掌編小説「幻の初恋の人を慕ひて」
太平洋戦争は、年を追う毎に苛烈になり、お上からの“召集令状”という一枚の赤紙で、健康な男達が駆り出されて行った。残された女・子供達は、自分達の力で留守を守った。間宮家でも、父の居ない留守宅を守る為あくせくした。
食事の用意をする燃料の薪は不足し、祖母は三井寺山内の山をかけ登り、小枝や二尺ばかりの枯枝を集めて来、縄でまとめて背中にくくりつけ坂道を降りてくる。小学五年生になった千代も、少しでも祖母の手伝いをしようと、早く勉強が終わると山へ出かけた。
千代の後から、角帽子をかぶり衿もとはLという金色の徽章の文字を光らせた上背のある大学生がすれ違って通り抜けていく。千代は、思わずその姿に目をとめた。脇に抱えた柴の束を落としそうになる。すぐ後を追ったが、角帽の大学生は足早に過ぎ去って行く。千代は、その姿が気になって仕方がなかった。頬が赤く染まってくる。家に帰ってもその後姿が焼きつき眠れなかった。
どこの人かしら? 何て名前の人かしら?
次の日も、祖母に誘われて同じ山道を登って行った。あの人に会えたらいいのにと思いながら登って行く。
「千代、もっとゆっくり柴を拾わんとあかんがな。太いのもまだ残っているやないか」
祖母の言葉もそこそこ、目先の幻の大学生の姿のみ浮かんでくる。イニシャルLの文字は、文学部の印であると父から聞いたことがある。父も同じ文学部の出身である。文学部の大学生の足音が、大股で近づいて来る。千代は歩みを止め振り返るが、大学生の姿は見当たらない。空耳であった。
三、四日柴刈りは続いた。
「千代、もうこの辺には柴も少のうなってきたからぼつぼつ違う場所を探して見よう」
祖母の言葉に、千代は言葉をつまらせた。
それから次に出て来た祖母の言葉に千代は仰天し、胸の苦しさを味わった。
「あんたは知らないかもわからないけど、柴刈りで時々出会うた三井寺からT大学へ行っておられたNさんが、学徒動員で角帽を脱いで衿掌も外し出発されたので見送りに行って来たんだ。無事に帰って来られたらいいけど、この頃は特攻隊というものもあるそうや、それには生きて帰られんことのようだ。」
千代は、祖母の言葉を言葉半ばまで聞き、頭の芯まで脳が逆転し、めまいをおこしそうになった。
柴刈りで出会った大学生。この人こそ、千代の初恋の人、中條雲海であった。小学校五年生の時であったので、初恋がどんなものであったか知らなかったが、柴刈りで出会った角帽のつま衿のりりしい名も知らない大学生が私の初恋の人ではなかったろうか。誰も知らない千代の初恋の人。誰にも知られない初恋。後で「特攻隊で戦死」との事。千代は一人仏壇に手を合わせ、冥福を祈るばかりであった。 (了)