「声かけしりごみ症」 真伏善人

 街角や娯楽施設やショッピングモールなどで知人友人を見つけると、つい声をかけてしまいたくなるのが一般的な人間関係というものであろうが、どうにも苦手だ。月にどれほどの機会もないのだが、自分がかけられてどきりとするせいか、いざかけようとしてなかなかできない。相手の視界にないところからなので、遠からず近寄りすぎずと、このタイミングがまるでむずかしい。であるからそんな場面では可能な限り逃げることにしている。
 特別な用などはありもしないのだから許される範囲だと、勝手に思っているのが現状だ。でも本当のことを白状すると、恥ずかしながらこんな具合なのだ。それはもともと声が細くて低いうえに、上滑りの発音なので、「やあやあ」までは何とかいいのだが、そのあとがいけない。いつものことで、言葉の整理ができていないうち軽く口を開く癖が出るものだから要領を得ない。その上、草書のようなしゃべりかたが重なって、ちゃんとした日本語になっておらず、周りの雑音の中で相手に眉をひそめられたり、聞き返されたり、あるいは誤解をされて眉を上げられたりすることが、ままあるのだ。
 家の中では翻訳能力のある者ばかりで、まあしのげているのだが、玄関を一歩踏み出してから、そういった場面が発生すると誤解されたまま話が進行することがあって、修正するのにかなりのエネルギーが必要になるのだ。こんなことであるから、声をかけることは避けたいばかりなのである。
 一体全体、自分の声の発音装置はどうしたものかと、その過程をいっぺん探ってみなければと偽りなく思った。まず頭骨の中に納まっている脳の塊が、声をかけようとしている相手を観察して、この声音をこのレベルで舌と唇を震わせて発せよとの指令を出すのであろうが、受け取る側としては命令であるから従わなければならない。ここまではいいのだが、残念ながら能力内にひねくれた貧しい愚図同士のせめぎ合いがあった。そいつ等が指令をゆがめたり分断したりしていると考えられるのである。
 たとえば喉から声を出そうとしても、肺から出される空気振動がそのためにおそまつになったりして、舌もくちびるも相応の働きしかしないのだ。ざっと言えばこんなことになるだろうか。だからしくじった母音みたいな空しい発音になるばかりで、はなはだ聞き取りにくくなるのであろう。例えば、「あのお」が「ふぁほお」で聞き様によっては「あほう」と取られかねない。それで眉間にしわでも寄せられたりしたらもうアウトだ。
 なおさらのことだが、普段の対面であっても緊張がマックス状態になる異性に対してとなると、うしろから声をかけることなど到底できず、存在を知ってもらいたい時には、まず追いつき何食わぬ顔で追い越してから声をかけて貰う方に回ることにしている。下手に声をかけて、そのあとがしどろもどろになれば元も子もない。異性の前で赤面冷や汗となるのはどうしたって御免こうむりたい。こんな体質になったのはいつごろからだろうかと、恨みつつ振り返ってもきっかけとなった明からな事柄の記憶はない。
 思い起こすことができるのは十歳に満たないころからの人見知りだ。言いかえれば引っ込み思案というやつだろう。ということは持って生まれた内向的体質としか言いようがない。これを改善しようとすれば自助努力しかなく、赤っ恥をかいてでもこつこつと階段を踏み上がるしかないのだろうか。しかし、これは恥のかきっ放しや上塗りともなりかねず、今さら素っ裸で冬の街を歩くような真似はしたくない。
 詰まるところは、やはり「一般的な」とは足並みを揃えられない希薄な人間関係の中に、自分の間尺でいるほかない。生まれついた「引っ込み思案」イコール「声かけしりごみ症」でも決して迷惑になるわけではないのだからまあいいじゃないか。