特集『4000字小説』「愁いの谷」
「今井さん、明日釣りに行きますよ。いいですね」
会社の引け際に、内村が事務室に大きな身体を現わした。いきなりのことに、今井はこっちの都合を先に聞くのが当たり前だろうが、と口から出かけるが、まあいいかと即答する。
「ああ、いいよ。で、何時?」
不精髭を撫でながら見上げた。
業務課の内村は十才年下である。悪戯好きの子供のような目をして大ざっぱな性格なのに、考えていることがまるで分からない時がある。
「五時に行きますから」
それだけ言うと背を向けた。いつもはうるさいほどに喋り散らしていくのに、どうしたことだと首を傾げる。
翌朝。約束の時間にぴったりと迎えにくる内村も珍しい。今井が釣り道具一式を車のトランクに放りこんで、助手席に乗ると同時に内村はアクセルを踏み込む。一般道から国道、そして高速道路へと運転に自信を持っている内村のハンドルさばきは絶妙だが、半端でないスピードに今井は背筋が寒くなる。
考えてみれば岩魚釣りも、十月になる明日からは禁漁となる。沢へは月初めに行ったきりで、その後は仕事が手詰まり状態で、釣りは今井の頭から飛んでしまっていた。仕事よりは釣りと言って憚らなかった今井は、内村から強く誘われてしまったことに気恥ずかしさを覚えた。
相変わらずひどい轍の林道にさしかかる頃、ようやく空が白みはじめる。車の振動が尻にひびくようになると、やがて道は行き止まる。
「今年、最後だからいい釣りをしたいな」
支度をしながら今井がウエーダーをはいている内村に声をかけると、答えのつもりなのか口笛を吹き始める。なんだか聞き覚えのある曲だが、軽快な音楽が好きな内村には、まるで似合わない曲であることだけは確かだ。知らぬ間に大人になったもんだと、今井はちらりとうしろ姿に目をやる。
深くて暗い雑木林の中を三十分程歩いてから薮をかき分け、沢へ下りる。何事も猪突猛進型の内村は、一気に河原まで突き進んでしまうと、早くも竿先に糸を結んでいる。今井がその踏み跡に続いて相変わらずのんびりと糸を結んでいるころに内村は、もう声が届きそうにない所まで足をのばしていた。なかなか釣れないのか、餌のついた針を流し終える度に首を傾げている。今井は内村の竿を操る動作を遠くから眺め続けていた。
いくらか間を詰めて声をかけてみるが、聞こえないらしく、どんどんと上流へ進んで行く。
「あいつ、今日はおかしいな」
今井は呟いた。
いつもは交互に竿を出しながら釣り上がって行くのに、今日に限ってどういうことなんだと、内村の行動にだんだん腹が立ってくる。川原が途切れて流れの中を歩いていると、足をとられそうになりひやりとする。今井がようやく言葉が届きそうな所まで近づくと、その時を待っていたかのように内村は振り向き、人なつっこい笑顔を帽子のひさしの下から覗かせた。
「これ見て」
竿先を今井の方に向けると、たった今釣り上げたのだろうか、針先に掛ったままの小さな岩魚が尾びれをくねらせている。内村は照れ笑いをして、それを針からはずすと、そっと流れへ戻した。
「今井さん、先に行っててよ。僕、用を足していくから」
やはり気が引けてこの先をゆずろうとしたのか、竿を川岸に投げ出すと、足早で下流へ向かって行った。
沢筋にも陽射しが届き始めた。透き通った水が大小の岩を縫うように、穏やかな波を生んでは流れている。今井はそっと糸を送り込む。
釣れないままに随分と歩いた。
マタタビが早くも実を色づかせている。小鳥が気配を察してか飛び立って行く。山は魚が釣れなくても、何時だっていい気分にさせてくれる。
それにしても遅い。どこまで用足しに行ったのだろうか。今井が狭い川原にある岩に腰をおろして待ちくたびれていると、川の中をよろつきながらやってくる。ガムでもかんでいるのだろうか、口をもぐもぐさせている。
「梨、食べます?」
いきなり何を言うかと思ったら「梨」だ。どこでこんなものを見つけたのか、釣りにきていながらよく目が届くもんだと今井は感心する。そのキウイを丸くしたような小梨を、手のひらに乗せて目の前に出してくる。皮はざらざらしていて、いかにも硬そうだ。これは本当に食べられるのか。
「渋っ」、今井はアゴをかたむけ、ひと口をかじると、まじまじとその梨を見る。
「よく食べられるな、こんなに硬くてまずいものをよ」
「今井さんと同じ天然の味ですよ」
「な、何だと、俺が天然だとはどういうこった、おい」
まだいくつか持っているらしく、ベストのポケットを上から押さえて目を細め、横に腰をおろした。内村はそこで何個目かの梨をかじると、いきなり残骸を川に投げつけ、仰向けになって長いため息をついた。
岩にからみつくような流れに乗って沈んで行く残骸を目で追いながら今井は呟いた。
「釣れんなあ、もう産卵期に入ったのかなあ」
言葉に反応したかのように内村は顔を背け、身体をゴロリとさせてうつ伏せになった。
「あ、すまん」
結婚して五年になる内村には、どうした訳か子供がいない。
昼にはまだ早いと思ったが、重くなりかけた空気を払いのけようと今井は飯に誘った。
急斜面をよじのぼって、日当たりの良い所で腰をおろす。足を伸ばし、二人は肩を並べて握り飯を頬張った。
初秋の風が山をざわめかせては吹き抜けていく。
「今井さん…僕、会社をやめることにしたんです」
「な、なにい、いきなりどうしたっていうんだ」
なにか様子が変だとは感じていたが、そんな事をここでうちあけるとは…今井は慌てた。
「今井さんとの釣りも最後ですよ。今日は水が悪いようだし、もう釣れないみたいですね。でも初めて野生の梨を食べられて、いい思い出になりましたよ。あ、それと昨日から勝手な事を言ったり、わがままな釣りをしたりして、ごめんなさい」
ここには僕と今井さんだけですから話します、と沢の向こう側にある何かの一点を見つめた。
もう二週間にもなるんですが、美紀が家を出たままなんですよ。どこに行ったかは分かっているんです。たぶんあの男のいるところです。結婚してまもなく美紀は子供ができるまでと言って、ずっとスーパーのパートに出ていました。ところが去年、パート同士でのいさかいがあって辞めました。それから少し経って、どこで探したのか喫茶店で働くことにしたと、相談もなしに決めてきました。辞めたスーパーの近くでした。どんな店かと内緒で行ってみると、ごく普通の喫茶店で僕はひとまず安心して帰ってきました。それが間違いでした。馴染みの客と親しくなっていたんです。いつのまにかという感じでした。仕事を終えてから車で送ってもらってくるところを見るようになりました。そういうことはやめてくれと言ってもその時だけでした。もっと強い態度をとっていれば、こんなことにはならなかったのかもしれませんが…でも一番の因は子供ができなかったことにあったと思うんです。子供ができていれば普通の家庭生活ができていたはずですから。でも、もうどうでもよくなりました。僕、九州の田舎へ帰ります。この会社に就職してから今井さんに、山での釣りを教えてもらい、とても楽しかったです。釣れても釣れなくても、深い沢で空や雲、岩や水、草や木と向かい合っていると、そこでは自分の小ささ、はかなさを思いました。どんな言葉を浴びせても、どんな野蛮な行為をしても、「それがどうしたの」と山はただ笑っているだけでしたから。いや嘲笑っていたのかもしれませんね。仕事や家での辛さに耐えきれず、会社を休んで何度か自分を確かめにもきました。
今日は最後の釣りにさせてもらったうえに、あんな勝手なこともしました。これまで迷惑ばかりかけていたので、思いっきり怒られてみたかったんですよ。でも怒りませんでした。山のような人なんです、今井さんは。
内村は沢向こうから目をそらすことなく、言葉を捜しながら話した。今井も同じように真っ直ぐ向いて、ただ黙って聞いていた。何も言うことはなかった。内村がこの地にさらばをして、今までとはちがう生活を田舎で立ち上げようと心を決めたのだから。九州にだって山はある。そんな中で辛抱強く懸命に生きていけば、どんな道であれ今度は自然と開けてくるだろう。俺のように心の底は暗くないし、汚れてもいない。大丈夫だ。
「それにしても、淋しくなるなあ」
ハンドルを握る内村を今井はしみじみと見つめた。
また、朝と同じように口笛を吹きはじめる。
…ああ、そうだったのか、このゆったりとした淋しい曲は、『別れの曲』だったのだ。
今井はあえて顔を向けず、口笛にこめられた内村の思いを静かに受けとめてやろうと目を閉じた。
(了)