「走る」 平子 純
私には四人子供がいるが、今春東京本社へ末っ子の次男が転勤になった。それまでは北海道の浦河町という太平洋側の小さな町で働いていた。海側はコンブ漁で有名である。次男は日本競馬会の獣医として二十人ほどのスタツフとともに東京ドーム二十個分はあろう敷地のなかに出来た馬の飼育に必要な施設で働いていた。大きな馬場は競馬場と同じ、しかも屋根付き。小ぶりな方でも八百メートルあった。その外は馬の放牧場、そこを蝦夷鹿が何匹も走り回っている。蝦夷鹿は大きくて逞しい、白と茶の毛に飾られたお尻を見せながら走るというより跳躍する様は一時時空が止まったようで不思議な世界だ、馬は鹿など知らんというふうに、勝手に草を食べている姿が滑稽だ。
夕方、襟裳岬へ行った。白夜なのか襟裳岬へ着くまで海の上が明るかった、それ程に日本の北へ来ているのだ。襟裳では売店があり他は風のモニュメントと見晴らし台があるだけだった。ただ、波に洗われた岩が海の遠くまで続いていた。私はそこで、よろよろ走っている北狐をみた。何故か哀愁があり視線から消えるまで追っていた。
翌日、帯広まで車で五時間かけ向った。市内を少し見て坂栄競馬に向かった。日本で唯一農耕馬にそりをつけさせて走る競技である。一トン近い馬が一トン近いそりを付けて走るのだが直線はまだしも、坂になるとなかなか走るどころではない。鞭でさんざん叩かれようやく登り切るのだが、最後までなんともならない馬もいる。観客はといえば、観客席と馬場との広い空間にテーブルを置き、ジンギスカン鍋をつつきながらがんばれの声援を送る。道産子ならではの遊びだ。
競馬の世界も息子の言う所、大不況のようだ。売上も最大時の半分近くにまで落ちているという。どんな世界も厳しいようだ。
さて、話は変わるが浦河町を含め、日高地方は馬の育成をしている牧場が多い。どこの牧場も二歳までには食物で大きくしたり、騎乗して育てなくてはならない。
気がつくのは至る所にシンザンの看板があることだ。シンザンが活躍して半世紀近く、いかに名馬だったことが分かる。シンザンは私の同級生のお父上が橋本厩舎で飼っていた、つまり持ち主だった。大きな馬体、黒々した馬で、走るだけで威圧感があった。天皇賞を七歳で勝ち引退し種馬になったが、それから三十年近く生きた。馬での最長生存記録も誇っている。シンザンが死んだ時、橋本家では葬儀がおこなわれた。
シンザンの後にも、素晴らしい馬はいろいろ出たが、どの馬も走る時の姿は美しい。だから人を魅了させ、時に競馬にのめり込んでしまう。
ファンファーレが鳴り、馬体がゲートにそろい旗が振られる。場内の興奮はいがや上にも高まり、最高の雰囲気となる。それからは騎手と馬との兼ね合いだ。人馬一体となり縦髪を靡かせ駆けるのは、とても美しい。
勝負のつくゲートに駆け込むのは、ある種の性的興奮を伴う。勝っても負けてもエクタクシーを感じるのだ。
最終日、札幌空港に着く前に、ノーザンパークに寄った。馬をテーマの総合レジャーランドである。高校生の障害レースもやっていた。
馬の引く小型バスもあり、みんなで乗った。昼食はジンギスカン風バイキングだった。無論、乗馬もOKである。ミニゴルフもあり子供も遊べるようになっている。
丁度中央付近に、ピラミッド型の大きめのケースがあり、中にアメリカンダービイを勝ったフサイチペガサスの金の像が飾ってあった。人材派遣で名をなしたメイテックの関口さんの輝いた日々だったろう。