短編小説「暗転転」

 時玉八郎は終業のチャイムが鳴ると、残業の同僚をしり目に作業場を離れた。給料日は後輩と行きつけの飲み屋で一杯やることにしているので、頼まれても残業なんかやっていられないのだ。
 「よう、給料上がったか」
 ロッカー室で顔を合わせると、八郎は景気よく声をかけた。
 「はい、今年も思ったよりずっとよかったですよ」
 高校の後輩は満面の笑みで答える。
 春は勤め人にとっては賃上げの季節なのだ。八郎はこの会社に入って六年になる。同期は数人いるが、仕事での競争意識などまるでなく、他人の給料だって気に留めたこともない。
 駅前の居酒屋は店を開けたばかりで、客はカウンターに数人だ。テーブル席につくなり八郎は後輩に、
 「どれ、見せてみろ」
 と、二年後輩との給料の差がどれほどのものかを、ちょっと知ってみるのもいいだろうと思った。
 気にする風でもなく、開封した給与明細を手渡すと後輩は、仕事上がりのビールをいかにもうまそうに飲む。
 八郎は基本給の数字を見て、これは何かの間違いではないかと目を剥いた。この数字が間違いでなければ俺の給料が間違っていたことになると、ポケットの中にある給与明細をさぐった。目をこらして比べてみるとやはりおかしい。六ケタの数字の上三ケタが同じで、下三ケタが後輩の方が多い。百円だけ多いのだ。こんなことってあるか。しかし待てよと八郎は慎重になった。これはやはり何かの間違いだ。これまで支給されている額はおよそ知っているつもりだった。これは明らかに後輩の明細がおかしいことになる。それでもここで自分の明細を今、後輩に知られるのはどうしたってまずい。
 「おお、まあこんなもんだろうなあ」
 八郎はうわずりそうになる声を押さえて明細を返した。
 「八郎先輩は仕事が出来るし、僕の倍はもらっているんじゃないですか」
  後輩は羨ましそうに語尾をあげる。
 「アホか、いくら俺でもお前の倍って言うわけにはいかんだろうが。ものごとには、ほどってものがあるからな」
 自信満々で言うしかない。
 いつものビールがのどをすんなりと通らない。だいたい給与明細が間違っていたという話は、今まで聞いたことがない。八郎の気持はだんだん暗くなってくる。これはいかんとあおるように飲んで無理に頬を緩ませ、さあ飲めよ食えよと気前よく振る舞う。
 支払いを毎度のように持って、先輩風を吹かせたところで、今日という日はちょっとも気分がよくならない。八郎は店を出ると、今日はもう飲めねえやと、珍しく弱音を吐いてそのまま寮に帰る後輩と別れた。
 暗い階段の手すりをつかんでアパートの二階に上がり、部屋のドアを開けると八郎は、よろけながら万年床に突っ伏した。
 翌、金曜日。目が覚めると細い雨が降っていた。昨日のことが腹の底に澱んでいて、どうにもすっきりしない。しかしそんなことを言っている場合ではない。給与明細を二つ折りにしてポケットに入れると、八郎は駅へと急いだ。二駅目にある会社へ向かって傘を片手に考える。これはまず労務担当者に明細を持ち込んで確かめなければならん。そこで本当のところを知った上であとのことを考えよう。それが、どちらかの明細が間違いであれば、「アホかお前らは」と一発かまして引き上げよう。しかし、間違いでないということになれば、これは捨て置けない。
 始業から二時間あまり過ぎたところで八郎は作業の手を止め、ひそかに職場を抜け出し総務課へ向かった。分厚いドアガラスに体当たりでもするかのように押し開けると、すぐの右に労務係がある。八郎は人目もはばからず担当主任の前で仁王立ちになると、いきなり給与明細を突きつけた。
 「俺の給料は間違っていないか調べてくれ」
 怒鳴りたい気持ちをぐっとこらえて、担当主任をにらんだ。
 「は、どうかしたんですか」
 担当主任は面喰って目を見開いた。
 「だから、間違っていないか見てくれと言ってるんだ」
 不思議そうな顔をしながら明細を手に取って開くと、少し待って下さいと、うしろのキャビネットの引き出しに手をかけた。青い表紙の分厚いファイルを取り出して机に置くと、付箋に指をかけて開き、ページをめくり始める。数ページで手を止めると、紙面を指先でなぞりながら明細に目を移す。二度同じことを繰り返すと、仁王立ちの八郎に向かって、間違いありませんと言いながら明細を机に戻した。
 「本当だな」
 目がすわっていた。
 「なんなら確認して下さいよ」
 担当主任は机の上にある書類で、八郎以外の給与記録を隠すとむきになった。
 「不満があれば話は聞きましょうか」
 言い過ぎたと思ったのか言葉を静かにして、別室の小部屋を指さした。八郎は仕事どころでなくなっていた。担当主任のあとから部屋に入ると、事務机を挟んで椅子に腰を下ろした。これまでの給料の査定を聞くと毎年上がってはいるが、その幅は評価額ですからと言う。そう聞けば昇給の額が他人より異常に少なかったとしか思いようがない。八郎は同期の者だと、どれくらいの給料になっているのかと聞いてみるが、それは出来ませんときっぱり言う。二年遅れで入社した後輩の給料でも同じことだった。
 腕組みをすると八郎は、「俺はな、いつだって仕事は人並み以上にやってるつもりだがな、この給料は一体誰が決めているんだ」と睨みつけると担当主任は、それは職場の担当者でしょうと、眉を上げて困ったような顔をする。そして、ここでは職場での評価を基にして明細を作成するわけですからどうしようもありませんと、なぐさめにもならんことを言った。
 大熊だ。職長になっておおかた五年になる、どうにも気に入らない大熊の仕業だ。八郎は労務課を出ると、「あの野郎」と口走って職場に向かった。自動扉が開くのさえもどかしく作業現場に戻ると同僚が、「どこでさぼっていたんだ馬鹿野郎」と目を剥いて怒鳴る。八郎は、「おお、すまんすまん。ちょっと腹具合が悪くてな、今日はだめだ。俺、帰るから大熊に言っておいてくれ」と言うなり更衣室へ向かった。手早く着替えると八郎はロッカーの扉を叩きつけて表へ出た。
 朝からの小雨は降り続いている。工場門を大股で通り抜けると、門の守衛が詰所の中で慌てて立ち上がった。私鉄沿線にある工場から駅までは十分足らずだ。頭の中が真っ黒なままで八郎は電車に乗った。通勤時間帯を考えるとまるで貸し切り電車だが、そんな事はどうでもよかった。小雨の煙る下町の風景を焦点の定まらない眼で眺めながら、これから俺は何をすべきかと考えを巡らしてみるが、頭の中が乱れに乱れて、ひと駅を通過しても何ひとつ浮かばなかった。
 住んでいる安アパートのある駅で降りると、八郎はまず気を取り直そうとすぐ前のパチンコ店に入った。平日の真昼中にもこれほどの客が座っているのかと、半ばあきれかえって見回す。空いている台で玉を弾くが、思った通りさっぱりだ。五千円をすったところで、変な思いつきでやるんじゃなかったと舌打ちをして台から離れ、ラーメン屋で遅い昼食にする。腹がよくなって、うさ晴らしに面白い映画でも観に行くかと思ってみるが、そんな気もすぐに消え失せて、近くの喫茶店で時間をつぶすことにする。週刊誌をめくっているとなぜかシネマ情報が目に入る。そうかどうしても映画を観よというわけかと、八郎はタイトルとあらすじに目を通す。と、最後に紹介されているのが何ということか、『復讐』とある。八郎は思わず唸った。これだ、よし明日はこれを観に行ってこれからの行動を考えよう。喫茶店を飛び出ると、まずコンビニで夕食を仕入れてアパートに帰った。缶ビールを片手にしてネットで上映館を検索すると、近くにはなくて電車を乗り継いで行かなければならない。まあ急いて行くこともないかと、午後からの上映にしようと布団にもぐりこみ、リモコンでテレビのチャンネルを合わせてお笑い番組を観るが、いつものように笑えない。
 乗り継いで降りた駅からさほど遠くない所に、そのシネコンはあった。十日ほど前から上映されていた洋画、『復讐』には観客がまばらだった。家族を殺されてその復讐をするというこの映画には度肝を抜かれた。まず犯人の行動を読み、秒刻みの念入りな仕掛けをしたうえで捕え、手術台にくくりつける。そして部分麻酔をかけながら、メスや電動ノコギリで、手足をずたずたにきざむという残虐さ。止血処理をしながら繰り返し、意識のある相手を楽しむかのようにきざんで、息が絶えるのを確かめるというしつこさ。それは、八つ裂きにしても足りない恨みであるからなのだろうが、日にちをおきながら仇の三人を順に捕えて、殺りかたを変えるという復讐鬼の異常なほどの気力、体力は物凄いとしかいいようがない。とにかくなぶり殺しのむごたらしさは目をつむりたくなるほどだった。それに比べ、たかが給料というちっぽけなことで恨みを持って、何かしらの復讐じみた仕返しを考えていた八郎はスケールの違いに恐れをなした。まったく参考にならないことに、とぼとぼと映画館を出たが、あの復讐鬼の迫力に昂ぶりがおさまらず、歩いていると、やはり何かしらのことをやらなくては気がすまないという思いが強くなってくる。
 帰りの電車は、いつか競馬新聞を持っている人たちが目立つようになっていた。負けても負けても明日に望みを託してレースの予想に頭を働かせている人たちの顔に、執念じみた懸命さが見える。八郎は目をつむった。はたして俺は明日に望みを持って生きようなんて考えたり、思ったりしたことがあっただろうかと、唐突に記憶の底を探してみる。小学校、中学校、そして高校と、どこを探して掘り返しても希望の希の字も出てこない。今出てくるのは恨み、辛身とため息だけだ。学業の出来の悪さで大学など到底行けるレベルになく、家から追い出されるように就職した先がこの会社だ。会社員とは名ばかりの製造現場の作業員で、毎日汗まみれでドロドロになって働いた。そんな中でただ一つの楽しみは酒を覚えたことだった。いくつも年上の先輩に居酒屋へ連れて行かれ、苦いビールを無理やり飲まされていたのが、今ではべろべろにならなければ一日が終わらないというありさまだ。そんなことも加わってのつけが昨日判った給料の差だ。同期はまだしも、あろうことか二年後輩にも給料を越されていた。
 電車を乗り継いでアパートのある駅に着くと、もう日が暮れかけている。少し早いが暖簾が下りている居酒屋に入る。とりあえずビールを注文し、頬を強ばらせてグラスを一気に傾ける。それにしてもすごい映画だったなあと心の中でつぶやいて、煙草に火をつける。三人への復讐シーンを頭の中で再現しながらビールを注いで、どれくらいのどを通しただろうか。大熊への仕返しを映画のように出来るわけもないが、八つ裂きを四つ裂きくらいにはなどと考えていたら、いつのまにかビールがコップ酒になり、その何杯目からがあやしくなって、どこをどう帰ってきたのかまるで分からなくなっていた。アパートに帰ったのもおぼろげで、目が覚めたらテレビの画面が白い砂嵐状態になっていた。のどがからからで、流し場の蛇口をひねって腹いっぱいに水を飲んでまた布団にもぐった。
 夢も見ずに目がふっと覚めると、部屋の中まで明るくなっていた。煙草の煙で変色している、窓の薄いレースのカーテンを開けると天気はいい。しかし頭の中には思い出したくもない大熊の下駄顔がちらついて気分が晴れない。八郎は公園へでも行ってみるかと思った。粗末なアパートにじっとしていてもいい考えが浮かびそうにない。気が滅入っている時は広々とした所へ行って、きれいな空気を吸えば何かすごいことを思いつくかもしれないと階段を下りる。近くの空き地で横になっていたのを借りたままにしてある、階段下の自転車をゆっくり漕いで二十分くらい行くと、河川敷にある広い公園に着く。水色のベンチがあるところで自転車から降りて腰をかけ、まずは一服と煙草に火をつけると、煙が真っ直ぐ上がって消えていく。八郎は自分とさして年令も違わないような家族連れの父親が結構目についてなんだか面白くない。そうは思っても今のところ結婚などという、大それたことに心を惹かれることもないのだが、どうにも目ざわりだ。
 グランドへ行くと野球をやっていた。一塁側の離れたところの草むらに寝そべって大熊の顔を思い浮かべながら、あの金属バットで思い切り殴ったらさぞかしすっきりするだろうな、などと考えていたらいきなりボールが転がってきた。ユニフォームを着た人間がこっちに向かって大声を出して手を上げている。八郎は誰に向かってわめいているんだと、立ちあがりざま足元にあるボールを思いっきり蹴飛ばして背を向けた。どうせ会社勤めの、なあなあ連中のお遊びだろうが。俺はお前らとは違って仲良しグループなんかはごめんだ。そんなやつらの遊びなんかに手を貸してたまるかってんだ。黙って拾いにこいと、くそ面白くない八郎は肩をいからせてグランドから出た。
 八郎の給料は人並みに上がらなくても、桜は順調に蕾をふくらませている。白いボートが桟橋の乗り場に何艘も浮かんでいて、池の真中にある噴水が揺れてきらきらしている。八郎はまたベンチに腰をかけて煙草を吸うと、煙はゆらゆらと立ち上って今度は左の方へと消えていった。
 こんなに陽が高くなってまぶしい公園で浮かんだのが、金属バットで殴ってやろうかでは、何か場違いな事を考えているように思えてくる。なんだか情けなくなると、急に腹が減っているのに気が付いた。そういえば公園に入ってすぐの所にたしか出店があったと思い、中央の広場を囲んでいる歩道を歩き始めると、前方からえらく大きな黒い犬がくる。シェパードかもしれない。若くはなさそうな女の人が綱を握っている。これはえらいことになったと、犬嫌いの八郎は胸のバクバクが始まったところで、逃げるなら今のうちだと思った。しかし大の男が背を丸めて後戻りするのも格好が悪く、どうするべきか迷っているうちに犬は五メートル程に近づいていた。もうどうにでもなれと目を合わすと、予想通りいきなり吠えてきた。八郎はなめられてたまるかと、目を離す訳にはいかなかった。と、白い幅広帽子を深く被った飼い主が、八郎の顔をきつく見て手綱を強く引いた。まだ鼻に皺をよせて呻っている犬に、睨み負けしたわけではないからなとすごむと、八郎は大きく左へそれて足早に通り抜けた。くそっ、どいつもこいつもそんなに俺の顔が気に入らないのか、それとも飼い主の仇にでも見えるのかと、あれこれ考えていたら、いつのまにか出店を通り過ぎて公園の出口にきていた。
 広い道路を隔てて自販機が何台か見える。信号のある横断歩道を渡って近づくと、思った通り酒類が置いてあった。八郎は躊躇なく硬貨を入れると、カップ酒を選んだ。ごろんと大げさに音をたてて出てきたカップ酒をわしづかみにして半分位を一度に飲んだ。胃袋が暖かくなってようやく気持が落ち着いてくる。目の前を銀色の市バスが通りかかって、慌てて背を向ける。そして残りの半分も一度に飲んで暫くたたずんでいると、にわかに熱くなった腹の底から勇気がこんこんと湧いてくる。その勇気が八郎にあの黒いシェパードを思い出させるのに時間はかからなかった。それがすぐに大熊の顔と重なって、みるみる怒りがこみあげて抑えきれなくなり、公園へと足早に向かい始めた。“復讐”のふた文字が大きく浮き上がった。立ちまわりになれば武器がいる。なにか長い物はないかと探していると、縁石に破れた黒い傘が落ちていた。これはいい物があったと、八郎はそれを拾いあげて握り締めると池のある方へ急いだ。顔が火照り、腹と胸は熱くなって足を力強く運んでくれる。植え込みの合間から噴水が光って見える。たぶんまだあの池の付近にいるに違いないと、八郎は荒く息を吐いた。
 突然、左の植え込みから白い物が飛び出して甲高く吠え、足元にせまった。八郎が咄嗟に飛び退くと、それは恐れるに足りないスピッツだった。この野郎! 思いっきり顎を蹴りあげる。身体はのけぞってはいたものの、足ごたえはあってスピッツはギャン、と妙な悲鳴をあげて植え込みに消えた。八郎は、「馬鹿野郎が」と消えた植え込みに向かって罵声を放った。俺の相手はあの黒いシェパードで、大熊退治の予行演習だと気を引き締めて池に向かおうとしたその時、「お前か! 俺の犬を痛めつけたのは」と言うが早いか、植え込みから現れた風体の悪い大男が、いきなりパンチを叩きこんできた。八郎はよける間もなく、まともに喰らい、衝撃が頭の芯に走った。足の力が抜け、ぐらりと尻から崩れ落ちると意識が遠のいた。
 「救急車、警察、電話、早く、死んだんじゃない?」
 八郎の耳にいろんな声色が大きく、小さく聞こえた。何分も経っていないはずだと思った。何が起こったのか分かっていて意識も戻っていた。八郎がゆっくり手をついて立ち上がると男はすでに消えていた。左の顔面がずきずきして火照る。手で撫でてみると血はついていないが、内出血をしているだろうと思った。八郎は吹っ飛んだ帽子をかぶり直して、自転車を停めてある方へおぼつかない足を向けた。
 顔面が腫れてきたのだろうか、左の目がだんだんふさがってくる。痛さよりも恥ずかしさで帽子を深くかぶり、うつむいて公園を出た。八郎は真っ直ぐアパートに帰った。壁に吊るした鏡で火てる顔面をこわごわ見て思わず唸った。頬骨周りが見事に膨れあがっている。中心部はやはり内出血で青黒くなっている。とりあえず濡れタオルで冷やして横になった。明日は会社だが、この顔が元通りになるとは到底思えない。
 窓から西日が消えかけている。
 そういえばと、八郎は昼飯を食べ損なっているのに気がついた。冷蔵庫は見るまでもなく、コンビニへ行こうと立ち上がる。背に腹はかえられないと帽子をかぶり、この間風邪をひいた時に使っていたマスクを探した。給料は同期の皆んなより少ないけれど、もらったばかりだ。今日という日は大奮発しなければどうにも気がおさまらない。せっかく気分を晴らしに出かけた公園で、こんな目に合うとはまったくついていない。これも考えてみれば大熊の野郎のせいだ。クソッたれめがと悪たれ口をたたく。
 コンビニに入ると、店員のぎょっとする様子がすぐに分かった。帽子を目深にかぶってマスクなどをしていれば当然なのだ。買う物をあれこれ迷っていて警戒などされたら面白くもない。さっさと商品棚から選んだ幕の内弁当を温めてもらい、パック酒の六百四十ミリリットルと、明日から会社を二、三日、風邪で休むつもりなので、メロンパンを二個とカップラーメンを二個とスタミナドリンクを二本買った。鼻歌を歌いながら、八郎はゆっくりとペダルをこいでアパートに戻った。
 とりあえず後輩に会社を二、三日休むという事づけを頼む。さあ温かいうちに食べようと弁当の蓋を開けて、コップに紙パックから酒を注ぐ。そもそも公園へ行けば気分転換にもなって、何かいい考えが浮かぶだろうなどと考えたのが甘かったのだ。報復を計画するのなら、やっぱり薄暗くて物音のしない陰気な場所が本当だろう。八郎は思いもしなかった今日の胸くその悪い事件を忘れてしまおうと一杯目を一度に飲んだ。腹が熱くなってくると、例によって変な勇気がこんこんと湧き上がってくる。しかし今は豪華な弁当が目の前にあり、八郎の勇気は無用になっていた。パックが空になる頃には酔いがほろりと回っていた。今日は銭湯にも行けないので、早々と薄い万年床にもぐりこむ。火照ってちくちくする頬をそっと触ってみるとまだ熱い。タオルを濡らして載せたら冷たくて随分気持ちがいい。
 少しの間、うとうとしていたらしく、テレビはいつの間にかドラマらしいシーンを映し出している。画面では照明を落とした部屋のテーブルを何人かが囲んでいる。大きなデコレーションケーキに立ち並んでいるロウソクの灯を、美女が頬を膨らまして吹き消すと、「誕生日おめでとう」と一斉に拍手をして歓声をあげる。ありきたりのシーンを、くそっ、なんだくだらんと目を離しかけて、八郎は「おおっ!」と声をあげた。冗談じゃないぜ、そういえば今日は俺も誕生日だぜ。しかもいぬ年生まれの年男だぜ。これは一体どういうことなんだ。
 何の因縁があるというのだ。いぬ年生まれが犬に吠えられてこのざまだ。まったくしゃれにもならないぜと、怒りがこみあげてくる。それと同時に、やはり犬は天敵なのだろうかと本当に思いたくなる。考えてみても幼いころから今日という日まで、犬が向こうから笑いかけてきたことが一度だってない。いつだって目を合わせても合わさなくても呻られ、吠えられ、そのたびにドキリとしたり冷やりとしたりで、一体、犬に対して恨みをかうような事を、いつ何時したというのか、と八郎は牙を剥き出して思い切り吠え返したい気持ちになる。
 飼い主には従順で、お座り、お手、お代り、待て、よしと言われるがままにポーズをとって、時にはにっこりと笑う犬もいる。それを思うと、いぬ年でありながらどうして飼い犬のように、お座り、お手、お代り、待て、よしが出来ない人間なのだと八郎は何とも複雑になる。考えてみれば会社で職長の指示のしかたが気に入らないと、鼻歌交じりで勝手な手順で仕事をしたり、小言をいわれれば気分が悪いと休憩所でいつまでも煙草を吸っていたり、ついには酔った勢いで職長の胸ぐらをつかんで、同僚から羽交い絞めにされたりと、組織の人間としての自覚というより資格がないのかもしれない。飼い犬になりたくない野良犬となんら変わりなく、ただ餌にだけありつければ、決して人間の手のうちに入ろうとしない、いぬ年の生まれなんだ。だから給料が人並みに上がらないのは当たり前なのか。後輩に越されても仕方がないのか。
 おそらくあの金曜日に総務課から業務課の方に、給料のことについて連絡が行っているはずだ。それはそれでいい。だがあの職長の大熊が今度、顔を合わせたらどんな態度を示すのか楽しみだ。あいつが第一工程に職長として異動してきてから五年は経つ。何が気に入らないのか、顔を合わせた時から俺を見る目つきが、他の皆んなとは違っていた。命令口調で唾を飛ばし、返事をせんかとまるで軍隊長面をして怒鳴り散らす大熊には到底向き合えるはずもなかった。当然奴の顔なんか見たくもないし言葉も聞きたくない。いくら業務命令だといっても、結果オーライであれば奴の言うこととは違ったやりかたで済ませた。やりかたが気に食わなかったら首にしろとは言わないが、そんな態度でいた。だがその結果がこうなっているとは及びもつかなかった。大熊は給料を最低レベルのままで置くように仕組んでいたのだ。奴は総務課から連絡を受けて、ザマーミロとほくそ笑んでいるかもしれない。だが勤務評価は下の下でも給料を削ることは出来ないのだし、ボーナスは基本給がある限りもらえるっていうことくらいは知っている。それで十分だ。五年もいる大熊がそろそろこの職場から異動するだろうが、それまでに必ず報復をしないではいられん。たぶん送別会という場があるだろうから、その時に酔った勢いで右フックの一発を顔面にお見舞いすれば気分も爽快になって、奴に恥をかかせることにもなる。この計画が一番シンプルで手っ取り早い。しかし怪我をさせるとちょっとまずいなと、八郎は考えをめぐらした。そうだ奴の下駄顔にコップのビールをぶっかけて、へらへらと笑ってやるか。それがいいと八郎は無様な大熊の面を思い浮かべた。 
 その日がくるまで待っていろと深く思った。そのあとにくる新しい職長が、どんな人物であろうともフットワークを変えるつもりはない。しかしいくら皆んなより薄い賃金で生活していても、八郎はこの辺で夢とか希望とか、気持のふくらむものが人並みにあってもいいのではないかと少し思う。例えば結婚は別として付き合ってくれる女を探して、やがて恋心はどうやって生まれ、胸を焦がしてくれるのかとか…でもなあ、このひねくれた性根にこの仏頂面だ。男が寄りつきもしないのに女ならば尚更だ。可能性はまあゼロだ。女は無理だ。あとは何がある…あとは考えつかない。競輪、競馬か…推理なんてものを働かせるのは面倒だし、博打は性に合わん。それではパチンコか…あれはただの遊びで夢とか希望は埃ほども含まれておらん。趣味か…酒。これって趣味といえるか?ああ、もうつまらん事を考えるのはやめようと、八郎は目だけで追っていたテレビを切った。
 「ところでおい神様よ、気分を変えて仕返しのことを考えに公園へ行ったのによ、いくら犬の巡り合わせにして も、今日という日はちょっとむご過ぎるじゃないか」
 と、八郎は腫れた頬にさわりながら文句をたれて布団を頭までかぶり、目を瞑った。眠れるはずもなく今日の出来事をあれこれ考えていると、まぶたの奥からどういうことか、もう一人の時玉八郎が現れ、「おい貴様、いっぺん犬でも飼ってみたらどうなんだ。犬の気持ちが分かるようになれば、貴様だっていつかは立派な犬遣いなれるではないか。そうなると貴様のその面だって少しはまともになって会社のお偉い方の見る目も変わってくるだろうぜ。それとも髪が白くなるまで地蜘蛛のように穴蔵で生きていくのがいいのか。年男なんだろう?もういい加減にしろよなあ、おいアンポンタン」と言うと、薄い唇をゆがめてにたりとした。八郎は思わず、「何をぬかしやがるこの野郎」と声を荒げて布団を蹴りあげた。
 八郎は犬に吠えられるたびに、自分は猿年の生まれではないのかと思ってみることがある。昔の話では子供が産まれてもすぐに届け出せないことがあって、ひと月やふた月遅れなど不思議ではないことを聞いたことがある。しかし二年もとなるとちょっと考えにくい。だがこれは一度親に確かめてみる必要がある。もしかして養子で育てられたのかもしれないし、そうであれば届け出に間違いが起きても不思議ではない。何を馬鹿げたことを言ってるんだ。勘当でもされたいのかと、親からどやされても聞いてみるべきだ。
 それが本当に猿年生まれであったとすれば、職長である大熊への報復は一時中止だ。いぬ年の俺を目の仇にするあいつが猿年生まれという可能性がないでもないからだ。同じ猿年生まれであれば、いがみ合うこと自体がおかしいのだから、あいつにはそう訴えてもいいと思う。いやまてよ、まさかのことで、その大熊がいぬ年であることも考えられるではないか。そうしたらどうする。そうしたらーいぬ年俺、猿年大熊、いぬ年大熊、猿年俺、猿猿、犬犬、俺、大熊、大熊、俺ー八郎は頭を抱えて寝転がった。犬を飼ってみたらどうなんだというあの八郎が、また唇を歪めてにたりとする。八郎はもう一人の八郎のたわ言に苛立った。いてもたってもいられず、これは飲み足りないからくだらんことを考えるのに違いないと立ち上がり、また帽子を目深に被りマスクをつけて自転車でコンビニへ向かう。八郎は迷わず一リットルのパック酒を買った。店員の目など気にしていられない。急いで戻るとコップに注ぐのももどかしく、パックを開き両手で持って口をつける。カップラーメンを生でかじっては酒をひたすら喉に流し込む。考えるな、考えるな、何も考えずに瞼が閉じるまで飲むのだと言い聞かせる。鈍く光る“犬猿”という言葉の針が散らばる意識の中に、誰も何も浮かばなくなると、ゆらゆらと身体が揺れて、時玉八郎の意識は排水口から暗闇に吸い込まれるよう落ちて行った。
 くしゃみで目が覚めた。部屋はすでに明るい。八郎は着のみ着のままで布団にもぐりこんだ。身体をダンゴムシのように丸めて、ただ温かい血が巡ってくるのを待つ。まだ朦朧としている頭の中は、クラゲでも浮いているようで何も考えようとしない。身体の震えが治まってくると八郎は寝返りをうった。そういえばと八郎は頬に手をやった。殴られた頬の腫れと痛みはかなり引いている。骨折はしていないようだと撫でまわしてみる。のどが渇いていた。八郎は布団の中で四つん這いになって這い出すと、そのまま台所まで這い歩く。洗い場に手を掛けて立ち上り、水道の蛇口をひねって口をつける。こんなにうまいものがこの世にあったのだと、腹いっぱいになるまでぐいぐい飲む。
満足が身体中に行きわたると手の甲で口をぬぐい、壁に打ち付けた鏡で己の顔具合を確かめる。ん、と八郎は映った顔を疑った。左の頬にまだ青黒い脹らみはあるのだが、いつもある眉間の縦じわがない。上がっているはずの眉尻が水平にある。ふくらんでいるはずの小鼻が沈んでいる。ぴたりと閉じているはずの唇がぽってりとして半開きだ。らんらんとしているはずの目は…目尻のさがったどんよりとした眼だ。これはいったい…こんなばかな…そしてまた鏡を見る。じっと顔を見ていると、あまりにも立派な馬鹿顔にのどから笑いがこみ上げてくる。それにしてもなんて顔になってしまったのだと今度はため息をつく。このへんてこな顔が、この間抜けた顔つきが、平気でのどから鼻から笑い短く漏らしてくる。
 もしかしたらこれがもう一人の時玉八郎の言う、少しはまともな時玉八郎ではないのか。ひょっとすると、その時玉八郎になってしまったのかもしれない。冗談じゃないぞと、八郎は慌てて鏡から目をそむけると、もつれる足で布団になだれ込んだ。再びダンゴムシになって鏡の中の顔をじくじくと考えてみる。あれは、あの緩んだ顔はどう考えても他の時玉八郎だ。そしてその顔が否応なしに己の顔に貼り付いてくる。どんなに剥がしてもいくら拭っても、すぐさまスロットマシンの変わらぬ絵柄が次から次へと被さってくるように。
 八郎は会社をこの一週間休むことにした。もう一度あの公園へ行って、あの出来事があったあの時間に、あの鏡の中のへんてこな間抜け顔で、あの犬が通った道を明日からいさぎよく歩く決心をしていた。ポケットに手鏡をしのばせてー。