地球一周船旅ストーリー〈海に抱かれて みんなラヴ〉 下船後2週間/8月31日

【写真は、楽しかった船内生活の一コマ。社交ダンスの発表会のあとの打ち上げで互いの健闘をたたえあうダンス仲間たち。右から三人目がダンス教室の後藤京子先生=船内の居酒屋「波へい」で】
 百二日間に及ぶピースボートの船上生活について週刊新潮の記者から長時間にわたって熱心な電話取材を受けた。私としては、船旅そのものは本欄「熱砂」の伊神権太作品集の中で連載した作品・地球一周船旅ストーリー〈海に抱かれて みんなラヴ〉の題名からもご想像の通り、乗客は全員それぞれに人生上のある強い決断をして乗船された、すばらしき仲間たちばかりで良い面で自身の刺激にもなった、と満足している。

 ただ医師不足など船上での安全管理面から言わせていただければ、オーシャン・ドリーム号による船旅を運営するジャパングレイス側にまったく落ち度がなかったかどうか、となると「そうは言い切れない」。船内での患者に対する十分な診療体制とか、突然のエレベーター落下事故発生で乗客がエレベーターの中に閉じ込められた際の対応の悪さ、さらには客の盗難被害届けや途中下船時の判断と配慮の甘さがなかったかとなると、そうは言えない。改善すべき点として課題が残されたことは事実だ。

 週刊新潮がどんな切り口で報道するか、は当然、社の判断と記者のペン質によるところが多いが、第76回ピースボートクルーズが管理面で至らなかった点は指摘されても仕方なかろう。良薬は口に苦しで、これをきっかけに、世界に勇躍する船旅がより楽しく幸せなものになれば、と願いたい。
 いずれにせよ「ピースボートとジャパングレイス側の言い分をしっかりおさえる」ことだけは怠りなく。そして記事が、今後の人々の船旅の指針になれば何よりですねーと取材記者には、老婆心ながらお願いしておいた。

 要は、至らなかった点は素直に改善し今後より楽しく満足のいく船旅が実現すれば、それでいい。船内でのもろもろの事件は、非は非で、すなおに認めて乗客に出来る限りすみやかに公開し、反省すべきは反省して、新しい時代の船旅への道しるべになるのなら、それに越したことはない。
 取材記者には、人の揚げ足取りだけはやめてほしい、と私の考えを述べさせていただいた。できれば補足取材として現場に居合わせた乗客の声を取りたい、とのことだったので二、三、見識のある人物も紹介させていただいた。どんな切り口で問題提起をして迫ってくるのか。読者の皆さん、ぜひ週刊新潮を読んでくださいね。楽しみでもある。
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 それはそうと、わが家に「中日社報」8月15日号と「中日社友」9月1日号の二紙が届いた。なかで目に留まったのは、かつて同じ新聞人として同志だった人たちの訃報である。「戦友であり同志だった 故加藤幹敏さん お別れの会」(社報)、「目覚めたら珍道中へ 向井行勇氏」「生涯『日中』を追う 垂水健一氏」(社友)には、いずれも、かつては大変お世話になった方々ばかりだけに、もはや言葉もない。

 きょうはたまたま、エッセイストで岩倉在住の内藤洋子さんから留守電が入っていたので電話をかけ直すと、彼女いわく。「Fさんも、Sくんも同じ脳内出血で倒れてしまい、大変なの。意識もはっきりせず、いまでは別人のよう。昔の人とは違ってしまった点が何より寂しく、辛く、残念です」と。互いにもう歳なんだよね、と答える一方で「内藤さん、やっぱり自分の体は自分で守るしかないね」とボク、「そうよ。そうしようね。アタシ、もう無理しないことにしたの」と洋子さん。なんだか、寂しい話になってしまった。でも、懐かしかった。
 よくよく考えたら、人間たちって。みんな悲しみの道を歩いているのだ。だから、一瞬一瞬を大切にして生きていかなければ。

【新聞・テレビから】☆浅田さんら「脱原発」 日本ペンクラブがシンポ(31日付、中日朝刊)大使館襲撃 容疑者を特定 中国外務省「複数の中国人」(同)

平成二十四年八月三十日
 きょうは名古屋駅で私たちのウエブ文学同人誌である新生「熱砂」の新しい機能メインテナンス面での実態把握と現状の諸課題、今後の展開方法などにつき「熱砂」主宰として夕方、業者にお会いして同人の声も踏まえたうえで真剣に話し合った。引き続き、駅西の居酒屋で名古屋に住む別口の友人ふたりと帰国報告を兼ねて久しぶりに懇親とあいなった。

 雑談するうち、結局はドラゴンズの話に。「最近、浅尾投手が全然、新聞やテレビに登場しないけれど」と私が帰国後、一番気になっていたことを話すと「浅尾は、まだ二軍ですよ。どうも、まだ肩の調子がよくないらしい」の答えが跳ね返ってきた。「じゃあ、誰が浅尾の替わりを」と聞くと「いまは山井投手だ」とのこと。山井の健闘はもちろん嬉しいのだが、浅尾が投げないのは、やっぱり寂しい。
 私としては、過去六年間、栄光の陰に隠れた浅尾投手の下積みの努力と徹底したファンへのサービスぶりが印象に強く残っているだけに、何よりも早い復活を願うのみだ。浅尾が出てきたら、それだけでチームの勢いが出てくる、そんな気がする。まだまだ、これからだ。浅尾には、なんとか一軍に復帰してもらって、巨人をやっつけてほしい。高木さん!
浅尾投手を一度使ってやってください。

 舞の大好きなブランコは、先日足を痛めた平田に代わってやっと一軍入り、きのうまでのここ二試合は巨人相手の活躍が目立っただけに、なんだかホッとしている。とはいえ、福島県郡山市の開成山野球場で開かれた今夜の試合の方はといえば。高木竜は3―9で原巨人に敗れ去った。先発・中田賢一投手が2点のリードをもらいながら、4回に4点を失い沈んでしまい、巨人戦3連戦は3連勝を逃して6ゲーム差に逆戻りとなったが、まだまだ逆転優勝は十分に狙えるはずだ。応援している。

【新聞・テレビから】☆想定死者最大32万人 南海トラフ地震M9新推計 内閣府公表 津波犠牲が7割(30日付、中日)野田首相問責を可決 公明棄権 国会事実上の閉会(同)☆連夜のG倒!! 5差 ブラ(トニー・ブランコ外野手)2発 17&18号(30日付、中日スポーツ)

平成二十四年八月二十九日
 今宵は某友人家族と名古屋市東区内にある、シンガポール料理を中心としたアジア料理店〈LAOPASA〉で帰国報告を兼ね、タイガービールを飲みながら楽しいひとときを過ごした。たまたま息子さんがカナダのバンクーバーで留学中とのことで娘さんもまじえての夕食会で、私は地球一周で出会った旅先での裏話をし、友人は最近訪れたカナダでスマートフォンを失くしてしまったことにつき残念がり、なんだか互いに憐れみあうかのような時を過ごした。というのは私自身も、メキシコのマンサニージョで愛用のメガネを失くしてしまい、心を痛めていたからだ。

 わいわいガヤガヤの時はアッという間に過ぎ去り、私が彼の奥さん(元某局の美人アナ)に「いま、とても激しい小説を執筆中だから。待っていてください」と言うと、「期待シテマース。船旅でのいろんな体験をもとに、デッチアゲでもいい。ゴンタでしか書けない激しく熱い小説を書いてほしい。男なんかは、いい。女を書いてほしい。どんどん書かなくっちゃあ。ハダカになって書いてほしいの。(エロスの面でも)渡辺淳一を越える。いいわね。越えなきゃダメヨ。日本一いやらしい、大人の小説誕生を願ってマース」ときた。

 彼女が言わんとしていることは、要するに恥をさらけだしてでも、ありのままの人間を書け! ということ。きょうは、ちょうど皆さんにお会いする直前まで自宅で書いていた小説が昂ぶり、ペンの走りと、心理描写も含めた女性たちのどうにもならないダイナミックな動きを感じ始めていた矢先でもあった。それだけに「そのうちに。きっと」と私は照れる主人を目の前に、彼女に約束。「ゴンタさんは、まだ若い。私、どこまでも応援しているのだから」と励まされてしまった。

 帰宅すると「眞鍋さんから電話があったわよ」と妻。「九月七日に大津で集まるのだって」とのこと。「分かった」と私。文学界の同胞たちは、大津でも私を待っていてくれる。うれしく、かつ有り難い。

【新聞・テレビから】☆エネ政策論議「脱原発 過半の国民希望」 専門家検証 政府、新戦略反映へ(29日付、毎日朝刊)☆米大統領選 ロムニー氏候補指名 共和党「強い米国」公約(29日付、中日夕刊)

平成二十四年八月二十八日
 奈良県に住む「熱砂」同人の加藤行さんから詩五編がメールで送られてきたので、さっそく「熱砂」紙上に公開させていただいた。「ガチョウの母さん」「俺たちギャング団」「ボオイ君がんばる」「アニマルタウン」「象のポオさん」と、どれもユーモアに富んだ明るく楽しい詩である。加藤さんならでは、の〝人間愛〟を超えた〝いきもの愛〟というか、そういった優しさが染み出た作品ばかりである。読者の皆さまには、繰り返し読んでいただきたい。
 どの詩も最初は少々、長く感じる。でも、なんども反復して読んでいくうち、この詩の持ち味が分かってくるはずだ。何よりも、その奇抜な視点がいい。そして分かりやすさ。何もニンゲンたちばかりが生きているのではなく、動物たちだって、鳥さんたちだって、みんな一生懸命に生きているのだから。私は、こうした純粋な彼の作品が好きだ。独りだけ、分かったような気でいる訳の分からない詩は、嫌いなのである。

 夕方、親友である小牧の牧さん(牧すすむさん)宅に留守中のお礼を兼ね、ちょっとしたお土産を手に訪れた。奥さまの〝かよちゃん〟は、わざわざ食事まで用意して下さっており、感激した。ただ、〝かよちゃん〟も牧さんも、うちの舞も一緒に来ると思っていたようで「なんだあ~、奥さんは? 来ないの」との落胆が私の心を責めたてた。「あいつを連れてこればよかった。ご夫妻は、俺よりも舞と会うことを楽しみにしてくれていたんだ」と思うと、舞にも悪いことをしてしまったな、とつくづく反省した。

【新聞・テレビから】☆ジャズピアニスト大西順子さん引退へ、あっちゃん=前田敦子さん=「最高の7年」AKB48劇場で笑顔の卒業公演(28日付、中日朝刊)

平成二十四年八月二十七日
 帰国して十日がたつ。
 きょうも朝から晩までマイカーであっちへ行ったり、こっちへ行ったり。船旅中にたまった自動車保険の支払いやら、年金受給権者の現況届提出、果ては留守中に私あてに届いた書簡類に対する返信など、もろもろに追われ、バタバタしている。それでも、少しは落ち着いてきたのと舞の営むリサイクルショップ「ミヌエット」が休みであることもあって、午後せがまれるまま、江南市内のcafe画廊「音彩(ねいろ)」へ。
 
 なんでも、彼女が音彩ご主人で尾張音楽協議会の代表を務める〝ごとう正五郎さん〟(本名・後藤正敏さん)にお願いごとがある、と言うのでアッシーマンとして同行したところ、逆に私に向かって正五郎さん曰く「ここ二、三日前から一度、ゴンタさんに電話してお願いしよう、と思っていたことがありまして」の弁。
 何ですか、と聞くと「実は来月十五日に江南市民文化会館で尾張音楽協主催の〈いのちを繋ぐ〉講演会がありまして。ゴンタさんの著作を会場に並べさせていただけないものか、と思いまして」とのこと。私は「一人でも多くの方に読んでいただけるものならありがたいことです。いいですよ」と快諾させていただいた、次第。
 
 それよりも舞からのお願いって何だろう。なんでも「土曜日の午後、月に一回、〈ミヌエット〉の店内を開放して音楽会や生け花など安息のひとときを設けたいので、そのお知らせチラシを音彩店内に置かせてほしい。そしてギターでもバイオリンでもなんでも良いので三十分間だけ演奏してくれる人を紹介してほしい」というものだった。ここまで詳しい話となると、私も初耳。さて、どうしてよいものか。といったところで、彼女の性格からしてやると決めたことはやるタイプだけに止めるわけにもいくまい。

 あっ、そうか。だからか。と今になってみれば、思い当たる節がある。私が地球一周から帰宅したその日、舞は私に向かってこういった。「ねえ、店でもハーモニカふいてよね」と(なんで店でなのか、がよく分からなかった)。そしてこうも言った。「牧さん(「熱砂」同人で詩人、琴伝流大正琴大師範で弦洲会の会主)にも、個人的にお願いしたいことがあるの」と。彼女は、このところ女子会の団らんの場と化している「メヌエット」店内を、たとえいっときにせよ、癒しというか、安息の場として皆さんに開放したい」ようだ。
 悪いことではない。でも、あんまり無理しない方がいい気もする。

 ちなみに彼女の手製チラシは、こうだ。
【お知らせ】ホームコンサートを開いてみませんか 少しくらい音が狂ってもそれはご愛敬 日頃の練習をしている楽器の成果を発表する場所を当店(ミヌエット)をご使用して頂けたら幸いです 
 江南市古知野久保見11 サンライズビル1F「ミヌエット」 毎月第3土曜昼下がり
ウクレレ、三味線、バイオリン、ギターetc
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 夜。午後十時ごろ、大津の同人誌「くうかん」主宰の眞鍋京子さんから「イガミさん、オカエリナサイ。長い船旅、おつかれさまでした」と電話が入る。彼女は高齢でもあり、大津市内の病院に入院なさっていたはずだが…。一瞬、頭を巡らし「あっ、そうか。よくなられて退院されたのだ」ということに気付いた。
 話は彼女が病で以前のように自由に動くことが出来なくなったなか、この先どうして「くうかん」を存続させていくか、に尽きる。若い同人の確保も当然、大切だ。出来れば、来月中旬ごろまでに一度私が大津に出向いて他の同人の皆さんと今後につき話し合うことで電話を切った。「くうかん」は過去、多くの作家を世に送り出してきているだけに、その灯を消すわけにはいかない。

平成二十四年八月二十六日
 きょうは先の船旅中に、私あてに届いた各同人誌のチェックに追われた。
 なかで特に心に止まったのが「じゅん文学」の長谷譲・追悼号である。

 追悼文はどれもこれもが、同人に慕われた長谷さんならでは、の人となりがにじむ内容ばかりで、読み進めるうち長谷さんを知る一人として胸が熱くなった。
「じゅん文学の新しい号を手にするたびに、長谷さんは今度はどんな小説を書いているんだろうと楽しみにページをめくっていました。長谷さんは既成概念に囚われず、独特な物の見方をされるので、書かれる小説も個性的で、まさにそれは長谷さんだからこそ描きうる世界なのだと思いました。」(〈長谷さんへ〉 千田よう子)「長谷さん。私も間もなく? そちらへ参上しますが、それまでに『オンナもの』を書いて、たとえまた酷評されようとも、手土産にしたいと念じています。それまで待っていて下さいね」(〈温かい酷評〉、藤澤茂弘)
「長谷さん。三月二十五日の早朝に天国に召された。せつなくて、胸がつまる。その日が『じゅん文学』の月に一度の合評会の日であったことを、わたしはただの偶然だとは思いたくなくて。」(〈桜の花ほころぶころに〉佐方希与子)など。
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 そして。「私達は今年の二月に二十九回目の結婚記念日を迎えたところでした。夫はユーモアがあり、常識はずれなことをすることも多かったのですが、ある部分ではすごく生真面目でもありました。」(〈夫・長谷譲について〉 長谷多美子)とある長谷さん。長谷さんにはこれまで随分、お世話になったが、まさかこんなにも早く亡くなってしまう、なんて。
 〝小エビのチリソース殺人事件〟など文学的にもそのセンスは卓越したものがあっただけに惜しい。「長谷さんは、現代物、時代物、シリアス物も娯楽物も、日本人も外国人も、老若男女すべてを器用に描き上げた。結果、小説のなかであらゆる人生を生き尽くしたかのように、早すぎる死を穏やかに受け入れられた。畏敬の念とともに、ご冥福をお祈りします。」(〈編集室の窓・戸田鎮子〉)とあるが、その通りだった。

 お安らかに。長谷さん! いまや言葉も何もない。でも、こんなにも多くの同人たちに慕われ、頼りにされていた。はせさん。悔しいけれど。幸せな人生だったよ。今宵は別れのひとり盃といこう。

平成二十四年八月二十五日
 百二日間に及んだ船旅途上、それも終章のゴールに近づいた時に、その女性から船内で土産として贈られた、一冊のちいさなメモ帳とペン。心のこもったマヤ文明の肖像画入りメモ帳と同じく肖像画入りのペンをきょうから使わせて頂いている。
 この先、大切に肌身離さないでいたい。そして、その時々に私の脳裏に浮かんだフレーズや言葉を書き記し、今後の創作活動に生かしていきたい。

 きょうは詩に、エッセイに、お芝居に…と、このところ積極的な活動が目立つ堀田志保さん=ペンネームは〈みずしなさえこ〉さん、名古屋市緑区=から、はがきが舞い込んだ。
「処暑を過ぎての残暑お見舞申し上げます 六月の中ペン総会にて耳に〝世界一周旅行〟にお出かけとの事 うらやましい限りでした 〝A波止場へ〟(私・伊神権太の詩) 紅海の匂いプンプンと。  
 さて私の方 朗読会を開いたり来年二つのお芝居レッスンに汗だく中 尚ユーチューブで〝みずしな詩〟と検索頂きますと私の朗読スライドショーがご覧頂けます お暇な折に お気が向きましたらぜひ!」

 ここで、ひと言私から反論させていただくとー
「皆さん、〝ゴンタさん。豪華な船旅でよかったですね〟と言われますけれど、当の本人にとってはユーチューブによる【伊神権太が行く世界紀行/平和へのメッセージ】の発信やら、本欄への作品・地球一周船旅ストーリー〈海に抱かれて みんなラヴ〉の連日掲載、新生「熱砂」誕生に伴う洋上から同人への各種連絡、さらには社交ダンスのマスター、オプショナルツアーへの参加……など、ひと言でいえば、大変な苦痛を伴う旅でした。もちろん面白かったことと、出会いがあったことは何物にも代えがたいですが」と。
 それでも、羨ましく思われたとしたなら。それは、もはや仕方ないかもしれないですね。

 曽野綾子さんの「老いの才覚」と鹿島田真希さんの芥川賞受賞作「冥土めぐり」を読み終えた。それにしても、処暑を過ぎたというのに。名古屋は、いやニッポンは暑すぎる。人々は湯だったヤカンのような大気のなかを生きている。私は少しでも動きやすいよう自室の資料を含めた書物などもろもろの整理整頓を汗だくになってしながら本を読み、そして執筆に励む生活に入った。
 相変わらず傍らには船友に「もう、そろそろ猫離れしなければいけないよ」と言われたのに、こすも・こことシロちゃんが僕のやることを不思議そうに交代で見守っている。猫離れ。これだけは、とてもできそうにないな。

 夜。舞に社交ダンスのルンバのステップを初めて伝授する。NHKテレビで見たフローズン・プラネット「氷の王国の生きものたち」には感動した。南極の皇帝ペンギンも、北極のホッキョクグマもみんな。一生懸命に生きているのだ。

平成二十四年八月二十四日
 昨日、本欄で〈下船後一週間〉をアップし終えたところで着信メールをチェックすると、船内では、ことのほかお世話になっていた津江愼弥さん夫妻から〈船中有難うございました〉のタイトルで、次のようなメールが入っており、恐縮してしまった。お礼を言わねばならないのは、私の方だから、だ。
「伊神 権太 さま ピースボート下船して早くも一週間経ちました。その後もお元気でしょうか? 100日余の日々、有難うございました。お陰様で楽しく過ごす事が出来ました。
 また、ご縁がありましたなら宜しくお願いします。  先ずは船中での御礼を申し上げます。  津江」というものだった。

 私は折り返し「これからも、よろしくお願いいたします」と、次のようなメールを打ち返し、船旅の間にお世話になったことに対する謝意を示させていただいた。

「津江慎弥さま、奥様 津江さん、お変わりないですか。百二日間の船内生活、こちらこそ大変お世話になり、あげくに甘えてばかりで感謝のしようもありません。いつも船内外にまで目を光らせピースボートの〝安全飛行(安全航海)〟を見守られる姿には陰ながら敬服、尊敬していました。奥様もとてもステキで厳格な津江さんをいつも陰ひなたとなって支えられている様子がよく分かりました。
 ところで名古屋在住の放送関係者、大学教授らの音頭取りで来月二十八日午後六時から徳川美術館横の宝善亭で「権太の地球一周紀行~平和へのメッセージ」帰朝報告会及び祝賀会が開かれることになりました。なんだか話が大きくなってしまいどうしてよいものか、戸惑っています。でも、みなさんそれだけ期待してくださっていることは有り難いことだ、と思っています。
 つきましては世話人の方に私の近況報告を兼ねて、津江さまにも案内状を出すようお願いしておきました。もし参加していただけましたら幸甚です。遠いので決して無理はなさらないでください。不一     伊神権太より。23日夜」

平成二十四年八月二十三日
【写真はベイブリッジをバックに船体を浮かべるオーシャン・ドリーム号=8月17日夕=と、船友の小泉さん夫妻から早々と届いたはがき】
 月日がまたふつうに時を刻み始めた。日本は暑い。外出先から戻って、私は私の部屋でこうしてパソコンのキーを打っている。人間は生きなければならない。それぞれに愛する人を胸に抱いて、だ。

 私は百二日間に及んだ船旅の遺産として、船内で曲がりなりにも少しは身についた社交ダンスを妻に伝授し、同時に旅先で彼女から思いがけず贈られたサンポーニャをふきこなせるように、と改めて誓った。さて、どこまで続くか。
 この先、社交ダンスにはさらに励み、かつサンポーニャもふきこなしてみせよう。

 そして。何よりもこれからこそ、私、すなわち生まれ変わった作家・伊神権太としての新境地を開くべく小説執筆に専念していきたい。

 きょうは久しぶりに舞のリサイクルショップ〈ミヌエット〉を訪れ、アイスクリームを差し入れした。お客さんというよりは、そこが女子会の団らんの場になって皆さんには、舞がことのほかお世話になっているからだ。少しでもくつろいでいただければ、と私からのせめてもの心遣いである。

 そういえば、かつて新聞社のデスク長当時に特報面で記事を何回か紹介したことのあるジャーナリスト山本美香さんがシリア北部のアレッポで銃撃され、亡くなったという。当時から、すごく熱心で情熱的なジャーナリストだっただけに、とても残念だ。でも、今となっては、その霊よ、安かれーと祈るほかない。人の世は、どこまでも無情である。

【新聞・テレビから】☆「脱原発面談 平行線」「市民団体の要求 首相応じず」、「竹島『韓国が不法占拠』 玄葉外相 民主閣僚で初言及」、「シリア銃撃山本さん 緊迫の市街地最後まで撮影」(23日付、中日朝刊)

平成二十四年八月二十二日
 私が船旅で長期不在中に、かつて新聞社の一宮時代(一宮主管支局長在任中)に盗難に遭っていた赤い車体の妻愛用の自転車が江南市内で発見されたという。帰宅して初めて聞かされた。
 盗難登録を辿った江南署(駅前交番)から「もしかして、お宅のものでは」と連絡が入ったため舞が引き取ってきたのだ、という。いわゆる町の片隅で占有離脱物横領の繰り返しに遭い、何人もの人間たちにあちこち引き回された愛車が十年以上たって出てきたというわけだ。
 さすがに車体右手部分の呼び鈴はフタがはずれたまま。おまけに錆びだらけで車体もボロボロ。「でも、せっかくだから乗れるだけ乗ってやろうよ」との彼女の提案を受け、きょうさっそく老体車に乗って出かけたのが名鉄江南駅前の床屋さん。赤い車体は立派に主人を運ぶ役割を果たしてくれた。

 船旅の後始末といおうか。洋行中の夥しい量の資料整理やら、その間に私宛に届いたこれまた多くの手紙と封書、各同人誌を含めた書物類のチェック、さらには荷物の整理、そして、とにもかくにも向こう三軒両隣の住人の皆さまはじめ親、兄弟への簡単なあいさつ…がなんとか終わったところで、きょうは私が主宰するウエブ文学同人誌「熱砂」同人の全員にメールと電話で帰国あいさつをさせて頂いた(一部、既にしてある方をのぞく)。そろそろ新しいジャンルの小説の執筆活動に入らなければ、と思っている。

 きょうは船内友だちの須藤信子さん(埼玉県入間郡越生町)から思いもしないはがきをいただいた。「残暑お見舞い申し上げます。その後お元気ですか。船内で一度お目にかかりペンクラブや小中さんの話などを伺い、とても楽しかったことを覚えています。8階のろうかでは何度かお見かけしましたが、いつもお忙しそうに機械(パソコン)に向かっておられましたね。帰宅して、掃除、洗濯、庭の雑草取りのすごさに、いかに自分が遊んできたかを思い知らされた思いです。……最後の合唱で〈ふるさと〉をハーモニカでして頂き本当に嬉しかったです。」といった内容だった。

 世界を1人で〝かっ歩〟するのが趣味で、世界中を知り尽くしておいでになる須藤さん。彼女からは、本当に多くを教えられた。こちらこそ、感謝の気持ちでいっぱいだ。

平成二十四年八月二十一日
 ピースボートで運命を共にする船内洋上生活をしてきた神奈川県大和市の小泉正道さま・八重子さま夫妻から、早々と「ありがとう」と書かれたはがきを頂いた。
〈ありがとう PEACE BOAT 第76回クルーズ 出会いに感謝〉〈地球一周 おめでとう 8月17日早朝 横浜ベイブリッチ〉〈11月25日(日) 六本木ホテルアイビスの「サンタクロースアカデミー」でお会いしましょう。〉とポイントだけが簡潔に書かれ、横浜ベイブリッチでの仲むつまじいご夫妻のカラー写真入りとなっていた。
 ヤエちゃん(小泉八重子さん)には、サッちゃん(阿部祥子さん)ともども船内での誕生会にお招きされたり、社交ダンスで私が苦境に陥った時の優しいお心遣いなど、こちらがお世話になり通しだった。ありがとうヤエちゃん、サッちゃん、そしてヤエちゃんのご主人の正道さま。

 運命共同の〝船友〟と言えば、船旅中、午後茶などで随分とお世話になり、おまけに甘え通しで本場の貴重な楽器・サンポーニャまでいただいた彼女のことも忘れられない。
 彼女自身オーバーラウンドの旅で〈マチュプチュへの限りなき夢〉を実現させた。文学に長け、私の作品も親身になって読んでいただけた。あれやこれやと厳しくも温かいアドバイスを受け、文学談義を交わしあった。その若き彼女からも「しばらくはボーっとするかと思いましたが、すぐに元の生活に戻り、船酔い止めの薬を飲んでいたせいか、下船後は一度も揺れ感もありません。いろいろありがとうございました。…サンポーニャの説明書みたいなもの送ります」などと書かれたメールが届いた。

 そして、同じく嬉しかったのは若いころ、共に能登半島の七尾を拠点に海の詩(うた)大賞全国公募に情熱を注いだころの仲間の1人、あの佐田味良章さん(当時は七尾青年会議所教育青少年委員長)から「イガミさん、サタミです。今、メール届きました。無事、お帰り、ご苦労さまでした。あとでゆっくりホームページの方、見させて頂きますので。まずは、オカエリナサイ」といった留守番電話があっことだ。

 留守電は車で外出した際にいま1つ入っており、知人で何かとお世話になっているAさんからだった。「イガミさんの帰朝報告会。9月28日、金曜日の夕方です」といった内容で折り返し電話させていただくと、当日は私が寄港した先々からユーチューブで発信した〈平和へのメッセージ〉を鑑賞しながら私を囲んで有志で酒を酌み交わしたいーとの有り難いような、かつまた責任重大なお達しだった。Aさんは、かつて某放送局の編成局長や事業局長として活躍され現在は、Tテレビ事業会社社長として活躍されている。
 帰朝報告会の発起人はAさんをはじめ、この地方の作家や大学教授ら十三人に達するというので、私も呼びかけたい方のリストを最小限に絞ってメールさせて頂いた。だが、この帰朝報告会。私としては、どう応えてよいものか。正直のところ、戸惑っている。ただ、そうしたご配慮には感謝の気持ちがあるのみだ。その分お返しとして、これからは私ならでは、の名作をこの世に送り出していこう、と誓った。

平成二十四年八月二十日
 朝。午前7時15分過ぎからのCBCラジオの解説委員後藤克幸さんの解説コーナーで、ピースボート(オーシャン・ドリーム号)に乗りながら「平和とは何か」についてユーチューブで船旅をしながら〈平和へのメッセージ〉を発信し続けた人物として、後藤解説委員ご自身の語りで私・伊神権太が紹介された。
 私はこれより先、中南米の洋上で後藤解説委員から「平和」についてのインタビューを受けていたが、あの時の私の平和についての視点が見事に凝縮されて紹介されており、とても嬉しかった。後藤さん、貴重な時間を割いての解説、本当にありがとうございました。
 「平和」と言えば、一般的にパリのユネスコ憲章やら、マハトマ・ガンジーの言葉が有名だ。でも、番組ではフランスで私が出会った少年の言葉〈ピース イズ ラヴ〉こそ簡潔明瞭だ、と説明。さらに世界各国でのインタビューを通じて「お母さんと一緒にいられることの大切さ。〈母は強し〉でこれこそ、平和の原点だ」との結論に達した私の見方が、分かりやすく説明されていた。後藤解説委員の的確な論調には、感謝のしようもない。

【新聞・テレビから】☆「都議ら10人 尖閣上陸」「許可なし、海保聴取『領土と示すため』(20日付、中日朝刊)「尖閣に日本人10人上陸」「都議ら 政府の許可得ず」(20日付、毎日朝刊)
☆「夏の主役に 50万人感謝 五輪メダリスト 銀座でパレード」(20日付、中日夕刊)

平成二十四年八月十九日
 誰よりも先に、私の帰国を待ってくれていた、この六月一日で満九十二歳になった和田の母の元を訪れた。舞もまじえ、一緒に「バロー」で買ったスイカを食べながら、洋行中の話をして聞いてもらった。母にはエジプトで購入した、ハイカラでかわいらしい帽子とフランスのチョコレートをお土産として渡し、船旅に当たって母から託された亡き父の腕時計がすごく役立ったことを告げ、あらためて礼を述べた。
 ちょうど、そこへ妹夫妻が現れたので妹へはタイのプーケットで購入したタイシルクのスカーフを、ご主人の飯島さんにもメキシコの町中で手に入れた本場のいなせな帽子を、それぞれ手渡した。

 中日ドラゴンズ公式ファンクラブの〝お母さん〟安江都々子さんから電話を頂く。私が帰国報告のメールをしたからで、第一声が「イガミさん、お疲れさま。あたしねえ。ガンを宣告されちゃった」というものだった。
 私は言葉を失い、どこのガンですか? と聞くことさえ出来ず「長い間、留守にしてしまい…。また、会いに伺いますから。気落ちしないでください」と何よりも非礼を詫びた。
 「宣告された日には、〈もう死んでゆくのだなっ〉って。そればかりを思うと悲しくなってしまい。どこをどう歩いているかも覚えていない。さまよっていたわ。でも、ファンクラブ仲間の今井さんが本当によくしてくれ、あっちこっちへ連れていってくれてるの」と、まるで独り言でも話すようで「イガミさん。知ってる? イナバさん死んじゃったんだよ」と続けた。
 イナバさんと言えば、中日2軍投手コーチの稲葉光雄さんだ。70年のドラフト2位で中日に入団、72年には20勝(8完封)11敗をマークするなど現役時代に通算104勝80敗2セーブをマークしたことで知られる。その稲葉コーチが今月11日に脳内出血で倒れ63歳で死去したという。むろん、初耳だった。
 私自身、稲葉さんとは新聞社の本社であったシーズン開幕前の激励会などで2、3回言葉を交わしたことがあるが、気さくで仕事熱心な投手コーチという印象だった。それだけに、惜しい気がする。でも、帰らない命は帰らない。

平成二十四年八月十八日
 昨日、横浜に帰航したとき。舞と長男夫妻が港まで出迎えてくれ、とてもうれしかった。気のせいかも知れない。久しぶりに見る妻の表情は生き生きと華やぎ、美しくて清楚でかわいかった。
 私たちは前夜、舞と長男夫妻が泊まった、横浜・桜木町のワシントンホテルに引き続きチェックイン。しばらく一緒にコーヒーを飲み、旅の話をしたあと、長男たちはそのまま川崎の自宅に帰った。なんでも、きのう(金曜日)はふたりともわざわざ休暇を取ってきてくれたみたいで、悪い気がした。
 長男夫妻にはポルトガルのリスボンで手に入れたお酒2本と、フランスのル・アーブルの文房具店で購入したちょっとハイセンスな事務ノートをそれぞれ土産として手渡した。

 昨夜は横浜港の海が見える、絶景の部屋に舞と泊まったがナント眼下には私がこの102日間という長きにわたって〝船友たち〟とともに命を預けたピースボート、私にとっては社交ダンスのステージともなった、すなわち赤い煙突が特徴的なオーシャン・ドリーム号の優雅な姿が見られ、ネオンに輝く海の一角に音もなく船体を預けるさまには感動した。

 この日、桜木町のワシントンホテルからはタクシーで新横浜へ。新幹線で名古屋に戻ったが、新横浜まで行く途中の土砂降りを伴った雷雨のすごさは、タクシードライバーはむろん、めったに驚かない舞も肝をつぶしたようだった。わが家に帰るということは、それほどまでに大変なことなのか。
 猫のこすも・こことシロちゃんは、二人とも、私のことをちゃんと覚えていてくれ悠然とした表情で〈ニャァーン、ニャァーン〉と甘えたような声を出して全身をすり寄せながら出迎えてくれ、私は嬉しく思った。