掌編小説「或る一日」

  昨晩から流れたままのテレビ画面に、カラフルな照明の収録スタジオで、早朝のテレビ・ショッピングの放映をしていた。赤いレオタードを着た、ひとりの筋肉隆々なアメリカ人男性のトレーナーが、巨大なトレーニング・マシンの「ツイスト」を両手に抱えて、ぐいぐいと腹筋を鍛えているところだった。バック・ダンサーとともに男性トレーナーが身体を揺らせながら、にっこり笑うと、実に健康的な印象を受ける。一緒に流れているダンス・ミュージックも軽快に弾んでいた。やがて商品申し込みのフリーダイヤルを、女性アナウンサーが爽やかな声で伝え始めた。
  汚れの目立った薄い毛布を無意識に片手で振り払うと、荒々しげに俊郎は眼を覚ました。どうも、いやな夢を見たようだ。それにしても何という寝苦しい暑さなんだ。俊郎は、もぞもぞと布団から這い出ると、枕のそばに置いた、くしゃくしゃの小箱から一本のタバコを引き抜いて旨そうに吸った。やがて、あたりにタバコの煙が立ち込めて、畳敷きのひと間は白い「もや」で包まれていく。片隅の流し台や、小型冷蔵庫や、畳に置いた座卓の姿がやや霞んでいく。そして二本目のタバコに手を伸ばしたとたんに、俊郎は急激な尿意を催した。こいつはやばい、と俊郎は、びっしょりと汗まみれのパジャマ着のままで玄関わきのトイレへと向かった。ややもして用を済ませた俊郎は、ひび割れした洗面台の前で、よく手入れした鏡をややこわごわと覗き込む。
 ああ、また少し顔の小じわが増えてきたような気がする。歳をとったって証拠だな。泣かせるねえ。

 テレビのニュース番組は最新情報を伝えている真面目そうな若い男性のアナウンサーの姿が消えると、大きく日本地図が映し出されて天気予報のコーナーに変わった。「今日は全国的に晴れの空模様となるでしょう。ただ猛暑日が続きますので、熱中症対策には充分にお気をつけください」
  俊郎は、部屋のガラス窓にカーテンはなく、堅く閉ざされているのに眼を向けてから、いつの間にか空腹になっている自分にようやく気づいて、やや情けない顔になっていた「まだ何か、残っていたかなあ…」と少し不安な気持ちで小型冷蔵庫の中をごそごそと探ってみる。
「まるで、現在の俺、ゴキブリの気分だな。どれどれ、ああ、あった、あった」冷えた焼き鳥の缶詰をひとつ、見つけると、それを座卓の上でパカンとあけて、急いで口へとかき込んでしまう。「あとはこれだな」と息まいた調子で座卓に空のコップを置いてから、生たまごをポンと割って入れ、そのまま、グイと飲み込む。これで朝食をすませた。

  テレビでは新型スマート・フォンのコマーシャル。舞台は江戸。水戸黄門の一行が立ちはだかって、印籠ならぬ、スマホを取り出しては「さても、これが眼に入らぬか」と、悪党奉行に土下座させるシーン。俊郎は「結構、笑えるねえ」と笑みを浮かべた。BGMでは、現在流行のポップス「君と歩んで」の曲が高らかに響いて来る。 俊郎は、朝食後のタバコ一服を終えたところである。それでいわゆる無の境地に達した彼は、そのまま、ごろんと布団の上で気持ちよく寝そべる。足もとで絡んでいた雑誌をホイと拾い上げてみる。写真週刊誌「シャッター」だった。
 先週号のそれをひろげて、ページをパラパラと繰った。おやっと最初に彼の眼を引いたのは、人気アイドル、夢緒かなえの不倫騒動の一件だった。写真では、頭を下げて詫びる彼女の記者会見の様子がリアルに写されている。かなえの顔はよく見えないが、泣いているらしいとは察せられる。「しかし、将来ある若者だ。彼女の私生活だっていろいろあるさ。泣かせるねえ」
 俊郎は、ため息をつき、情けない気持ちを拭うように雑誌を放り投げてから、ひと汗かいたパジャマをモゴモゴと脱ぎ、下着姿であぐらを組んだ。今日も今日とて夏日で暑さもひとしおである。
「こいつは夏から、た、た、たまらんなあ」と即興の歌舞伎役者よろしく、しかめ面で両手を広げて大きくポーズを決めてみる。しかし、どうも、見栄えがないのはたぶん俺の練習が足りないからだろうと、勝手に決めてかかる。軽く苦笑いしては、部屋の扇風機のスイッチを入れて、ダイヤルを「強」にセットする。だが、扇風機の風は一向に生ぬるくて気持ち悪い。あの「秋」の御方はいつになれば来てくださるのだろうか。

  テレビはニュース番組。海外諸国の近況が報道され、その生々しい内容は切迫した過激な現実の実態を垣間見せている。うん、うん、と俊郎はうなずいて、その成り行きを真剣に見守っている。どうやら抗議行動の群集が、武器を構えた軍隊に向かって非難の叫びを声高に投石を繰り返しているようだ。やがて、飽きると俊郎はテレビの隣に積んだ文庫本の山に気が向いた。そういえば、最近、読んでないなあ。少しでもがんばってみるかな。その背表紙を下から順に眺めていく。「宮本武蔵」、「忠臣蔵」、「新撰組」等々時代ものが十冊ほど積み上げられている。俊郎は、一番、底にある「宮本武蔵」を取り上げて、またパラパラとページを繰っていく。そしてある登場人物を探してから、その男の台詞を所々に真似てはつぶやいてみる。また時折、首を傾げては、いつしか、我を忘れてしまうと、俊郎はひたすら読書に没頭していた。
 「 野田さーん、宅急便でーす」と、玄関の扉の向こうから呼び声がする。いつしか寝そべっていた俊郎は顔を上げて、荷物を受け取りに行く。二人の間で何やら笑い声が上がり、やがて荷物を手にした俊郎は、部屋に戻るとそれを座卓に置いた。小さくて可愛い段ボール箱だった。送り主の氏名欄から、しばらくの暗中模索の結果、それが旧友からのものだとようやく判明した。

  テレビでは、お昼のバラエティー番組の「笑っていいかも」が、賑やかにスタートしていた。イケメンの若いダンサーたちが舞台を踊り回ってから、いよいよ待望の司会者がニコニコ顔で登場となって、場内が割れんばかりに拍手の嵐となる。
「おおっ、もうそんな時間か。ではでは、と」冷蔵庫の上には、即席のカップ・ラーメンが二個積まれて、いかにも寂しそうに俊郎を待っている。おもむろに冷蔵庫をひらくと、野菜たちを出して綺麗に水洗い。ようやく手鍋でお湯が沸いたころには、ザク切り野菜を盛りつけた手造りラーメンの準備完了である。熱湯を注いで待つこと、三分間。その間、俊郎は、とても嬉しげに鼻歌を鳴らしている。

  テレビでは私営プールのコマーシャルが流れる。都内のウォーターランド「シュプール」だ。人だかりのプールサイドに集合した大勢のビキニ・ギャルたちがセクシーにポーズを決めると、それに合わせて、弾けるように男性の力強いアナウンスが入る。俊郎はニヤニヤとスケベ面でそれをただ眺めている。そして、せわしなくラーメンをすする音が、六畳一間の部屋に広がっていた。「ああ、食った。食った。満腹だ。さあ、食後はこれで『しめ』といきますか」と、またもプカプカとタバコを吸い出す。全身を満たす至福のひと時である。
 それにしても、俊郎は、先刻から窓の向こうがどうも気になって仕方ない。とうとう窓をあけては、外の風景に視線を走らせる。そこには何の変哲もなく広がる、いつも見慣れた住宅街がある。その向こうから、賑やかに聴こえる駅前商店街通りの歌声。しばらく、俊郎は窓辺にもたれて、うっとりとした気分で、その民謡に耳を傾けていた。何だか、子供になってお祭りに来ている感じだな。ほんとうに、たまらんな…

「おい、死にたくなければ、じっとして、そこを動くんじゃねえぞ」
 背後から声がした。俊郎の表情が一瞬にして凍りついた。
「お前がおとなしくしているんなら、決して悪いようにはしねえからな」
 おずおずと身をかがめながら、俊郎は決死の覚悟を決めてゆっくりと後を振り向いた。
 ところが…
 テレビに、悪党らしき白人の男性が背広に中折れ帽という格好で、眼前に立ちすくむブロンドの髪をした若い女性に黒い拳銃を向けている。そしてさらに脅しの台詞が続いていく。
 懐かしい往年の西洋映画が上映されていたのである。気が抜けて呆然とした俊郎はその場でへたり込んだまま、テレビをみつめていたが、はっと気づいて声を出した。「これは確か、あの憧れのボギーが出ていた映画だったよな。その筈、その筈。えーっと、何々とかいうタイトルだったぞ。これはリバイバル上映ってやつか。泣かせるねえ」
 そのあと俊郎は時間がたつのを忘れて、映画の世界に嵌まって、どんどんと魅了されていった。

 壁に架けた四角い時計は、すでに午後五時を回っていた。テレビがついたまま、俊郎はだらしない格好でぐっすりと眠っている。夕刻、アパートの外で、無邪気に、はしゃいでいた子どもたちも大声を上げて駆け去っていく。ハッとして、突き動かされるように俊郎は目覚めた。そのとたんに、座卓に置いた例の小包が、俊郎の眼に飛び込んでくる。さて、中身はなんだろうかと、ざわざわと好奇心が沸き起こる。俊郎は手を伸ばしていた。
 ちいさな銀色のフレームの中に、巨大な倉庫を背景にして旧友と肩を組んで並んだ、若いころの自分の写真があった。肩を組んだ二人は楽しげに微笑んでいる。俊郎はふふんと鼻を鳴らした。「これは懐かしいなあ。あいつ、まだ生きてたのか。ふん、現在、あいつ、どうしてるんだろう。しかし、とても嬉しいよ。泣かせるねえ」
 ウキウキとして写真を卓上に飾っておき、同封してあった短い手紙文を読み終えては、ホッと一息ついて、俊郎は調子よく夕食の準備を始め出した。

  テレビでは、新型自動車「マグナム」のコマーシャル。そこでは、険しい山道をうねるように、朝日を浴びて滑走する自動車が感動的に描かれている。自動車は、二枚目の男優を乗せて、タフで順調な滑り出しといったところか。ハンドルを切る男優の表情が、妙にしぶくて良い。
 座卓に夕食の器を並べてから、腰を据えて俊郎は夕食にかかった。ニッコリと笑みを浮かべて、まずは豆腐の冷奴から。箸を伸ばす。その瞬間、俊郎の頭の中がグラリと揺らいだかと思うと、そのまま、スーッと意識が消えた彼の身体は、どんと床の上に倒れ込んで、そのまま突っ伏していた。

  とある街角の某電気機器量販店の二階フロア。その壁の全面を覆いつくすように、何十台もの大型ディスプレイのテレビ画像が並んで、すべての画面に、同じ笑い顔の老人の姿を映していた。どうやら、ニュース報道らしい。女性アナウンサーの、きびきびとした声が同時に聴こえてくる。その場に集まった客たちがそれを見守っている。
―昨夜未明に、往年の時代劇映画の名脇役として、世に知られた野田俊郎さんが、自宅のアパートの一室で死亡しているのが、アパートを訪れた知人らによって発見されました。死因は脳溢血とみられます。享年、九十八歳でした。野田さんは「宮本武蔵」や「忠臣蔵」等の作品に出演され、当時、「泣かせるねえ」の名文句で、映画界の流行語として話題となり、個性的なバイ・プレーヤーとして活躍されましたが、晩年はヒット作に恵まれず、家族と交通事故での死別後は、長い間、独居生活を送られていました。では、次のニュースです」   (了)