行っているじかんにおにいちゃんがへやにいるなんて、へんなかんじ。
 かぜをひいたのかなっていったら、おにいちゃんはちょうしがわるいんだっていってた。早くなおるといいな。

 つぎの日も、またつぎの日も、おにいちゃんはへやにいる。
 まだちょうしがわるいのかな。なにかのびょうき?
 おかあさんにきこうとおもったら、おかあさんがこわいかおをしておにいちゃんをみていたから、琴乃はなにもきけなくなっちゃった。
 おにいちゃんもしかして、ずる休みなのかな。
 
 よる。おとうさんとおかあさんがけんかしている。
 おにいちゃんのことでけんかしているみたいだった。
 どうしてこんなことになったのっておかあさんがないて、おとうさんはおかあさんのせいだっていってる。
 琴乃はかなしくなってないちゃった。
 おにいちゃんはそれをみて、へやにとじこもっちゃった。
 もうどうしようもなかった。
 かぞくが、ばらばらになっちゃう。
 
   *

 おにいちゃんが琴乃に、おにいちゃんのもっているひみつをおしえてくれた。
 おにいちゃんはさいきん、へんなものが見えるんだって。
 いえのそととか、いっぽも出ていないのにわかるんだって。
 見ようとおもえば学校も見えるんだって。
 おにいちゃんは、琴乃に学校でなにをやっているかおしえてくれるっていったの。
 おにいちゃん。学校に行くのはいやだけど、見るのはいいなんておかしいっていったら、おまえも行けばわかるっていわれた。
 それでけんかになっちゃった。
 おにいちゃん、もう琴乃をへやに入れてくれないの。
 琴乃はしかたないからおとうさんとおかあさんのへやでねるの。
 でも、おとうさんとおかあさんもけんかしているから、琴乃はおかあさんとおとうさんとべつのおふとんでねるの。
 いっしょにねたいなぁ。
 おにいちゃん。琴乃のこときらいになっちゃったのかな。
 ごめんなさい。あやまるから。
 琴乃、おにいちゃんにきらわれたくない。
 おにいちゃん。
 おにいちゃん。
 へやから出てきて。おねがい。なんでもするから。
 おにいちゃん――。

   *

 ゆらゆらゆらゆら。なんだろう。
 おへやの中で赤いひかりがゆれている。
 あれはにかいのおにいちゃんのへやかな。
 おかあさんとおにわであそんでいたらへんなひかりがみえて、それをいったらおかあさんがあわてておうちの中に入ってっちゃった。
 きょうはおとうさんがおやすみで、おへやでテレビをみてるの。
 おにいちゃんはきょうもへやにとじこもっている。
 琴乃。おかあさんにじっとしててねっていわれたから、青いいろの小さくてやわらかいボールをりょうてにもって立ってたの。
 おかあさんはおうちに入ったままずっと出てこないの。おかしいなっておもっていたら、だんだんへんなにおいがしてきたの。おかあさんが、たまにおりょうりをこがしたときのにおい。
 くろいけむりがね。もくもくしているの。へんだなっておもった。
 でもね。琴乃。こわくてうごけなかったの。
 そしたらとなりのおうちのおばさんがきてくれて、琴乃をだきしめてくれた。
 おばさんが「だいじょうぶ?」ってなんかいもきくの。
 琴乃は「だいじょうぶだよ」ってなんかいもこたえた。
 おばさんに「おうちに、まだだれかいる?」ってきかれたから、琴乃は「おとうさんとおかあさんと、それからおにいちゃんもいるよ」ってこたえた。
 そうしたら、おばさんのかおがもっているボールみたいに、青くなったの。
「すぐたすけがくるからね」っておばさんがいった。

 しょうぼう車ときゅうきゅう車と、それからけいさつの車がきた。 
 なんだかいっぱいしらないおとなの人が、しょうかかつどうっていうのをしていた。
 琴乃はおにわから外のどうろにでて、おばさんとふたりでそれをみてた。
 おうちのやねから火が出てたの。
 赤いひかりだと思ってたのが、火だったの。
 だれかが「かじ」だってさけんでた。
 琴乃。こわくてずっとふるえてた。となりのおばさんのうでにずっとしがみついてた。
 おばさんはずっと琴乃のそばにいてくれた。
 しょうぼうたいいんさんが、もえているおうちに入っていって、しばらくしたらだれかをかかえてもどってきたの。
 おとうさんかな。おかあさんかな。っておもって、琴乃は、はしったの。
 ちかくにいったらそれがだれだかわかった。
 
 ――おにいちゃんだった。
 
 おとうさんとおかあさんは、おにいちゃんのあとにたすけだされたの。
 おとうさんとおかあさんと、それからおにいちゃんは、ひどいやけどをおっていた。 
 琴乃はなみだがとまらなくなった。
 ぜんぶおにいちゃんのせいだ。
 きっとおにいちゃんが火をつけたんだ。
 だってさいしょにみた赤いひかりはおにいちゃんのへやだった。
 おにいちゃんなんか、だいっきらい。おにいちゃんのせいで、おとうさんとおかあさんもひどいけがをして、めをさまさなくなっちゃった。
 ぜんぶ。ぜんぶ。ぜんぶ。おにいちゃんのせいだ。
 おにいちゃんが琴乃のだいじなものぜんぶ、うばっていったんだ。 
 おうちにはもうなにものこっていなかった。
 ぜんぶもえちゃった。

   *

 おとうさんとおかあさんとおにいちゃんは、にゅういんしている。
 おとうさんとおかあさんがめをさまさないから、琴乃はしんせきのいえにいくことになった。しょくぶつじょうたいっていわれたけれど、琴乃はよくわからなかった。
 いつめざめるかわからないって、どういうこと?
 おにいちゃんはちゃんとめをさましたのに、どうしておとうさんとおかあさんはめをさまさないの。
 おにいちゃんがどうなるのかはしらない。
 できることなら琴乃は、もうおにいちゃんにはあいたくない。
 琴乃がいつまでもかなしいかおをしていたら、しんせきのおじさんがちいさな「はこ」をくれた。
 そこに、これからあたらしいたのしいおもい出を入れようっていわれた。
 琴乃は、それはいやだなっておもった。
 だから琴乃はたのしかったころのおもい出を、このはこに入れようっておもった。
 キラキラのおもい出。
 げん気だったころのおにいちゃんとおとうさんとおかあさん。このはこに入れてこんどこそたいせつにしようっておもった。
 なにかへんだなっておもったのは、すぐだった。
「はこ」のなかにみんながいた。
 琴乃はうれしくなっちゃっておじさんにいったの。
 そしたらおじさんが、おかしなものをみる目で琴乃をみたの。
「なにかおかしいかな?」ってきいたら、おじさんはあわてておかしくないよっていってくれた。
 でもね。つぎの日、つえをついたおじいさんが琴乃のところにきたの。
 琴乃、おじいさんのはなしがよくわからなくて。
 のうりょく? すごい? 琴乃。てんさいなの?
 おじいさんについていったら学校にいけるんだって。
 琴乃が学校にいきたいっていったら、おじさんがいいよっていってくれた。
 でもお金がかかるのかなって、しんぱいになった。
 おとうさんとおかあさんは、いつもお金とおにいちゃんのことでけんかしてたから。
 おじいさんは、しんぱいいらないよっていってくれた。ほじょきんっていうのがでるんだって。

 それから琴乃は、おじいさんについていって学校に入ったの。
 でもおもっていたものとは、なんだかちがうみたい。
 おじいさんは、しんぱいいらないよっていうの。
 でも琴乃、みちゃったの。
 おにいちゃんがいる。
 おにいちゃんはまだ琴乃に気づいていないけれど、おにいちゃんがいるの。
「琴乃は、おにいちゃんにあいたくない」
 そういっていやがっていたら、おじいさんにあることをいわれた。
 ねむるんだって。そうしたら琴乃がもっているあの「はこ」のせかいの中に琴乃も入れるんだって。ずっといられるんだって。
 だから琴乃はねむっているの。
 ずっと。しあわせなせかいでくらすの。

   7
 
 小池燐音が泣いていた。
 満杯の器に水を入れ続けているときみたいに、涙が瞳から溢れていく。頬を伝って涙の粒が床に落ちていった。最初こそ零れ落ちてくる涙を拭いながら、ずっと泣きながら話していたのだが、途中から面倒になったのかそれすらしなくなった。
 小池は目に涙をいっぱいためて、話していた。竜太郎はそんな彼女の顔をみていることが出来なくなり、視線を自分の足元に移した。灰色の固そうな床がそこにあるだけだった。
 小池の話す言葉ひとつひとつに、竜太郎は琴乃の想いを感じた。
「もういい」
 竜太郎は、震えた声で言った。
 全部。そう全てを思い出した。
 小池が急ぐように涙を服の袖で拭い、竜太郎のほうをみた。
「もういいんだ。もう、わかったから」
 諦めたように竜太郎は言った。しかし、小池が首を横に振る。
「待って。最後まで。きいてほしい」
 小池の言葉に、今度は竜太郎が首を横に振った。
 聞きたくないと思った。これ以上は、知りたくないと思った。琴乃の心の声を聴いて、この先を知ることをためらった。
 覚悟していたはずだった。どんな過去があっても、妹が自分の事をどんなふうに思っていたとしても、すべて受け入れるつもりだったはずなのに。
 琴乃が自分に会いたくない。そう思っているのなら、やはり会わないほうがいいのだろう。
「僕は琴乃を助けなければと思っていた。けれどそれは、間違いだったんだな」
 そう言って、竜太郎は目を伏せた。
 米田が竜太郎の両肩を後ろから両手で掴み、部屋から出るように促してくる。竜太郎の言葉を肯定するような行為だと思った。
 竜太郎は米田の気持ちもわかるような気がした。彼女の行為は常に竜太郎の事を思っての事だとも理解している。だから促されるまま、部屋を出ようと思った。
 黒川が倒れたままだった椅子を起こし、最初に座っていた場所と同じ位置に戻したのがみえた。そして彼は何も言わずにそこに座った。
「おい、待て」
 宗太の静止する声が聴こえた。竜太郎は立ち止まった。入ってきた扉の前に動線を塞ぐように、宗太がそこに立っていた。
「そこをどいてくれないかな。宗太くん」
 米田が言った。
「いやです。だってそれこそ間違いでしょう」
 宗太が怒ったようにそう言った。
「でも。それでも、あなたはそこをどかなくちゃいけない。竜太郎くんはこれ以上ここにいてはいけないわ」
「は? 竜太郎をここに連れてきたのは、先生だろう」
「私は竜太郎くんの記憶が戻って、琴乃ちゃんをここから連れ出せるのなら何でも良かったの。琴乃ちゃんの本心なんて知らないし、知りたくもなかったの。だから、あなたたちが小池さんを連れてきたとき、嫌な予感がしていたの」
「自分勝手ですね。先生」
「私もわかっているわ。けれど、こうするしかないの」
 愁いを帯びた表情で、米田が言った。
「竜太郎。お前が家に火をつけたのが真実でも。琴乃ちゃんがそれに気づいていたとしても。琴乃ちゃんに嫌われていたとしても。お前はそれを、受け入れなければいけないって、わかっているよな」
 とても強い口調だった。宗太は容赦なく竜太郎の胸に剣を突き立てるように言葉を投げつけてきた。
 竜太郎は手のひらで拳をつくって自分を奮い立たせる。そうして思い出した記憶の断片を繋ぎ合わせて言葉にする。
「ああ、そうだよ。僕が火をつけた。琴乃の思っているとおりだ。何も間違っていない。あの日、僕は父親とケンカをした。学校へ行けと頭ごなしに怒鳴られた。もう何もかもが嫌になった。僕はすべて燃えてなくなればいいのにと願った。願ってしまったんだ」
 その瞬間、世界が竜太郎の願いを叶えた。
「突然、指先に火がともった。最初は幻かと思った。けれど気が付いたら僕の周りは火に囲まれていた。どんどん燃え広がって家を焼き尽くしていった。恐ろしい光景だった。けれど僕は何もできなかった。その場に立ち竦むしかなかったんだ」
 燃え盛る炎の中。思い出したのは血相を変えて部屋に飛び込んできた父親の顔と、母親の顔。怒っているのか、哀しんでいるのかわからないそんな表情をしていた。
「それも、もしかして竜太郎の持っている能力のひとつだったのか」
 宗太が顔をしかめながら竜太郎に尋ねる。
 発火の能力は、この場にいる中では米田しか知らない事実だった。宗太にすら明かしていなかった。
 竜太郎は宗太の質問に、無言で頷いた。
「次に目が覚めたとき、僕は病院にいた。どうして病院にいるのか、自分が誰なのかもわからなかった。医者に一時的な記憶喪失だと言われた。火事で大したやけどもなく、奇跡的に命は助かったということだった。僕は過去を失った。だから過去を求めた。過去視が使えるようになったのはその時だ。皮肉なことに自分の過去は視えなかったけれど、他人の過去が視えるようになったんだ。だから僕はこの能力を、他人を助けるために使おうと思った。人には過去を大事にしてほしかったから。目の前に杖をついた知らないおじいさんが現れたのは、それから数日経った頃だった。理事長は、ことの経緯について教えてくれた。発火能力の事。それで家が火事になった事。家族についてはなにも教えてくれなかったけれど、記憶が混乱しないようにしてくれたのだとその時は思っていた。僕は過去視の能力について理事長に相談した。彼は理解を示してくれて、最初からそうするつもりだったのだろうけれど、うみほたる学園に入学することを提案してくれたんだ。それで理事長に、僕の才能を生かさないかと言われた。どうせ居場所なんてなかったから、僕は悩みもせず答えを出したんだ」
 竜太郎は自分の罪を懺悔するかのように、目を細めながら話した。
「そうしてそこから五年もの間。両親の事も妹の事も忘れてのうのうと生きてきた。僕は、最低だ。自分がしたことを全部忘れて、大事な家族のことも放置していた。僕が友人たちと笑って過ごしている間に、僕の家族はずっと苦しんでいたかも知れないのに。助ける? 勘違いも甚だしいよ。すべて僕のせいなのに」
「だからこそ、川崎君には最後まで聞いてほしい。琴乃ちゃんの話はまだ終わっていないから」
 小池が、竜太郎のことを真っすぐにみていた。
「怖いんだ」
 竜太郎は弱々しい声で言った。
「怖いんだよ。恐ろしいんだ。これ以上何があるのか。どんな恐ろしい言葉が出てくるのか。それを考えるだけで怖い。僕は弱い。だから学校へだって行きたくなかった。ある日突然、すべてが嫌になった。無理をして面白くないことに笑ったり、出来ないことを出来るふりをしたり。そうしたことに疲れたんだ。それは今だって同じだ。逃げ出したくてたまらない」
「だからって、逃げんなよ」
 宗太が呟くように言った。
「大事な場面で逃げんな。自分が壊れそうで、守りたくて逃げるのはいい。けれど、違うだろ。今は違うだろう。妹を助けることから逃げるな。洸生会としても、生徒を助けるって言ってただろう。自分で一度決めたことぐらい守れ。守り抜いてみせろ。妹がそんなに大事なら。最後まで聞いて、受け止めてやれよ。それができないっていうのなら、最初から守れない決意をするな」
 宗太が竜太郎を追い詰めるつもりでその言葉を発しているわけではないことぐらい、わかっている。竜太郎のためを思って言ってくれていることぐらい、理解していた。
 ふと気が付くと、小池が竜太郎のすぐ傍まで近づいていた。
 竜太郎は怯えた目で小池をみた。
「どうしても伝えてほしいことがあるって、琴乃ちゃんが」
「琴乃が?」
 小池の言葉に、竜太郎は目を見開いた。
 小池が黒川のほうをみる。
「少しだけ待っていただいても、いいですか」
 その目は真っすぐだった。黒川は少しだけ迷った様子だったが、「ああ」と答えた。
 米田も小池の様子をみて何かを感じたのか、大人しく竜太郎の肩から手を離した。
「琴乃ちゃん。ずっと川崎君のことをみていたの。眠りに入ってからとても幸せだったけれど、あるときふと外の世界と繋がった。怖かったけれど、みてみたの。そうしたら川崎君のことがみえた。この世界の中からなら外の世界をみることができた。だからみていたの。琴乃ちゃんは、五年間。ずっと川崎君のことをみていた」
 予想外のことだった。
 琴乃が創った世界と、外の。現実の世界が繋がっていたなど。そんな都合の良いことがあるのだろうか。いや、あるのかもしれない。それが彼女が望んだことだったならば、あるいは。
「それで?」
 竜太郎は小池の言葉に耳を傾けていた。ようやく向き合うことができそうな気がした。
「川崎君は五年間。記憶がないながらも、洸生会のリーダーとして頑張っていた。その姿をみて、琴乃ちゃんはいつの間にか川崎君を応援するようになっていたの。頑張れって応援しながら、ずっとみていたの。恨みとかそんなものいつの間にか忘れていた。川崎君が誰かを助けようと必死に努力しているところをみていたから、許そうと思えたって。琴乃ちゃんはもう、川崎君の事を恨んでいないの」
 小池の優しい声に、竜太郎の視界に映る彼女の姿が、どんどんぼやけていった。
 いつからか、竜太郎は泣くという行為が出来なくなっていた。それは病院で目覚めたあの日から今までずっとだ。だが今は違う。竜太郎は記憶を取り戻し、泣くことも取り戻していた。竜太郎の瞳から、涙が自然に流れていた。
 五年間の竜太郎の努力を、琴乃はみていてくれた。その事実がわかっただけで充分だった。竜太郎は報われのだ。
「琴乃は、僕を許してくれるのか」
「うん」と小池は頷いた。彼女も泣きそうだった。
「罪は充分に償えたよ。だから。ね。もういいんだよ。罪悪感から解放されても。いいんだよ」
「そうかぁ」
 安堵したような声が、竜太郎の口からもれた。
 それから竜太郎の涙が止まるまでの間。静かに時が流れていった。

   8

 それは怒りであり、呆れであり、落胆でもあった。
 小池燐音は部屋に近づいている誰かの心を感じ取り、自分たちが入ってきたこの部屋に一つしかない扉の方をみつめた。外には警備員の青年だけがいるはずだった。
「どうした?」
 本間が燐音の様子に気づいたのか、同じく扉に目を向ける。川崎も同じ方向をみて「理事長だ」と言いながら服の袖で涙をぬぐった。
 米田は身体を強張らせていた。黒川は椅子に座ったまま、みんなと同じように扉を凝視していた。
 燐音達が部屋に入って、何分が経過していたのだろうか。わからないが、理事長がここへ来るという事実だけがそこにあった。
 扉が開いて先に入ってきたのは、警備員だった。次いで杖をついた理事長がゆっくりと入ってきた。そしてその後ろには、困った顔をした足立の姿もあった。
 足立は協力者という話を川崎からきいていたので、おそらくは理事長を足止めしてくれていたのだろう。しかし、今ここにいるということは失敗した。ということだろう。
 誰も足立を責められない。一番難しい役回りをしていた彼を、むしろよくこの時間まで頑張ってくれたと褒めるべきだと燐音は思った。
「君たちは、一体何をしているのだね」
 嘆息を吐きながら、理事長は言った。低い重厚な声だった。
 燐音は息をのんだ。
 理事長からしたら、米田のしたことは裏切りだ。この部屋に燐音たちを招き入れたのだから。覚悟の上だったが、いざその時が来ると恐ろしく、燐音は身体の震えに気づかれないよう、右手で左腕を軽く抑えた。
「すみません。理事長」
 米田は気まずそうに理事長と目を合わさずに答えた。理事長の鋭い目が米田を突き刺す。
「状況は?」
「えっと。なんと申せばいいのやら」
「簡潔に。はっきりと」
 強い口調で理事長が言う。
「私が、竜太郎くんたちをここへ連れてきました。琴乃ちゃんに会わせたくて」 
「そうか」
 理事長は米田の言ったことに頷いて、それから川崎に視線を向けた。
「それで、話は済んだのか」
「話って」
 川崎が首をかしげる。
「琴乃と話したんだろう」
「話というか。琴乃が何を思っているのかは、知ることができました」
「なるほど」
 理事長は燐音のほうを一瞥する。すべてを理解したような表情だった。
 この場でそんなことが出来るのは、一人しかいない。
「竜太郎。真実を知った今、君はどうしたいんだ」
「それでも、僕が思うことは変わりません。川崎琴乃を兄としても助けたいし、洸生会としても救いたい。理事長には申し訳ありませんが、琴乃をここから連れ出したいと考えています」
 真剣な表情をして、川崎が言った。
 理事長は一服するかのように長い息を吐いた。そこに呆れも、怒りもなかった。ただ安心したという感情を燐音は感じ取る。
 ああ、やっとか。という心の声が聴こえた。
 理事長は優しい声色で言った。
「いいだろう。ここから出て行くがいい」
「え?」
 予想外だったのか、川崎が目を丸くする。
 随分とあっさりと言うので、戸惑っている様子だった。
「良いのですか」
「良いも何も。最初からそのつもりだった」
「は?」
 呆気にとられる川崎やその場にいた全員が、理事長の行動を目で追ったと思う。

   *

 理事長が動かない足を引きずるようにして、ゆっくりと杖を使って前進した。黒川はそれをみもせずに琴乃から視線を外さないまま椅子から立ち上がり、理事長に場所を譲った。理事長が椅子にゆっくりと座る。体の前に置いた杖は支えにして、持ち手に両手をかぶせるようにしていた。そうして目の前で眠っている川崎琴乃をみつめながら、静かに口を開き昔話を始めた。
「五年前だったか。家が火事になった記憶喪失の男の子がいるんだが、おかしなことを言っていると知り合いから連絡があった。おそらく能力が関係しているから来てくれんかと。きけば他人の過去が視えるのだと。ああこれは、当たりだと思った。竜太郎は学園へ連れて行くことに決めた。そのとき妹は何の能力もなかったから、たった二人残った兄妹を引き離すことになってしまったが。まぁしばらくして琴乃もおかしくなったと連絡があった。私は二人とも学園で面倒をみることにした」
 そこまで話して、理事長が深く息を吐く。彼は眠っている琴乃から目を離さない。
「琴乃の能力は特殊でな。最初は琴乃が作った小さな箱庭だったんだそうだ。それが突然、中の物が動き出した。琴乃は能力に目覚めていた。彼女はそれを小さな箱の中の世界と呼んでいた。私もまだみたことがないものであったから、どう対応して良いものかわからなかった。しかも彼女はまだ幼い。細い糸みたいな少女でな。ちょっとハサミを入れただけで切れてしまいそうだった。だから成長を見守ろうと思っておったが。琴乃が学園にいたくない。兄をみたくない。と言い出した。琴乃は気づいておったのだ。兄が自分の事すら忘れてしまっていることに。私は考えた。どうしたらまだ六歳のこの子を救えるのか。悩んだ末に琴乃の時間を止め、竜太郎の記憶が戻るのを待った。彼の記憶さえ戻れば、この子を受け止めることができるだろうと期待して」
「じゃあ琴乃の時間を止めたのは、琴乃のために?」
 川崎が目を丸くしながら、理事長に尋ねた。
 理事長は頷いた。
「ああ。それともう一つ理由がある。琴乃の能力は思ったより彼女自身に負荷をかけていたらしい。そのまま弱っていく彼女を、救う手立てがそれしかなかったのだよ」
 理事長はゆっくりと杖を支えに立ち上がり、片手で琴乃の手を取った。その瞬間、少女の手が微かに動いた。
 いつの間にか、黒川が琴乃から視線を外していた。能力を使うことを止めたらしい。
「起きておるのだろう」
 理事長の言葉に反応するかのように、琴乃の閉じた両の瞼の端から、涙が流れていった。
「どう、しよう」という声が部屋に響く。琴乃の口から発せらせた声だった。
「琴乃」
 優しい兄のような川崎の声が彼女に呼びかける。
「どうしよう。消えちゃう」
 それは縋るような声だった。琴乃が理事長に触れられている手とは反対の手で、小さな箱を小さな手で抱えていた。その中で何が起こっているのか、外からみている燐音たちには何もわからなかった。
 きっとその中には、琴乃が創った彼女だけの世界があるのだろう。
「琴乃、本物のお兄ちゃんの顔がみたいの。でも目を空けたら、琴乃の世界が消えちゃう」
「怖がることはない。それでいいんだ。消えても誰も怒りはしない」
 理事長が優しくそう言って、微笑んだ。
「本当に、お兄ちゃんもお父さんもお母さんも怒らない?」
 琴乃の質問に、川崎が答える。
「ああ。怒らないよ」
「みんな、琴乃と仲良くしてくれる?」
「勿論。みんな琴乃の事が大好きだからね」
「もうケンカなんてしない?」
「しないようにする。だから」
 目を開けてほしい。と川崎の心がそう言った。口に出さなくても琴乃には伝わったのか、彼女はゆっくりと目を開く。宝物でもみるかのように慎重に、でもしっかりとその瞳は川崎竜太郎の事をみていた。
「お兄ちゃん」
 琴乃は兄に呼びかけるとほほ笑んで、箱を抱えていた手を離す。その手を川崎に向かってゆっくりと伸ばした。
 川崎はその手を大切そうに両手で握った。
 お兄ちゃん、大好き。と琴乃の心が言った。
 誰にも知られなかったが、燐音にだけははっきりと伝わっていた。

   9

 時間の流れというのは残酷だ。
 竜太郎は琴乃と手を繋いでいた。五年ぶりに会った妹は、当時の幼い姿のままだった。
「黒川さん」
 竜太郎は琴乃を五年間見続け、彼女の時間を止めていた能力者に話しかけた。
 彼は静かにそこに立っていた。
「私は決して間違っていなかったと思います」
 黒川は呟くように言った。
 竜太郎は真っすぐに彼をみて頷く。
「はい。それはわかっています。一番つらい役割を押し付けてしまったこと。まずは謝らせてください。すみませんでした」
 謝罪と共に、竜太郎は黒川に向かって深々と頭を下げる。
「お兄ちゃん違うよ。おじちゃんは琴乃の我儘をきいてくれたいい人だから。ありがとうでいいの」
 隣にいた琴乃がそう言って、右手は竜太郎と繋いだまま、黒川の手を左手で握った。
 竜太郎と黒川はほとんど同時に目を丸くして、琴乃の行動に驚いた。
「ね」という琴乃に、竜太郎と黒川は顔を見合わせた。それから竜太郎は、黒川に向かって「妹の我儘に付き合ってくださって、ありがとうございました」と言ってもう一度頭を下げた。
「人生というものは、生きていれば何とかなると思います」
 黒川の言葉に、竜太郎はゆっくりと頭を上げて彼の顔をみた。
「だから私は、理事長のしたことが間違いだったとは思いません。その役目を私が担ったことも、偶然ではなかったと思います。あなたたち兄妹の今後に不安はあれど、助けになってくれる人たちがいることは忘れないでください」
 黒川の言葉に、竜太郎は部屋にいる一人一人の顔を改めてみる。
 洸生会という居場所をくれた理事長。不器用だけれど見守ってくれている足立。母親代わりになってくれていた米田。親友であり同士である宗太。友人であり恩人でもある小池。それから、この場にはいないが大切な友人の一人である斉藤のことも思い浮かべた。
「ありがとうございます」
 竜太郎は感謝してもしきれないと思った。
 記憶をなくしていた五年間。常に不安が付きまとっていた。このまま何も思い出さずに生きていくのだろうか。それでいいのだろうか。自分にいたはずの家族は、今何をして何を思っているのだろうか。そんなことばかり毎日思っていた。
 忘れられた側の気持ちを考えると、息苦しくて、まるで窓のない部屋に閉じ込められているようだった。
「竜太郎くん」
 米田が眉間にしわを寄せながら、声をかけてきた。
「色々とごめんなさい。私、自分勝手だったわね。でもどうにかしなきゃ。何かしなきゃって。焦っていたの」
「米田先生は悪くないですよ。僕たち兄妹のことを考えてくださったんです。理事長も、黒川さんも。だから僕たちは誰の事も責めたりしませんし、恨んだりしません」
 同意を得るかのように、竜太郎は琴乃に視線を向ける。琴乃は「うん」と元気よく答えた。
「今後の事だが」
 理事長が椅子に座ったまま、呟く。それから米田のほうをみて言った。
「米田くん。君が二人に親心を持っているのなら、一つ提案がある」
「何ですか」
 米田が目を丸くした。
「君の住んでいるところは、敷地内のアパートかね」
「そうです。うみうしのB棟です。」
「琴乃の時間は五年前で止まったまま、ようやく動き出したばかりだ。つまり琴乃はまだ六歳。どうだね米田くん。君が彼女を引き取っては」
「え?」
 予想外の提案に、米田が呆気にとられたように口を開けている。
「本来なら女子寮の方で暮らすのが良いんだが。六歳の女の子をいきなりぽんと放り込むわけにも行くまい。五年前ならいざ知らず。今の彼女には時間が必要だろう。心と体を箱庭の世界ではなく、現実世界になじませるためのな。事情を知っている君なら適任だと思うが。どうだろう」
「そういうことなら。私、琴乃ちゃんと一緒に暮らしても良いです。私の部屋なら、竜太郎くんも自由に出入りしても構いませんし」
「良いんですか」
 竜太郎は戸惑いを隠せずに尋ねる。
 米田が竜太郎のほうをみて頷く。それから琴乃のほうをみて恐るおそる尋ねた。
「琴乃ちゃんは、それでも良い?」
「うん。お姉さんは良い人だって、琴乃知ってる。本当はお兄ちゃんと一緒に暮らしたいけれど、ダメなんでしょう。それはわかるから。琴乃はお姉さんと一緒に暮らしたい」
 純粋な琴乃の目が、真っすぐに米田に向けられていた。
 米田は琴乃に向かって微笑んで、「ありがとう。これからよろしくね」と言った。
 それをみた黒川が黙って部屋を出て行く様子をみて、ああ。あの人も琴乃の今後を心配していたのだろうなと理解した。
 先ほど彼の言っていた言葉を心の中で反復する。助けになってくれる人たちの中に、きっと彼自身も含まれていたのだ。
 本当にありがとうと、竜太郎は思った。

(終章へ続)