短編小説「黒いへび」

 夏休みの昼下がりー
 校舎を見守る鎮守の杜から時折、わめき声や笑い声がおおげさに上がる。今日は境内でビー玉遊びが始まっていた。ガキ大将はとびぬけた図体の松男だ。ゲームは珍しくもめごともなく進行していたが、何を思ったのか、その松男が突然、笹川へアユを見に行くぞと言い出した。
 せっかく今日はみんなが楽しくやっている最中になぜアユなのかと、これまでにない調子のよさで本気になっていた孝平はやりきれなかった。まるで気が進まぬまま、自分のビー玉をポケットに入れてこのまま知らぬ顔をして帰ってしまおうと、みんなのうしろで背を向けたとたん、「逃げる気か」と有無を言わさぬ松男にうしろ襟をつかまれ引きずられた。瞬間、殴られると思い、とっさに両手で顔を覆うが平手は飛んでこない。今日はどういうことだと思いながら、背丈が松男の肩ほどしかない孝平は、仕方なくあとからついて行く。

 飯豊山脈を源として、広大な田畑を潤す笹川の水量は、この季節になっても目立って減ることはなく、流れるさまはとうとうとしている。
「うおっ、見ろ黒いへびだ」
先になって土手を越えた松男が、及び腰で川べりへ下りかけて素っとん狂な声を上げた。
咬まれたら死ぬといわれる黒いへびがこんな所にいるなんてと、今まで見たこともない孝平がおそるおそる松男の横まできて身をそろっと乗り出すと、
「ほら、そこだ」
 いきなり背中をおもいっきりど突かれ、孝平はこらえる間もなく悲鳴をあげて川にダイビングした。身体をのんだ流水は、衣服に滲み渡るより早く素肌にすべり込み、舐めるように洗いまわす。いくら夏とはいえ、急激な冷たさに心臓が痛く締めつけられる。口を開け、わめいてもがく孝平を指さして、松男は天を仰いで馬鹿笑いをしていた。
黒いへびなどいなかったのだ。
 腹まである流れを、前傾姿勢でかき分けながら川底を踏みしめすり歩き、下の岸辺にたどり着くと、同じ村のひょろりとした次郎が、手を懸命に伸ばしてなんとか引き上げてくれた。
 クラスの遊び仲間でありながら、なぜ自分だけがこんなことをされるのか。登下校を一緒にしている次郎が松男に悪どいことをされるのを見たことがない。うっすらと思うのは、次郎の父親が町役場に勤めているからなのだろうか。
太陽が頭のうえでかんかんと照りつけていた。
 こんな悪ふざけが、四年のクラス替えからずうっと続いている。
 長い夏休みが終わり、二週間が過ぎた月曜日の朝、孝平はいつもと変わりなく家を出た。通う小学校は村の南はずれから望めるところにあって、いくつかの村から生徒がそれぞれの方向から通っていた。笹川沿いの道を、流れと同じように下って学校へ向かう。胸の厚さが孝平の倍もあろうかという、あの松男は学校にほど近い、反対方向の集落から登校してくるので、着くまではなにごとも起きる心配がなかった。
  農家の庭畑で、もう色づいている柿の実がある。
毎年、目に映るあれは甘い柿なのだろうかと、ふと気になり、垣根の側に寄って見上げていると、いつのまにか近くにきていた大きな黒い犬がほえたてた。慌ててその場から飛ぶように走り去り、息が苦しくなると次郎の姿が目に入った。何があったのかと、待ち構えていた面長で白い顔の次郎が、犬に吠えられたと知って、乾いた声を上げて笑った。
 今日は授業代わりの野外教室で、六年二組は大台山に登ってスケッチをすることになっている。朝からまぶしいほどの空だ。
 筆箱と、写生板に挟んだ画用紙、そして雨具とおにぎりが背中のリュックに入っている。遠足とは違うのでおやつを持ってはいけなかった。

  教室で出欠をとると六年二組の三十二人は、色も形もとりどりのリュックを背にして階段を下り、校庭に出た。
「おい」、といきなり孝平はリュックを引っ張られた。よろめいて振り返ると、松男のゴリラ顔がにやりとした。
 昨日、禁止といわれながらも松男と次郎と三人で、「学校前」からバスに乗って、今日のための駄菓子を買いに走ったのだ。学校の近くにも店はあるが、悪いことに松男と同じ村で同級生の、おしゃべり真紀の家だ。そこで買うとなると、見つかったら今日のための菓子と思われ、先生に告げ口されるのはわかっていた。
「持ってきただろうな」
 菓子袋が二つ、孝平のリュックの底に入っていた。もちろん松男が選んだものだ。
「それでは出発しまーす」
 紺色の体操服に着替えてきたカリフラワーみたいな髪をした先生は、目の覚めるような黄色いリュックを背にして、白い丸いつばの帽子を被ると勢い込んで言った。
 太い石柱の立つ校門を出ると、笹川沿いの道を一列になって北に向かう。
 行く手の空高くにはトンビが一羽、大きく翼を広げて青い空をのんびりと舞っている。
 この通学路を十五分ほど歩いてから右に折れると、彼方に目指す大台山の全容が見える。
 長い農道や畔道を右に左に折れながらにぎやかに歩き続け、さらに四十分ほどすると、いつの間にかゆるやかな上り道になっている。最後の右曲がりで向きを変えると、うっそうとした茂みが現れ、うるさかった話し声が止んでしまうほどの急な坂となる。ここが大台山への登り口だ。
 荒い息遣いがいつか悲鳴に近くなってくると、まもなく周りを切りはらった平坦な休憩所に着く。
「ここで、少し、休みまーす」
 先生が息をつぎながら、首に巻いた手ぬぐいでひたいから首筋の汗をせわしなくぬぐう。
生徒たちもみな同じように息をはずませ、せまいベンチに尻を寄せ合って腰をおろしたり、草むらで足を投げ出したりする。
「先生、小便」
 いきなり松男が、両手でズボンの前を押さえたのを見て、汗だくのおしゃべり真紀が、「よおよお、どこでするんだ」とはやしたてる。
いつもなら追いまわす松男もげんなりで、知らぬふりをして広場の片隅にある古ぼけた便所に向かう。
孝平と次郎も、うるさい真紀にはかかわるまいと無視を決めてあとから続く。
 誰かがついてこないかと、一番うしろの次郎が振り返りながら、最後に便所へ入る。
 松男は入口をふさぐように次郎を立たせておいて、孝平が背にしているリュックから、待ちきれないように菓子袋をひっぱり出す。
 そのとき、近くで真紀のかん高い声がした。
 次郎はまさか便所へくることはないだろうと、入口から顔を半分のぞかせる。
「早くしろ」
 松男は声をひそめて、力まかせに袋の口を引き裂くと、大きな手のひらをもどかしそうに突っ込んだ。
 それを見た次郎も入口から側に寄ってきて、孝平と一緒にカリントウを口一杯にほおばる。アゴを突き出し、頬をふくらませてゴリゴリと噛み砕くと、黒砂糖の香ばしさで、三人とも同じように目じりを下げる。
 あまり長くはおられないと、外の様子をうかがって何食わぬ顔でそろりと便所から出ると、気がかりだったうるさい真紀の姿は、腰を下ろしている生徒の中に混じっていた。
「しゅっぱーつ」
 先生は、いつのまにか長い木の棒を持って杖にしていた。
 やっとのことで尾根道に出ると、木々の間から時折、町並がはるか遠くに見え隠れする。尾根はゆるい起伏が所々に現れるだけで、呼吸をととのえながら列を乱すことなく進むと、まもなく左に盛り上がった山の肩が現れる。そこを上ると、三角ベースの野球でもやれそうなだだっ広い大台山の頂に着く。
 青息吐息だった生徒たちも、ようやく表情が晴れ晴れとする。
 町や村が大きく開ける場所を見つけると、孝平は緑の濃いこの山のふもとから、白っぽく見える町までを画用紙いっぱいに描きたいと思った。
「オレは沢を描いてくるぞぉ」
 松男のバカでかい声が聞こえる。
「危ない所へ行くんじゃないぞ」
 先生は通りいっぺんの注意を、さらりとしただけだった。
 やはり、みんなの目の届かない所へ行く。それより沢なんかへ下りるのは初めてじゃないか。
 孝平はいやな気持ちになった。
 すると、
「わたしも行きたーい」
 どこかでおしゃべり真紀が聞いていたらしく、ちび丸い身体を踊らせてくる。
「くるな」
 松男はこぶしをあげ、本気になってにらみつけた。
 小さいけれど物おじしない真紀を、松男は大の苦手にしていた。
 孝平が松男に小突かれたり、蹴飛ばされたりしているのを見つけると、
「先生に言いつけようっと」
 と、耳に障るほどのキンキン声を出したり、不意にうしろから「バカ野郎」、とあの人一倍大きな身体の松男に向けて、がなったりする。そのたびに追いかけまわすが、真紀のすばしっこさにはついて行けず、松男は息を切らせてあきらめるばかりだった。
 進んできた尾根道の小さな起伏をひとつ越えて、沢に下る踏み跡を次郎が先頭になった。そのうしろに松男が太い棒を持っているので、最後の孝平は気が気でない。
 思わず真紀はきていないかと、孝平が振り向いたときだった。
「早くこい、離れるな」
 いきなり太い棒で腕を叩かれた。
「痛っ」
 おおげさに痛がれば、また棒が飛んでくる。孝平は声を押し殺した。
「先に行け」
 松男は孝平の尻を棒で突くと、今度は一番先に行けという。次が松男で最後が次郎という順になった。
 踏み跡がだんだんあやしくなってくる。草丈が高くなって、足元が岩の砕けた大小のかけらだらけになったと思ったら、パッと目の前が明るくなった。
「滝だ!」
 松男も次郎も息を呑んだ。
 滝は昼の陽射しを浴び、まるで白い一本柱が輝いて建っているようだ。水の流れ落ちる音が、木々を飛び越え、重く静かに迫ってくる。三人は身動きもせず、突然現れた光景にしばらく見とれた
 ここにこんな滝があったとは、思いもよらないことだった。深い山地の裾山である大台山の沢には、けわしい地形がむき出しになっていた。
 我に返って辺りを見回すと、目の先に牛一頭ほどのこげ茶色の岩が、行き手をさえぎっている。まずはそこを左に廻りこもうと足を進めると、意外なことにすぐその前には、楽に三人が並んですわれそうなゆるい斜面があった。
「おお、ここにしようぜ」
 迷うことなく松男は、足元を見回しながら満足そうに言った。角ばった岩のかけらが散らばっている、その辺りを何度も足でかきならして踏み固めると、次郎、松男、孝平の順で腰をおろした。
 背中のリュックをそれぞれの横に下ろすと、三人はまた滝に気をうばわれて膝を抱えた。
「あの滝を描いておけ」
 松男はリュックを引き寄せると、画用紙を挟んだ写生板を取り出し、孝平の前に放った。そして立ち上がると、孝平の横にあるリュックに手を突っ込むと、食べかけのカリントウが入った袋を引っ張り出し、大きな口をあけて、次郎と二人でボリボリと食べ始めた。黒砂糖の甘い匂いがすぐそばでする。孝平は自分も食べる権利があるのにと、物欲しそうに見るが、松男の手からカリントウは、分けてもらえそうになかった。
 しかたなく松男の写生板を手にとって、ここからながめる滝を画用紙に描き始める。わざと下手に描くのも案外難しいものだ、と横目でまだかりん糖をほお張っている松男をちらりと見上げる。
ああ、という間に袋が空になると、二つめの「コンペイトウ」の袋をあけて、また次郎と食べ始めている。孝平が思わず指先に力をいれると、鉛筆の芯が音をたてて折れ飛んだ。ひやりとして横を見上げると、二人とも食べるのに夢中で気がつかない。鉛筆を替えて知らぬ顔で続けたけれど、替えた鉛筆の色濃さが違うので、何だか滅茶苦茶になってしまった。松男の絵はこんなもんでいいか、とそれを脇において、自分の写生板を両膝に乗せ、しっかりと持った。まず白い画用紙の真中に滝の線を一気に引いた。孝平はなにもかも忘れて、鉛筆を走らせていた。
「なんだぁ、この絵は」
 言うが早いか、松男の足が脇腹に飛んできた。一度はなんとか受け流したが、続けざまにきた蹴りはうまく避けることができず息が止まりそうになる。三度目で大きく蹴飛ばされた孝平は勢いよく転がされ、そのまま草の生い茂る斜面に突っ込んで行った。
「おーい、大丈夫かぁ」
 上から大きな声がした。
 とっさに頭を抱えて転げ落ちた孝平が、気を取り戻して顔を上げると次郎が、押し倒された草むらからのぞき込んでいた。灌木に身体の勢いが止められ、ヤブの中に沈んではいたが、動こうとするとあちこちが痛い。身体を確かめるために呼吸を何度も深くしてみる。大丈夫そうだと分かり、孝平は両手で草をつかみ、足元をさぐりながらゆっくり這い上がった。
 次郎が横から何度も顔をのぞきこんでくる。痛さとくやしさで涙が出そうになるのを、孝平は歯を食いしばってこらえた。
 次郎に肩を抱かれて元いた場所まで戻ると、松男は何事もなかったかのように大岩の前で腰を下ろし、おにぎりをうまそうにほお張っていた。
 背もたれにしていた大岩に、日が陰り始めようとしている。
「ああ腹いっぱいだ。さあ、戻るか」
 あろうことか松男は、孝平のおにぎりまで食べていたのだった。あれもこれも好きなように食べて満足したのか腹を突き出し、両手で何度もさすっている。
 帰りの上り道は次郎が孝平の手を引き、先になって歩き始めた。小薮をかき分けながら歩き、尾根道までもうまもなくというところで突然、バサバサッと何かが草薮を激しく叩くような音がした。松男があの太い棒で何かをーと思った瞬間、
「ギャーッ」
 うしろで断末魔のような悲鳴があがった。
 驚いて振り返ると、松男の首に黒くて太いものがからんで、たれ下がっている。蔓にしてはちょっとおかしい。なんだか動いているようにも見える。
「ヘ、へびだ!」
 まちがいなく太くて長いへびだ。孝平は頭の中が混乱した。
 松男は、ただ懸命に身体をよじらせてもがいている。そして、うずくまるとその場でダラリとうつ伏せに伸びてしまった。
 二人が呆然としていると、松男が倒れているその近くから、こげ茶色の鳥が爪を広げて、ワサッワサッと一ヒロもありそうな翼を、上下にしならせて滝の方へ飛んで行く。あれだ、あいつが捕まえ損ねて落としたのだ。
 松男の首にからんだままの、黒いへびはこちらを向いて頭をもたげている。赤い舌をチロチロと震わせるとゆっくりと鎌首を下ろし、胴体を大きくくねらせながら深い草薮の中へと消えて行く。あの太さと長さはアオダイショウにも思えるが、あれは違う。孝平と次郎は顔を見合わせた。ふだん見るへびの類であれば、かまわず尻尾をつかんで、そのまま二三度振り回して思い切り投げ飛ばすところだが、あの気味の悪さと怖さで声さえ出なかった。
 松男はピクリともしない。
 次郎が松男の側で立ちすくんでいる。おそるおそる孝平は次郎のうしろからのぞきこんだ。血の気のない顔、半開きの白眼。だらしなく開いた口からは泡のようなよだれ。まるで死んだみたいな別人の松男が、持っていた棒を横にして伸びている。
 なすすべもなく立ちすくんでいた次郎が、思い出したように声をかけながら何度も肩を揺すると、松男はようやく瞼を重そうに開けて上半身を起こした。と同時にたった今おきたことを思い出してか、かすれた声で悲鳴を上げると首をすくめ、頭を震わせながら立ち上がった。そして首まわりを両手で激しく叩き払い、地団駄を踏みながら頭をかきむしる動作を続けている。やっと何の感触もないのに気が付いたのか、慌てて棒を拾い上げ、今度は辺りの草むらを気が狂ったようになぎ払い続けた。息が切れると棒を持った手を止め、荒い息をしながら足元を何度も見回し、空にむかって「ウオォー」と狼みたいな遠吠えをした。
 口元からアゴにかけて冷たさを感じたらしく、体操服の袖で何度もよだれを拭きながら、松男はまだ戻らない顔色で、
「誰にもしゃべるな」
 と、震える声で上目づかいをした。
 孝平は小便臭いのに気がついていた。松男のズボンの前が濡れている。次郎もわかっていたのか眉をしかめ、片目をつむって孝平を見た。
「行くぞ」
 松男の声は、今まで耳にしたことのない情けなさだった。

「遅いじゃないか」
 ようやく頂上に着くと、姿を見つけた先生が持っていた棒で、地面をえらい勢いで何度も突いた。
三人を待っていた一行は出発の合図で山を下り始める。
 日が傾き始めると、緩い西風が尾根道の正面から吹き抜けていく。
 おしゃべり真紀にだけは、あのことを気づかれないようにと、松男を一番うしろにして、三人は最後から距離を置いて歩いた。
 尾根道から滑り落ちそうな坂を下ると休憩所へ着く。
「休憩は、しませーん」
 先生の大きくてきつい言葉だ。
 みんなのざわめきが広がる中で、松男は先生の言葉によほどほっとしたのか、おどおどしていた素振りが一変してやわらいだ。
 山を下りると、通学路に突き当たるまでに、一本の交差する比較的広い農道がある。そこへ近づくにつれて松男は、なぜかそわそわし始めた。
 そしていくらも行かないうちに、前を歩く孝平の腕を黙ったまま力なく引き、
「俺はここからから家に帰る。先生にバレたら、腹が痛いから帰った、と言っといてくれ」
 と、交差する農道の手前にある桑畑の中へ蟹股でかけ込んだ。誰もそんな松男の行動を知るはずもなく、ただ学校へ向かって長い一列は黙々と歩き続けていた。
「それではここで放課にしまーす。スケッチは明日持ってきて下さーい」
 先生は校庭に着くと、白い手ぬぐいで首筋を拭きながらみんなを前にして言った。
その時、
「松男がいなーい」
 おしゃべり真紀が手を上げて飛び跳ねた。
 いらんことを言うな。孝平は、小さい目をいっぱいに開いて叫ぶ真紀をにらんだ。
「先生、松男は腹が痛いと言って、学校の前まできてから、そのまま帰りました」
 孝平はうしろから背伸びをして手を上げると、仕方なく松男から言われたとおりに伝えた。
「どうして早く言わない」
 滅多に怒ることのない先生がまなじりを上げた。
孝平はこれ以上言いようがなくて、ただうつむくしかなかった。でも、なぜかそれ以上のことを先生は聞くことをしなかった。
「整列、礼」
 当番がよく通る声で終礼をした。
 帰り道、次郎とはなんにも言葉を交わさずに、西日を背にしてただ石をけったり、手にしては川へ投げこんだりした。
 そんなままで、前庭に松の植木がある次郎の家にくると、目も合わさずに別れた。
 何歩も歩かないうちに孝平の頭には、沢から上がる途中であんな目に遭った松男のことが、ものすごい勢いで湧き上がった。次郎が口を開かなかったのは、あの黒いへびの驚きを話し出せば、そのながれで松男が小便を大量にもらしたことについても語らなければならなくなる。口を開かなかったのはそれを言えば、聞いた自分が松男に告げ口をするとでも思ったのだろうか。 そう考えると、自分も次郎と同じことで口を利かなかったことに思いが当るのだった。
 へび、へび、へびー頭の中は鎌首を持ち上げた黒いへびだらけになった。

 そういえば松男は朝からへんに落ち着きがなかった。山へ登る途中に便所で隠れて早々とお菓子の袋を開けたり、沢へ下りる時でもなぜか先頭で歩こうとしなかったし、あれはもしかして山で生きている動物などが、自分の前にひょいと現れるのを嫌がっていたのかもしれない。よくよく考えてみれば、今まで松男が遊び仲間たちと山へ行くのは、冬苺の実が赤くなる頃に一度だけで、へびなどはまったくいない季節だ。そうか…孝平は胸の底から熱いものが静かに噴き上げてくるのを覚えた。
 一週間、あと一週間あれば松男の悪ふざけから、逃れられるかもしれない。孝平は次の遊びに誘われた時には何を言われようと、たとえ殴られようとも絶対に断ろうと決めた。できるだけ早い方がいい。そうでないと自分の弱い気持ちがいつ顔を出すかしれない。明日、たぶん明日だろう。松男が今度の日曜日の遊びを決めるのは。たとえ殴られようと、はっきりと言うのだ。孝平は自分の胸に強く言い聞かせた。
 頭の中に巣くっている松男のでかい顔の輪郭が、少しだけ崩れたような気がした。気持ちが軽くなってくると身体も自然に応えて、なんとなく小走りをしないではいられなくなった。慣れないスキップなどを交えて、足がもつれたりするのさえが楽しくて、道のある限り続けられそうだった。  
 笹川沿いの道を孝平は夢心地でスキップを続けた。身体の痛みは、もちろんすっかり忘れてしまっていた。
 犬がいないのを見計らって、農家の庭にある柿の木を朝と同じように見上げると、そのはるか上を舞っているトンビが、ピーヒョロロと澄んだ声で鳴いた。あれは…あの黒いへびを松男に向けて落としたトンビかもしれない。そうだ、きっとそうだと思うと、急に強い友だちが一人できたような気持ちになって、嬉しさがやたら腹の底からこみあげた。
「おーい、おーい」
 孝平は右腕を頭の上で、ぐるぐると夢中で回した。すると、トンビはもう一度ピーヒョロロと応えるように鳴いて、きれいな輪を描き大台山の方へと強く羽ばたいて行った。
 腹が減っているのに気がついた。せっかく母に握ってもらった昼のおにぎりを、松男に食べられていたのを思うと猛烈に腹がたった。あんなことなら二人が菓子をほお張っている間に、食べてしまえばよかった。しかしそれはあとのまつりで、おにぎりをだまって食べたことに文句を言ったら、また蹴飛ばされるのが落ちだった。でもそんなことは、もうどうでもよくなっていた。
 翌朝になると昨日の勢いがどこへ行ったのか、松男の顔を思い浮かべると、遊びを断る言葉がのどから出ないような気がする。朝ごはんを食べて家を出ると、気の重さで足が進まない。通学路の途中にある農家の垣根から柿の木を見上げていれば、もしやあのトンビが飛んできて励ましてくれるのではないかと、空を仰いだ。でもそんなことはあるはずがない。わかっていながら頼ろうとする自分が情けなかった。せっかくトンビが力を貸してくれたのにこんなざまではと、孝平はしばらくいた柿の木の前から離れて歩き始めた。と、その時、手前の土手の裏からバサバサッと鋭い羽音がしてカラスが飛び立った。孝平はぎくりとして身構えた。しかし舞い上がるとそれはカラスの羽ばたきとは違い、しなやかでトンビのそれと分かった。昨日のトンビよりははるかに小さかったが、飛び立つ鋭い羽ばたきに、孝平は頭を強く叩かれたように目が覚めた。
 いつも通学路で待っている次郎の姿がなかった。考えてみれば、今まで登校時にこれほど道草をしたことがない。遅刻でもしたら恥ずかしいし、おしゃべり真紀に何を言われるか、わかったものじゃない。それと松男が何かを勘ぐって、また悪どいことをしてくるのも目に見えている。たぶん、次郎はもう待ち切れなくて先に行ったのだろう。
 孝平は走った。走れば学校に間に合うとは思ったが、それよりも走ることで、せっかく戻った強い気持を持ち続けたかった。孝平は背中のカバンをゆらしながら、通学路を懸命に走った。
 学校に着き、下駄箱に靴を放りこんで教室にかけこむと、まだ先生はきていなかった。おお、間に合ったと一番前の席につき息を整えていると、次郎がうしろから肩に手をかけてきた。
「きたのか」
 眉をあげて目を白黒させた。
次郎は昨日のことがあって、身体のどこかに痛みが出たのだろうかと思ったらしい。
「うん、寝坊した」
 何でもなかったように答えた。松男が一番うしろの席から何事かと、近づいてくるのが気がかりで仕方なかった。すると始業のベルがすぐに鳴り響いて、孝平はほっとした。
 午前の授業が終わり、昼食になった。これがすむとたぶん松男が遊び仲間を集めて、今度の日曜日のことを決めるに違いない。そう思うと、持ち続けていた強い気持ちが、またしおれそうになる。弁当の箸が進まない。
周りが食事を終えて、ガタガタと席を立ち始める。さっそく教室を出て行く者や、そのまま友だち同士でおしゃべりをする者。孝平が箸を置き、弁当のフタをしてカバンにしまいこもうとした時、
「おい、今日はどうしたんだ」
 うしろから頭が揺れるほどに肩をゆする松男がきていた。
「何も」
 孝平は無視して席を立ち、さっさと教室を出た。一番奥にある教室から階段を下りて、廊下を早足で体育館までくると、うしろから足音がついてくる。松男か遊び仲間のだれかだろうと思ったが、振り向く気はなかった。知らぬふりをしてグランドに下りる。
 何人かがテニスボールで、三角ベースの野球をやっているのを横目に、鉄棒のある方に行く。どうせ殴られるのなら人目につきたくなかった。グランドの西側には、立ち並ぶ松の木が日陰を作っている。そこまで足を運ぶと孝平は腰を下ろして、くるであろう松男たちを待った。
「おい、なんで逃げるんだ」
 松男は言うなり足蹴にした。もう慣れっこになっている孝平は、衝撃をやわらげる受けが身についていた。松男は胸ぐらをつかんで引きずり上げると、頬に平手打ちを一発くらわせた。
「いいか、日曜日はいつもの所だぞ。わかってるな」
 目をつり上げた。
「行けない」
 孝平は眉根を寄せてはっきりと言った。
 なにか、今までの自分がウソのようだった。
「なんだとぉ」
 松男は思ってもみない返事にぽかんとした。
「家の用事があるから行けない」
 でまかせだった。
「ふん」
 鼻先でそう言うと大きな声で、「ウソじゃねえのかよ」と言いながら松男は意外にも背をむけた。遊び仲間も、「ウソだ、ウソだ」と同じことを言って、松男のうしろから引き揚げて行く。
 青い空だけが知っているさ。孝平は松の木にもたれて見上げた。
 下校になり、通学路を次郎と肩を並べて歩く。いつもと同じことなのに、何か気まずさが口を重くする。
「お前、本当に行けないのか」
 次郎がようやく口を開く。
「うん、特別な用事ができた」
 孝平は本当ともウソともつかぬ返事をした。
「ウソだと分かったらひどい目にあうぞ。あの松男のことだから、何をするか分かったもんじゃないからなあ」
 次郎もウソだと思っているらしく、前を見つめたまま、ぼそぼそと言った。
 そして日曜日。
 孝平は朝ごはんをすますと、家業であるせんべい焼きの下準備を、言われもしないのに手早くこなした。そしてみんなと町へ遊びに行くから、昼ごはんはいらないと母に言い、ひとり始発になる「谷山」バス停に向かった。家からは北の方向にあって、学校とは反対になる。十時半のバスにした。いつも松男たちと乗るのは、「学校前」からで九時四十分だから、用心をして時間と場所を変えた。今日はどこで何をして遊んでいるのかは知らないけれど、いつもの所と言いながら、同じバスに乗り合わせないとも限らない。遊び仲間やおしゃべり真紀が、どこかで見てはしないかと、歩いていても気が気でない。
 待ち並んでいる人たちが十人あまりいた。注意深く見ると、大人に混じって何人かの子供たちもいる。足をゆるめながら目をこらすと、みんな親子連れの低学年でまずは安心する。
 まもなく折り返しの始発バスが土埃を上げてきた。
 並んでいた十数人が、切符を切ってもらいながら順序よく座席に着くと、バスは時間通りに発車した。ひょっとして、次の「学校前」から松男たちが乗ってくるのではないかと、身を固くして外の流れる景色に目をやる。もし、もしかして、そういうことになったら、どんな言い訳をしようかとあれこれ考える。
 考えがつかないうちに車掌の、「次は学校前」のアナウンスが入る。バスはスピードをゆるめて停留所に近づいて行く。左側の席にいる孝平の目には並んでいる数人が見える。松男は人一倍大きい図体だから、すぐにわかるはずだ。目をこらして見ても、それらしき小学生はいないようだ。それでも入口から乗り込んでくる人たちからは目を離さなかった。
 胸の底から息を吐くと同時にバスは発車した。それからまだ三つあるバス停に、同じような思いをしなければならず、尻はずっと落ち着かぬままであった。
 終点の「駅前」は、いつもの何倍ほども遠く感じた。
 バスから降りると、車の往来が激しい道路の向こう側にある、三階建ての大きな店が目的の『大丸』だ。車の途切れるのを待って素早く横断する。この町の一番大きな店で、小さな店には置いていない、上等な物や珍しい物が数えきれないほど並べてある。そういつもこれる所ではないので下から上の階まで、ていねいに見て歩きたいのだけれど、今日ははっきりとした目的の物があって、それを買って早く帰らなければならない。
 目的の物が置いてあるのは、三階であることに間違いなかった。孝平は一目散に階段へ向かった。
学用品や、子供服、おもちゃなどがきれいに並べてある階だ。入口から真っ先に目的の物をと足を向けた時、
「あ!」
 心臓が止まりそうになった。
 松男たちが、すぐ目の前をぞろぞろと歩いているではないか。何ということだ。(落ち着け、落ち着け)。鳥肌を立てて孝平は心の中で繰り返した。今ここにいるということは、たぶん朝早いバスできているはずだ。ということは、もうそろそろ帰るだろう。見れば松男は小さな青い包みを手にしている。その他に二人が同じ色の包みを脇に抱えている。通路いっぱいになりながら、何が面白いのか、口をあけて笑っている。孝平は考えた。まだ何も手にしていない仲間たちがいる。みんなが買い物をするとなれば、まだこの三階にしばらくいるということになるだろう。この場所で同じようにいれば、仲間の誰かに見つかってとんでもないことになる。
 孝平はひとまず二階に下りることにした。階段はここと反対側の奥にもう一か所あるが、おそらくこちらの方を利用するはずだ。ここで下りてくるのを見届けよう。そうすれば松男たちは、もう帰るだけのはずだから、落ち着いて自分は目的の物を探すことができる。そう決めると孝平は、階段の入口が見える、商品棚の陰に身を置いた。   
 どれ程経っただろうか。女性店員が不審そうな顔をして側を通るたびに、孝平は目を伏せたりあらぬ方を向いたりして待ち続けた。
 やはり松男を先頭にして、この階段を嬉しそうに連なって下りてくる。そのまま一階の階段へ姿がなくなると孝平はすぐさまあとを追った。まだ安心できない。一階には子供が興味のありそうなものは無いはずだけれど、何かを思い出して三階へ戻ってくることも考えられる。バスに乗るまでを見届けなければ、とても安心してはいられない。
バスの停留所は道路を挟んだ向こう側にあって、この店のどの窓からでもよく見える。孝平は松男たちが店を出るのを確かめると二階へと急いだ。車の往き来が多いらしく、まだ道路を渡っていない。大きなガラス窓越しにバスの留まっているのが見える。「早く渡れ、早く」、と孝平は声を小さくして、下にいる遊び仲間たちの、鈍い動作をじれったく見遣って待ち続けた。
 松男が先になって、皆がようやく駆け込むと、銀色のバスは待っていたかのように発車した。鈍い光を反射して遠ざかって行くと、孝平は安堵の息を大きく吐いた。
 手すりをつかんでゆっくりと階段を上がり、おもちゃの並んでいる場所へとまっすぐ向かう。さっきまでここにいた松男たちは、いったい何を買ったのだろうかと思いながら、目ざす物を探す。
「あった」
 思わず太い声が出た。
 それはゴムでできている「黒いへび」であった。ケースの中には色も大きさも、さまざまがあって孝平は、できるだけ黒いものをその中から選んだ。短いけれど太くて赤い口をパックリとあけている、まるで本物のようなものを見つけた。値段もためていた駄賃でなんとか買える。これはどこから見ても本物だと、ふくらんだポケットからはみ出た包みを、孝平は大切そうに上から何度も撫でた。
 バスの中で座席にもたれながら、これからのことを考えると、想像がどこまでも広がり、気持ちが高ぶった。
 家に帰ると作戦を練った。いつ、どこで、どのようにこれを松男の目の前に出せば、「キャウォー」とあのときのように、今まで聞いたこともない叫び声を揚げるのだろうか。そしてどれくらい目をむいて、どれほど早く逃げるだろうか。いろいろ考えて、何度も何度も練習すると、そのうちに身体がむずかゆくなって、楽しくて、嬉しくて体中の血が踊った。
夜が更けるまで孝平は、冷たい黒いへびを離さなかった。布団に入っても、ざらりとする胴体を握り締めたり、手のひらで撫でたりして眠りにつこうとするが、身体が火照って、いつまでたっても眠くならなかった。
 手順はすっかり頭にしみこんで、あとは松男がいつ自分の前にきて、言いがかりをつけてくるかだけだった。ここまできたら間違いは絶対にできないし、許されない。

 月・火・水曜と何ごともなく過ぎた。
 木曜の朝、孝平は今日も思いをこめて、ポケットに黒いへびを忍ばせた。昼食後の休憩になっても何事もおきず、気持ちが持ち続けられなくなりそうだ。    
 午後の授業も終えて放課になり、次郎のあとから教室を出ようとした時、いつの間に忍び寄っていたのか、松男が肩に腕をまわしてきた。そのまま引きずられるように、教室の隅へ押しつけられる。
「な、金貸してくれ」
 何をされるのかと思ったら、一番いやなことを言ってきた。
「今日は持っていない」
 孝平はポケットに手をかけようとしてやめた。持っていないのにポケットに手を入れるのは不自然だ。そして、困ったように身体をよじらせた。
「それじゃあポケットを調べる」、と言うのを待った。タイミングをはかる。が、松男は、
「明日、絶対持ってこい、いいな」
 と、すごんで頬を叩くと、あっという間に教室から出て行った。
 身体が強ばったままだった。しかしこれは大きなチャンスを松男のほうからくれたことになった。明日持ってこいと言ったからには明日やることになる。今まで考えていた手順は考えなくていい。松男があのクマみたいな手を広げてこっちへのばしてきた時にやるのだ。だがこれを失敗すると、今まで以上の仕打ちを受けることになる。ここまでくればやるしかない。孝平は思わず武者震いをした。
 これまで何度かお金をせびられて、そのたびに家の財布から黙って持ち出してきたのが当たり前になっていた。家業の手伝いでもらってためた駄賃は黒いへびに使ってしまってほとんどない。なくたっていい。お金のかわりに黒いへびがある。
 次郎の姿が小さくなっていた。走りたいけれど、距離が縮まらぬままで歩き続ける。ただ明日のことだけを考える。
 翌朝、次郎が顔をこちらへ向けたままで待っていた。昨日のことが気になっていたのかもしれない。
「昨日、どうしたんだ。やられたのか」
 頭から足元まで見つめると、心配そうに顔をのぞいた。
「いや、べつに」
 誰にも言うつもりはなかった。次郎にも同じだった。これは自分と松男の戦いだ。自分一人で解決することだと、初めから決めていたことだ。今まで誰が自分のことをかばってくれた。だれが助けてくれた。次郎やおしゃべり真紀のように、痛かっただろう、泣くなよと側によって、なぐさめてくれたかもしれない。でもそんなことなんかは、松男にとってみれば屁のカッパなのだ。だからこそ今、自分が一人で松男に立ち向かおうとしているのだ。孝平はこみ上げてくるものをこらえながら、
「行こう、おくれるとまずいぞ」
 明るく言った。
 勉強どころでない授業がただ進んで昼になる。孝平は弁当をかきこむと松男の気を引くように、一番早く教室を出た。お金を渡すのは、いつも校庭の植え込みの中なのだ。松男より先に構える必要があった。薄暗い体育館からまっすぐ出口へ足を速める。足音は自分のものだけだ。
 秋になったばかりの陽射しが、誰もいない校庭にあふれている。左に方向を変えて、校舎の窓から死角になる植え込みの裏に回り込んで松男を待つ。先にきたのは、昨日寝る前に考えた作戦のうちで、次にやることの動作を確かめるためには、少しでも合間がほしかった。そうすれば一番大事な気持の余裕を持つことができる。
 ポケットに手を入れて感触を確かめる。中でとぐろを巻いている、ざらりとした黒いへびの、一番細い部分を握って松男がくるのを待つ。
「きた」
 孝平は少しだけ斜めに構えて、右足の裏に体重を乗せた。
 正面から上目で松男をむかえ入れる。のっしのっしと近づいてくる図体はまるでクマだ。孝平はうつむき、ポケットに入れた手から、黒いへびに気持ちをこめる。
「おう、持ってきたか」
 分厚い右手が下から持ち上がって、太い五本の指がスローモーションで広がる。
「ええっ?」、と孝平はのどをしぼり、
「松男、その手は何のこと」、と言葉には出さないが、眉を上げて松男の光る目を不審そうにのぞく。
 松男のぎょろ目が、きょとんとするその時を待っていた孝平は、やおらポケットから黒いへびをずるりと引き上げ、松男の手のひらに、「ほら」と乗せて小刻みにふるわせた。赤い口が開いているそれは、魂がこめられたかのように頭も胴も見事にくねった。
 松男の黒眼が、何だ?と広げた手のひらへ向くと同時に、「キャウォー」と、とんでもない叫びが校庭にこだました。目を開き放し、鼻の穴を上に向かせ、上唇をめくりあげ、一メートルほども跳び上がって着地すると、松男は右腕を抜けんばかりに振り回し、脱兎のごとく走り去った。
 植え込みの隙間から土煙を残して、校門から外へ小さくなって行く松男を目にして、孝平は破裂しそうだった心臓の鼓動が、急激に落ち着いていくのを感じていた。
 陽射しの中の校庭で遊んでいる生徒たちがざわめいている。
 終わったのだと孝平は空を見上げた。もしやあのトンビが上空で見てくれていれば、手を振って声を限りに叫びたかった。でも そこには白いひと固まりの雲が、ただのんびりと横たわっているだけだった。
 明日からのことは考えまいー。
 孝平はポケットの中に入れたゴムの黒い蛇を、ぎゅっと握りしめて植え込みから出た。
「何かあったの」
 どこにいたのか、走り寄ってきたおしゃべり真紀が、息をはずませ、くるりとした目をさかんにしばたかせた。
真紀は自分のことを心配してくれるので嫌いではないがうるさすぎる。孝平は、「ああっ、見ろ赤いケムシが」、とキンモクセイを指し、そこで口をつぐんだ。そして逃げるように、遊んでいる生徒たちの間を器用に縫って、校舎の方へと横切った。 (了)