掌編小説「青春のかけら」

  
 一本の可愛いネックレス。それには、小さな黒い薔薇が飾られている。或る日、それが突然に俺のデスクの引き出しの奥から出て来た。正直なところ、俺はやや面食らった。
「……彼女にプレゼントするのかい。堅物で評判の君にそんな女性がいたなんて、ちょっと驚きだな」
 隣のデスクにいる年配の同僚が、驚いている俺を見て茶化すような口調で声をかけてきたが俺は、それを黙殺した。オフィスの壁掛け時計に視線を移した。午後四時五十分だ。仕事の手を休めて、頬杖をつき、しばらくの間、忘れていた昔の記憶を手繰り寄せてみる。しだいにその頃の想い出がよみがえり始めた。……そうか。あの時のネックレスだ。そうそう、あの懐かしい埠頭はまだあそこにあるのだろうか。あの夜の埠頭で…。
 これは何としても確かめずにはおられない。俺はあわてたようにパソコンのデータをセーブして、散乱した書類を整理すると帰り支度を始めた。それをみて、また隣の同僚がしたり顔で言ってきた。
「ふむふむ、これからお楽しみのデートってわけだ。美人の彼女に嫌われないように、せいぜいサービスして喜ばせてやるんだな」
「ええ、美人の彼女なら、大勢の綺麗どころをいつでも喜んで先輩に紹介して差し上げますよ。今日は急用を思いついたのでこれで失礼いたします。そうだ、この前に行った居酒屋のクーポン券三枚、まだ使えますから、ぜひ今度の飲み会でパッと派手に行きましょうよ」
 あっけに取られて呆然とした同僚をあとに残して、俺はやや急ぎ足でオフィスを出た。ちいさな薔薇のネックレスは、俺が入れた上着の胸ポケットの中でコトコトと小刻みに揺れ出していた。
 いつの間にか、夜は訪れていた。波止場に近い終着駅で、ローカル線の電車を降りた俺は人気のないアスファルトのホームに立ち、思わずコートのえりを上げた。やけに肌寒い。おだやかな春の到来はまだまだ遠いのだろうか。あたりは一面の夜景が広がって、遠くに繁華街のイルミネーションがチカチカとして暗い海面に浮かんでいる。人影の途絶えた薄暗い駅前の商店街を通り抜けて、潮風が迫ってくる夜の埠頭までたどり着いた。遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。

 そうだ、あの夜もこんな具合だった。ここであの娘と偶然に出会ったのだ。俺はまだ大学生で、休み明けのコンパで酒を飲み明かした揚げ句に、皆と別れてふらりとこの埠頭まで出て来た。汗ばむような夏の一夜であった。またひとくち、缶ビールを飲んだ。ビールの苦味がなんともいえずに、渇いた俺のこころにじんわりと沁みてくる。とっくの昔に、俺の足取りはかなり乱れていた。
「……へへへっ、俺ときたら、あっさりとあいつに振られちまった。なんて恥さらしなコンパなんだ。うーん、これで俺の青春時代も、一巻の終わりってやつかよ。泣かせるぜ」
 以前から、とことんまで恋い焦がれていた同級生の沙織に、今夜こそは告白しようと、記念の贈り物まで用意してきた俺だったが、さて実際にコンパの最中で彼女の隣に陣取っては、きちんと正座して俺の正直な気持ちを告げてはみたものの、返ってきたのはしばらくの沈黙と、沙織のよく通る笑い声だった。あなたとは、いつまでも素敵な友達でいましょうね、と沙織はやんわりと言葉を返してきたが、頭が真っ白になった俺には言うべき言葉がなかった。それで何やらモゴモゴと口ごもり、俺はよろめいて席を立ち、皆の不審そうな視線を一身に浴びながら前後不覚で居酒屋を出てしまった。さっきまで飲んでいた缶ビールは、まだ片手に握っていた。そいつをちびりちびりと飲んで、俺は昂ぶった感情を抑えきれずにひたすら海へと向かっていた。真夜中の海なら、やりきれないこの俺を何とか受け止めてくれるだろう。夜の風とはいうものの、真夏のせいか、かなり生温かい。ムッとする。いつの間にか、俺は岸壁の近くまで来ていることに気づいた。
 おやっと思わず眼を凝らすと、その岸壁に人影がある。こんな時間にいったい誰だろう。詮索好きな俺は、それを確かめずにはおられなかった。そして 少女は夜の海を静かに眺めながら岸壁にすわっていた。ショート・カットの髪は赤毛で、龍のデザインを凝らした派手な黒い革ジャンを着ていた。むかし流行の「サイケ」な雰囲気がした。いくらか酒を飲んでいたからか、滑らかに俺の声が口をついて出た。
「ねえ、彼女、こんなところで何かの悩み事かい。人に言えないようなつらい話ならこの俺が聞いてやってもいいんだぜ。遠慮せずに話してごらんよ」
 びっくりしたように、少女が俺を振り向いた。そして少し寂しげに彼女は微笑んだ。その笑顔はまるで子猫のような印象だった。彼女が言った。
「あたし、今日まで売れないロックバンドのボーカルやってたの。でもさっき、仲間と別れて逃げてきたところ」
「逃げてきたって、何か悪いことでもしたのかい。それとも」
「口喧嘩しちゃって。だって、新曲を作詞した留美子が、いきなりボーカルをさせろって無理を言い出して、ほかの仲間も彼女に同調するし、何だか気分が悪くなってきて、それで…」
「何ていう名前のバンドなんだい。ひょっとして俺も聴いたことあったかな」
「アジアン・コブラ。もしかして、おにいさん、若い刑事さんか、警察の人なの?」
「ははっ、そんな怪しい人間じゃないから、安心しなよ。俺、いま、大学のコンパの帰り。実は、俺も仲間から逃げてきたところなんだ。君と同じさ」
「それじゃあ、おにいさんもバンドやってるの?」
 俺は、吹き出しそうになるのを抑えて、やっとまじめな表情で答えた。
「そうじゃないよ。ついさっき、コンパで同級生の女の子に告白して、みごとにフラれたばかりなんだ。それでやけになって飛び出してきたら、急に海を見たくなってさ」
「ふーん、そうなんだ」
 少女はじっと俺の瞳を覗き込んだ。

 しばらくして彼女が言った。
「おにいさんの眼、正直そうだから信じてあげる。あたし、明美っていうの」
「俺は、あきら。ははっ、よく似た名前だな。それに、フラレた二人組みだぜ」
 俺たちは声を上げて笑い合った。そして沈黙の後に、少女が小声で言った。
「でも、おにいさん、結構、ハンサムだよ。どこかタレントの田原俊彦にも似てる感じだし」
 俺はカラカラと笑って、
「あいつ、今、流行ってるもんな。それじゃあ、ついでに明美ちゃんが俺の彼女になってくれるのかよ」
 すると明美は首を振って、
「あたしの結婚相手は、ハンサムじゃなくても大金持ちの御令息って決めてるんだ。だって、一生、食っていくのに困らないって言うじゃない。そんな人いたら、あたしにぜひ紹介してよ。大サービスしちゃうから」
「この俺が、その後令息かもしれないぜ、それなら俺と結婚するかい」
 明美はニヤニヤと笑みを浮かべている。それで俺は困ってしまって、
「わかった、わかった、捜しておくよ。ううむ、それにしても、今夜は暑いなあ」
 明美はじっと暗い海を見つめていたが、ゆっくりとうなづくと、
「……夏の海って、気持ちいいかな。おにいさんなら助けてくれる?」
 と言うが早いか、明美は、あっという間に岸壁からすべり落ちた。ザブンと激しく波しぶきが上がった。海の中から、明美の甲高い悲鳴が上がった。
「た、助けて。あ、あたし、やっぱり、泳げない、泳げない」
 ためらう暇などなかった。ザッと勢いよく、そのまま俺は、夜の海にダイブしていた。真っ暗な視界から、やっと海面まで浮上した時には、もう明美の姿はなかった。しまった、沈んだか。俺が、そう観念した頃に、海の少し遠くからカラカラと明るい笑い声がした。
「へへっ、嘘だもんねー、あたし、泳ぐの、むかしから上手だもん。だましちゃった」
 明美は革ジャン姿のままで、軽々と暗い水の中をすいすい平泳ぎしている。実に楽しげに泳いでいた。人の気も知らないでと、俺は呆れながら、ずぶ濡れのままで岸壁を這い上がった。そのあとを続いて、明美も愉快そうに上がってきた。

 その時、俺たちの頭の上から、怒鳴るような大声が響いてきた。
「君たち、これはいったい何の騒ぎだね。こんな夜遅くにもなって」
 岸壁を上がると、近くに赤ランプが点滅するパトカーが停められて、眼の前では大柄で年配の警察官のおじさんが、俺たちをジロリとにらんでいた。いきなりに明美が言った。
「これは水泳大会の、夜間練習でありまーす」
 それに合わせて俺も、
「パトロールご苦労様でありまーす」
 それから俺たちは、こっぴどく、お巡りさんのおじさんに叱られていた。たどたどしい俺たちの説明で何とか事情を理解してもらって、
 やがてお巡りさんを乗せたパトカーは静かに波止場を去っていった。それを見送って明美がひそひそと言った。
「すごい剣幕だったね、あのお巡りさん」
「まるで屋根の鬼瓦みたいな顔してたぜ。恐い、恐い」
 また二人で大笑いした。俺たちは濡れた上着を脱ぐと、水気をぎゅっと絞ってからパタパタと振り切って着替え直した。
 岸壁に二人並んでから、明美が、吹っ切れたような様子で俺にぽつんと告げた。
「…あたし、もういちど、バンドやってみる。仲間とも仲直りする。今度こそ、本気でがんばんなきゃね。今夜は楽しい思い出を、本当にありがとう。あたし、とってもうれしかった。そうだ、よかったら、これ、あたしからのプレゼントにして」
 そういうと、明美は胸に下げた細いネックレスをはずして、俺の手に預けた。黒い薔薇のネックレスだった。それが遠くからの夜景の灯に
 照らされて白っぽくキラキラ輝いていた。明美が泣きそうな声で言った。
「それ、安物だけど、今まで、とっても大事にしてたの、でも」
 駆け出す足音がした。びっくりして俺が振り向くと、もうそこに、明美の姿はどこにもなかった。闇のなかを、ただ穏やかな海の波音だけが渦巻くように流れていた。

 ここだ。間違いない。あの日の埠頭だ。あの夜に明美と別れた埠頭…。あれからいったい何年たったのだろうか。もはや学生とは遠くかけ離れた、しがないサラリーマンの俺には現在では妻も子もいる。もうすでに俺一人の身体ではなくなっている。息苦しい満員の通勤電車と山積みになった報告書と容赦ない上司の視線。そして時として、どこか遠くへ行ってしまいたくなるような衝動。俺は思わず舌打ちをしようとしたが、突然、くしゃみの音が響いて驚いた。暗い埠頭に小さな人影があった。赤毛に黒い革ジャンの少女の背中をそこに見つけた俺は、ためらいなく声をかけてしまった。
「あ、明美ちゃん、俺だよ」
 少女が振り向いた。まったくの別人だった。少女が怪訝な表情で言った。
「おじさん、あたしに何か言った?」
 おじさんか。俺もそう呼ばれる歳になったわけなんだな。気持ちだけは若いくせになあ。厄介だ…。そうさ。あの子が、あの年のままで、ここにいるわけがない。別人だって分かりきってる筈なのに俺も間が抜けている。笑わせるぜ。それで俺が言った。
「いや、何でもないよ。悪かった」
 少女は不審人物とでも遭遇したように、チラリと俺を一瞥してどこかへ姿を消した。
 それにしても夜の風は冷たく強い。潮の香りがやけに鼻をつく。俺はひとり、暗い岸壁のふちで、遠い海の向こうに想いを馳せて、しばらく立ちつくしていた。そしていつの間にか、俺は、ぼんやりとある考えに至っていた。
 ―うむ、きっぱりと決別するなら今かもしれない。逆に、たとえ決別するべきではないとしても、これで本当の想い出に変えられるかもしれないのだから。そうだ、せっかくここまでやって来たのだ。俺は自分に言い聞かせるようにうなづいて、上着の胸ポケットからネックレスをまさぐって取り出した。飾りつけの黒い薔薇がキラっと輝きながら、そしてどこか俺を励ますように小さくユラユラと揺れていた。
 ―ありがとう。俺はネックレスを乗せた片手のひらを差し出すと、そのまま静かに海へ落とした。音も立てないまま、ネックレスは深い海の底へと沈んでいった。ポコポコと小さな泡が立った。そしてその刹那に俺の青春がふっと浮かんでは、あっという間に泡のように弾けて消えた。それはさっきまでの真冬の暗闇に戻っていた。
 さあ、現実に戻ろう。未練が出ないように俺は自分を懸命にせかしつつ、懐かしい埠頭を後にして去った…。

 タイミングの悪い夜行電車を乗り継いで、ようやく俺は都電の乗換え口までたどり着いた。もう夕食の時間など、とっくの前に過ぎている。帰宅が遅れた時の妻と息子の姿が俺の眼に浮かぶ。今夜も叱られるかな。思わず、苦笑いが漏れた。 しかし、こんな時間だというのに、あたりは家路を急ぐ乗客たちで、まだ人だかりの最中だった。あちらこちらで、二、三人の駅員たちも忙しそうに客たちと苦情の対応に追われている。俺は財布の中から、いつもの定期券を抜き出そうとして、 ふと、かたわらの自販機コーナーに眼が入った。三台が設置された中で、中央の古ぼけた自販機に並んだ飲料水のひとつに、俺は、はっとして自分の眼を疑った。それは百円のチェリオ・ドリンクだった。これは何十年ぶりの再会だろう。
 子供時代に駄菓子屋へ行っては、よくおもちゃで遊びながら無我夢中で飲んだものだ。それにしても、俺が毎日、通いなれた駅だというのに、なぜ、今までこの自販機に気づかなかったのだろう。まあ、どうでもいいか。俺は小銭を入れるのも、もどかしく、ゴトンと落ちてきた缶ジュースの栓をひらく。一気に飲み干すと、懐かしくて爽やかな喉ごし。子供の時と変わらない味わいだった。そして勢いよく空き缶をゴミ箱へ捨てる。うん、何だか元気が出てきたな。
「さあて、自宅まで駆け足でもするか」
 遠くから、俺が乗る最終電車の発車のアナウンスが朗々と流れてきた。まっしぐらに走り出して行く俺。いつのまにか、煌めく夜の明かりが、にじんだ俺の眼にぼやけて見えてきた…。 (了)