小説「ジョン・レノンに捧げる『ビンラディンはいずこ』」(連載1)
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ウサマ・ビンラディンさま。
突然の手紙をお許しください。
正義というものは、やはり一つだけではなかったのでしょうか。
きょう、十二月八日はビートルズメンバーでオノ・ヨーコとともに平和運動家でもあった、あのジョン・レノンが二十八年前にニューヨークの自宅、ダコタ・ハウス前でファンマーク・チャップマンに銃を発射され、ヨーコの目の前で殺された日です。
あなたはジョン・レノンがなぜ殺されたのか知っていますか。
この記念すべき痛ましい日を新たな出発点にこの連載小説「ビンラディンはいずこ」を私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」紙上で公開し、多くの登場人物とともに、あなたの存在そのものにつき考えてゆくことにしました。
ところで、インドのムンバイ(ボンベイ)でイスラム過激派による同時多発テロがまた起きました。なんでも犯行グループは五千人規模の殺害まで計画していたとも聞きます。あとに続くようにイラクで、アフガニスタンでもテロが続発しています。私は、こうしたテロが起こるつど、あなたと京子さんのことを思い出すのです。
だからといって、別にムンバイのテロの犯人があなただと言ってるわけではありません。それよりも何よりもあなたは今、いったいどこでどうしておいででしょうか。不謹慎といわれるかもしれません。でも、あえて言いたいのです。私の知り合いのトルコ人も言っています。「ビンラディンのこと、みなワルイヒトいうけれど、けっしてワルイニンゲンじゃない。カレはアメリカでずっとベンキョウしてました」と。
私はここでこれまでに私が書いた小説「懺悔(ざんげ)の滴」をもう一度振り返りながら、私の心のなかに生き続けている、あなたの軌跡をたどっていこうとしています。途中、この物語そのものが大きな岩と激突し大海原の藻屑と化してしまうかもしれません。あなたの実像が見え私自身が納得するまで覚悟して書き続けようか、と思います。
二〇〇八年十一月三十日。午前七時過ぎ。この果てなき連載小説はここから始まる。
いまは名古屋発博多行き「のぞみ59号」自由席のなかだ。ここ数日の私は、ドラゴンズ公式ファンクラブの新年会報の取材やら執筆、2008ドラゴンズ・ファン感謝デー当日の取材を含めた業務、さらには私自身の精神的支えでもある希望舞台の公演「釈迦内柩唄(しゃかないひつぎうた)」(水上勉原作)の尾張地区での観劇、など結構の忙しさで毎日をそれこそダモクレスの剣の上を綱渡りでもするようにして生きている。
一つ糸が切れたなら、真っ逆さまに地の果てにまで堕ちてゆく、そうした危機感のなかを緊張感をもって人生という旅路をあるいている。かなりハードな仕事に追われる日々だが、心配なのが妻咲恵(さきえ)のからだである。咲恵は、ことし二度も救急車で病院に運ばれた。彼女のからだを気遣いながらも、私は早朝、江南の自宅を出発し朝一番の名鉄電車に乗り名古屋へ。ここで新幹線に飛び乗り、京都で特急のサンダーバード1号に乗り換えた。
7号車の自由席に座ってまもなく、朝の射光が右側窓ガラスを透かしてまばゆいほどに私の右頬を射抜いてきた。思わず目を閉じる。「次は敦賀に停まります。8時28分に着きます」。車内アナウンスが聞こえてくる。私は、これから会いに向かう男のことを思った。彼は確か能登半島の輪島の出身のはずだった、とつぶやきながら私の頭にナゾの男がふと何度も浮かんでは消えた。いやいや、そんなはずはない。第一、男の告別式に私は向かっているのだ。もし事実としたなら、話が根底から覆され矛盾するんじゃないか、ともう一人の私が胸の中で声を荒らげた。私がこの作品に正面向かって書き始めよう、と誓ったのは、まさに車中で男の顔が眼前に迫ったその瞬間である。
話は全く変わってしまうが、わが家の飼い猫で御年、十五歳にもなる雌の妖怪人間猫、こすも・ここ。その彼女がこのところ連日、朝になると決まって「ウォー、ウォー、ウォオー。ニャアオ、ニャアオ、ニャアオウー」といった犬の遠吠えにも似た雄叫びをあげ、私の枕元に近づいてくる。私はそのつど、起こされ「なんや、なんや、一体何事か」と咲恵とともに聞くのだが、彼女は、ただ泣き叫ぶばかりである。
ウサマ・ビンラディン。こすも・ここの馬の嘶きにも似たどこか、差し迫ったような声を聞くつど、私はなぜか頭の中にしこりとなって滞っているこの男を思い出す。こすも・ここの声は「ビンラディンの霊が近くにやってきている。すぐ傍らまで来ているのになぜ、気がつかないのかーと一生懸命に訴えようとしている。そんなふうにも聞こえるのである。こすも・ここが訴えたいのは、おそらくビンラディンの“気”のようなものが一歩一歩、私のからだ、いや精神といおうか、心の中にまで入ってこようとしている。それなのに放っておいてよいのか、と言っているようでもある。
私は、たとえ書面だけでも、とウサマ・ビンラディンへの手紙を書くことにした。手紙は次のようなものである。
「拝啓、今もって国際テロ組織アルカイダの裏の権化ともされるウサマ・ビンラディンさま。あなたは今、どこでどうしておいででしょうか。お変わりないですか。あなたが石川県能登半島のヤセの断崖でジ・ハード(聖戦)と叫んで海に飛び込んだ、と京子さんに聞いてから、早いもので七年がたちました。京子さんと私とは十五年ほど前、三重県の的矢(まとや)湾に浮かぶ渡鹿野島(わたかのじま)で知り合っていらいの友だちです。いや、親友といっていいかも知れません。
なんだか矛盾も甚だしいのですが、アメリカで同時中枢多発テロが起きてから、およそ一年後にヤセの断崖絶壁からあなたが海深く墜ちていった、と京子さんからその後になって直接聞きながら、どこでどうしておいででしょうだなんて、なんだか白々しくておかしいですよね。断崖絶壁から墜ちてしまえば命は当然のことのように奪われるからです。でも、私は敢えて、あなたに問い掛けます。あなたは必ずや、この世のどこかで生きている。そんな気がしてならないのです。だから、もう一度同じことを尋ねます。あなたは今、どこでどうして、おいででしょうかと。 京子さんも、その後は何も言ってはきません。そして、あなたは、それだけの魅力があり気にかかる人なのです。だからといって、私がテロ行為に理解がある、と誤解されたのでは困ります。何の罪もない人々を殺してしまうテロを、私はどこまでも憎むからなのです。ましてや、つい最近、新聞で目にしましたが、アフガニスタンでは武装勢力タリバンの自爆のうち実に六割までが障害者というではありませんか。米軍の空爆で自らも手足などを失い失業して貧困に陥った障害者が「家族の生活を保障してやる」などと口約束され、自ら志願して自爆しているというのです。こんなことが許されていいのでしょうか。あなた自身、こんな悲劇を耳にして心が痛みませんか。
ところで、あなたに関するニュースは、一部興味本位のブログやネットをのぞけば、このところは各マスコミとも、ほとんどといってよいほど沈黙状態です。ただ、随分古くなりますが三年前の十月十二日付夕刊の片隅に、あなたに関する記事を見つけたことが今となれば、あなたに関する貴重な情報の一つとなっています。その記事には「ビンラディン容疑者死亡? 独紙報道『地震』で」の見出し入りで次のように報じていたのです。
―十一日付のドイツ大衆紙ビルトは、国際テロ組織アルカイダを率いるビンラディン容疑者がパキスタンの地震で死亡した可能性があると報じた。同紙によると、米情報機関の衛星探知システムが先週、パキスタン北西部に同容疑者がいたのを確認したのを最後に、居場所が分からなくなった。ある情報機関関係者は「地震以降、生存の兆候がつかめず、土砂崩れに遭遇した可能性が高い」と語ったという。同容疑者は腎臓病のため体重が四五キロまで減少。人工透析の機器を常に必要としているが、同地域では電気が止まっているという。
記事はざぁっと、このような内容でした。
それまでカタールの衛星放送・アルジャジィーラを通じて世界中に発信されてきた映像を見る限り、あなたは顎鬚を蓄え、身長も一九〇センチ以上もあろうか、という長身です。そのあなたが、体重四五キロ以下にやせ衰えてしまった、だなんて。哀れで悲しく信じられません。あなたが腎臓病で、いつだって人工透析の機器を携えている、ということも何かで読んだ気がします。かといって、土砂崩れに遭遇し居場所がわからなくなった、という、それだけで死亡説が流れる、ということなぞ、どうしても信じられはしないのです。私は、信じません。あなたは、きっと、どこかで生きているに違いありません。
当時のパキスタン北部を震源とした被災地の悲惨な状況は連日のようにテレビや新聞で報道されていました。東京新聞(中日新聞)は特派員の現地ルポとして「家は全壊 残した家族に冬迫る」の見出し入りで、ヘリコプターで移送された父子の訴えを掲載していました。もしかしたら、あなたも地震に遭遇し、家族そろって苦しい目に遭われたのかもしれません。それはそうと、日本では、あのころ小泉純一郎首相が靖国神社を参拝しました。現在の日本がこうしてあるのは、亡くなった英霊のおかげだ、というわけです。さっそく中国、韓国の政府ともに遺憾の意を表明しました。なぜその日なのか、については靖国神社の秋の例大祭初日に当たるから、だということでした。日本人好きのあなたは首相の行動を、どう思いますか。
それから。イラクの元大統領フセイン氏の戦争犯罪を裁く特別法廷の初公判がその年の十月十九日に開かれました。一九八二年に中部ドジャイルでイスラム教シーア派住民百五十人が虐殺された事件の審理に入る、ということで日本のテレビ各局とも元大統領フセイン氏の法廷での表情を映しだしていました。顎鬚も以前と変わらず、むしろより立派なものになっていたと記憶していますが、裁判官の人定質問に対して彼は胸を張り、はっきりと、こう述べていました。
「違法な手段による法廷で答える必要はない。それよりも、あなたがたの方こそ先に名乗るべきだ。私たち(他に被告が七人)は、午前二時半に、イラク国内のここに連れてこられ、その後、なんとも徒労の時間を過ごした。いまを一体、何時と思っているのか。正午を過ぎている」と。
声の張りもあり、誠に堂々としたものでした。私は、かつて絶対権力を誇ったフセイン氏が再び、世界史の表舞台に一歩足を踏み込んで躍り出てきたような、そんな感じさえ受けたのです。米国のイラク占領が、イラク国民はじめ、国際世論、米国民の間でさえも疑問を唱える人々が増えつつある折だけに、フセイン氏のこの日の法廷での存在感は際立っていました。もし、この模様をあなたが、この星の空の下のどこかで聞かれていたとしたなら。いったい、どう思われたでしょうか。フセイン氏に熱いエールを送られたのでしょうか。それとも、事情をよく知るあなたは法廷での彼を偽善者の一人に過ぎない、とそう言い放ったのでしょうか。
あなたが、あの大地震で土中に埋められるという被害に遭ったのでは、と心配されているパキスタンでは、もうひとつお伝えしておきたい明るい話があります。それは、あの大地震発生のおかげで、それまでインドと領有権を争ってきたカシミール地方でインド側カシミールの住民が実行支配線(停戦ライン)を越えてパキスタン側に入ることが認められた、という事実なのです。あなた自身、よくご存知である当時のパキスタンのムシャラフ大統領が、地震の被災者支援や復興活動のために決断した英断だったそうです。敵対していたインドから救援隊が送られてきたとは、それまでの両国関係からは信じられないことでした。
あのとき私はインドからパキスタンへの救援の手は、温暖化など環境悪化に伴う地球破壊が進むなか、人類はもはや戦争なぞにうつつを抜かしているときではない、というよき証明でもあるか、と思いました。もう一度お聞きします。あなたは大地震のあと、どこでどうしておいでなのですか」
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「いま、日本は秋の真っ只なかです。このところは、日に日に、いや、刻々と寒さがつのってきています。かぜの感触、木々や木曽の流れの水の色さえが微妙に変わりつつあります。野山の紅葉は一段と鮮やかさを増し、季節が一秒一秒を懸命に生きている。そんな感じがするのです。私は私にも負けないほどに京子さんを愛しつづけた、あなたが大好きな日本の風景のなかで、こうして生きています。ところで、かつて志摩の渡鹿野島(わたかのじま)で私が初めて会った京子さんは、いまどこでどうしているのでしょうか。
彼女からは、ヤセの断崖であなたが身投げし、その後遺体らしいものが発見された、との知らせが電話であって以降、音信は途絶えたままです。あなたが自殺の名所で知られるヤセの断崖絶壁から飛び降り、自らの命を絶ったとされるとき、京子さんは、ナゾの男と一緒に現場近くの岩場に立っていた。そして、あなたが「ジ・ハード(聖戦)」と叫んで断崖絶壁から飛び降りる、まさにその瞬間を目撃した、とも話していました。
ナゾの男とは、それまでずっと何か事があるごとに私に『支局長さん、いるかいね。そやそや。七尾の男やわいね』と、どこか霞んだような、擦れたようなそんなダミ声で新聞社の支局や名古屋本社に電話をかけてきていた不思議な男のことです。能登方言が独特で、私は電話口で彼の言葉を耳にするごとに、なぜか郷愁のようなものをよく感じたものです。というのは、私自身、能登半島の七尾支局長を七年間も務めていたからです。七尾を思い出すとき、私の脳裏では決まってあの能登ならでは、の言い回しが駆け巡るのです。
それはそうと、はやいものです。ニューヨークの世界国際貿易センタービルに民間機が空中衝突し、世界を震撼させた、あの9・11同時中枢多発テロの日から七年がたちます。私が以前、書いた小説では、たまたま整髪に入ったカブールの美容院で京子さんに会ったあなたは、まもなく彼女と恋に落ちました。それどころか、あの9・11テロのさなかには京子さんを追って日本にいました。世界国際貿易センタービルへの民間機衝突など、すべてを仕組んだのちに来日し、その日は志摩半島の的矢(まとや)湾に浮かぶ渡鹿野島に居たのです。
しかし、目の前のテレビ画面のなかで国際センタービルが炎上する様子や、逃げ惑うなんの罪もない人々の姿など地獄絵図を見て、あなたは自らの犯した大罪をあらためて思い知り、やがて発狂しました。それからというものは、京子さんに連れられ、心の癒しになれば、との彼女の思いもあり、日本の各地を点々としたのです。季節はいまと同じ。秋が真っ盛りのころでした。三重県の赤目四十八滝をはじめ、大津、神戸、岐阜などの行楽地ばかりを巡り、能登半島のヤセの断崖に来たところで、あなたはとうとう、「ジ・ハード(聖戦)」と叫び、断崖絶壁から飛び降り自殺した、ということでした。
遺体は数日後、近くの増穂浦の浜で地元民により発見されたそうです。背が高い男の自殺体が発見されたというだけで、いつものことで何か悩んで海に飛び込んで死んだのだろう、と地元警察署も独自に判断、遺体の検分もしないまま、たまたま残された遺品の中にあったメモから京子さんだけに連絡し、そのまま火葬されたそうです。当然ながら、マスコミにも連絡ひとつされませんでした。
でも、私にはいまも、あなたが世界の町のどこかで誰かに守られてまだきっと元気に生きている、そして、いつの日か私たちの前に顔を出してすべての真相を語ってくれる、そんな気がしてならないのです。あなたの死は、京子さんとナゾの男の判断でわざと仕組んだものではないか。作家である私に唐突とは覚悟の上で、それでも懺悔の心で日本で死んで逝ったストーリーを書かせることにより、とにもかくにもあなたの存在をこの世から葬りさろうとした。もしかしたら、京子さんも、ナゾの男も、あなたと一緒に世界の片隅でひそやかに暮らしているのではないか、と突拍子もなく、そんなことばかりが思われます。
ここでニューヨークで起きた同時多発テロの話に戻ります。事件発生後、犯人はアルカイダを率いるウサマ・ビンラディン、すなわちあなたを中心としたグループに違いない、と米国のブッシュ大統領はじめ、世界中のマスコミ各社が決めつけている観があります。でも、だったら、物証というものはあるのでしょうか。犯人と決めつけられたあなたでしたら、一体どうしたのでしょう。私だけは、まだあなたが犯人だと、どうしても断定するわけにはいかないのです。あなたの指紋とか、そうしたものが現場に残っていたのなら、別ですが。まだまだ想像の域を出ません。なぜなら、事件発生後に犯行声明らしきあなたの肉声入りビデオこそ一部衛星放送などのマスコミで公表されたものの、これをそのまま信じてすぐあなたが犯人だと断定するわけにはいかないのです。なんとしても確証がありません。
私の頭のなかは、ウサマ・ビンラディン、すなわち、あなたのことで一杯です。ヤセの断崖の下近くに広がる増穂浦の浜に揚がった一体の骸(むくろ)がどうしてもあなたとは別人である、時折、そんな思いにもかられます。第一、繰り返しますが断崖からの飛び降り自殺を目撃したのは、京子さんと、もう一人、能登に住むナゾの男だけなのです。男はそれこそ幻のような存在で私がかつて七尾支局長として能登半島全域を飛び回っていたころに私に何度か会ったことがある、と電話口で話していました。そうは言っても私にとっては、一体どんな人物なのか、は全くの未知数です。
一方で男はなぜか、新聞社の地方記者としての私の存在を熟知しているのです。そればかりか、それ以降というものは忘れたころに、それも節目節目に決まって、まるで親しい友だちにでもかけるように電話をかけてきたのです。受話器の向こうで『ほやけ。こんな話、知っとるかいね』と能登方言丸出しで話しかけ、その物言いは、時に『あのなぁ、ほいでなあー』と言葉を投げ捨てでもするようにつなぐ志摩の海女言葉にも似ている。そんな男だったのです。」
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男からの怪電話が新聞社の特報デスク席に座る私あてに最初にもたらされたのは、忘れもしない同時多発テロが起きて二ヵ月ほどが過ぎた二〇〇一年の晩秋だった。
受話器を取ると、男はくぐもった、作り声をさらに潜めこう切り出した。
「あっ、いつぞやの支局長さんやないか。あんた。七尾にいたんやろ。転勤の先々をあっちこっち探してやっとこせ、この電話番号教えてもろた。あんたは、とても信じんとは思うけんど、これから俺っち、あんたに話すことはホントやケ。ウソやないわいね。あのウサマ・ビンラディンが能登半島の関ケ鼻近くヤセの断崖で投身自殺をはかって死んだんやて。遺体は数日後に近くの浜にあがったそうだが『ヤセの断崖といえば自殺の名所、外人さんでも悩みごとがあれば投身自殺くらいするわいね』との地元警察署の判断で、そのまま荼毘にふされたそうな。
おいね。誰もが“そんなダラ(馬鹿)なことあってなるかいや”って信じへんだろが、記者さんの中でいつだって真剣かつ馬鹿正直に受け止めてくれたんは、いつの時もあんたはんだけやったけ、大事な話なんで急に連絡しとうなってな。俺な、断崖絶壁から、奴が『ジ・ハード(聖戦)』って大声で叫んだあと、飛び込むところを女の人と見てたんや。ほんとだってば。誰も信じてはくれへんと思うたから。あんたなら一応は耳に入れてくれる。そうおもうてな、電話したんや。昔、能登で大騒ぎしたUFО(未確認飛行物体)やミステリーサークルの時やって、ほやわいね。あんたさんとこの新聞社さんが一番誠意をもって取材してくれ、うちらのたよりになったんやて。あんたはん、支局の若い記者を走らせて新聞でデカく書いてくれたわいね」
私は七尾で記者生活をしていたことがあり、急に懐かしさを覚え、耳を傾けた。確かにUFОが日本海の海沿いの町の千里浜(ちりはま)海岸にやってきたとか、その関連で七尾の水田地帯にも突如としてミステリーサークルが出来、これは宇宙人の仕業に違いない、と大騒ぎしたことも記憶のなかに残っている。
男はさらに「いまは俺んちの名前出してもろわん方がよかて。そのうち死んでしもうたら分かるかも知れんよて。この話は、あくまであんたと俺だけの間のことにしといてくだい。新聞には書かんといて。また電話するよって。あんたさんなりに、突拍子もない仮説をたてることかて大切だ、そう思うんちゃ。支局長の胸深くにだけあたためておいてくれりゃあ、それでいいんちゃ」とだけ続け、電話を切った。
ちゃとか、よてとか、ケとか、わいねとか。確かに能登の男に違いない。それにしても、なぜ私のデスク席にこんな思いもよらない突飛で不思議な電話がかかってきたのか。私はしばらく放心状態で「ほうー、あのビンラディンが。能登で投身自殺したんだなんて。それにしても、なぜ能登で、なのか」などと頭をめぐらした。
これより少し前には、ちょうどテレビでウサマ・ビンラディンの声明がカタールの衛星放送・アルジャジーラを通じて世界中に流れていた折も折だけに、日本での死が事実としたなら思いもかけない遺体発見である。声明のなかで彼は「聖なるイスラム教徒よ。ジ・ハード(聖戦)に立ち上がれ」とも呼びかけている。十一月八日の新聞各紙の中にはビンラディンの目撃情報を流す新聞まで出ていた。そのビンラディンが能登で投身自殺をしただなんて。一体、だれが信じることだろう。とても信じられない。
そういえば、その男から電話が入った前の夜、帰宅して米国のアフガン空爆について妻の咲恵と話していた時、彼女は両手であごに頬杖をして「ウサマ・ビンラディンって。もしかしたら……かもね」といつもの調子で語尾だけをあげた。私が「かもね、だって? それ、どういうこと」と問いただすと、彼女は「あのねえ。あなたたちマスコミって、ほんとに駄目なのだから。特に新聞記者のおじさんたちはビンラディン、ビンラディンってうるさいけれど。彼はもう、この世にはいない。死んでいるのじゃないかしら。アタシ、女の直感でそう思う。アルジャジーラから流れる声明だって。事前に用意されていたものが作為的に流されている。ただ、それだけじゃないかって。ニューヨークの世界貿易センタービルのツインタワーに民間機を空中衝突させて破壊してしまうなんて。それだけのことが出来るんだったら、死後の世界をデザインするなんてこと、彼にしたら訳ないんじゃないんかしら。そんな気がしてならないの」と答えた。
男からの不意の電話は、夫婦の間でそうした会話をした翌日のことだけに、私にはどこかに運命めいた符号の一致点があるような、不気味な気がしてならなかった。男の声には確かに聞き覚えがある。
二十年ほど前になるが私は七尾に在任中、地元新聞が水田地帯に美しく円状に描かれたミステリーサークルを、UFОの仕業にして、さも本当らしく報道した、ある事件を思い出していた。あの時、支局に電話してきた男は「支局長さん。へんなもんに惑わされんといてや。ミステリーサークルだなんて。あろうはずないがいや。誰が考えてみてもおかしいやないかて。あんたさんとこの新聞だけは、おかしなこと書かんといてな。よく調べてから報道してもろわんと」と言って電話してきた男がいる。その男の口調になんとなく似ている。
ミステリーサークルは結局のところ、子どもたちが収穫前の稲田に入ってぐるぐると足で踏みつけ踏みつけ、面白半分に作ったいたずらの産物だと分かった。あのとき電話してきたくぐもった男とはとうとうそれっきり、一度も顔をあわせずじまいになったようだ。それとも、あのときも私の知る人物がわざと声をかけて電話をしてきたのだろうか。でも、一体誰なのだろうか。当時、市民運動として大いに盛り上がっていた七尾港の町づくり運動など日常取材で日ごろよく会っていた人物のような気がしないでもない。Sさん、Nさん、Fさん、Kさん、Hさん…と、それらしき人の名前と顔が次から次へと浮かんできた。
あのころ、七尾では取材ばかりか、新聞社主催の夏の民芸の夕べや、和倉温泉三尺玉花火大会、海の詩(うた)の公募―など事業面でも大変なお世話になっており、支局に出入りする人々も数えしれなかった。ナゾの男は、もしかしたらこれら多くの知人のなかの一人かもしれない。
男のくぐもった声といえば、その後の大垣支局長時代にも確かに聞いた覚えがある。少年グループによる長良川・木曽川大量リンチ殺人事件の端緒となった男二人の血まみれ惨殺死体が長良川河川敷で発見された、その日の早朝だった。
忘れもしない。あの朝は午前五時前後に支局の電話が再三にわたって鳴り続いた。私たちは当時、地方記者、それも支局長業務という宿命から二階の支局長住宅で籠の鳥同然に家族四人で暮らしていた。私と妻の咲恵が枕元で鳴る受話器を手に交互に出ると、なぜかそのつどプツンと切れてしまうという不思議な状態が繰り返し続き、そのうち何回目かに、しばらくの沈黙のあと男の声で「やあー、久しぶりやないか。長良川河川敷に死体が落ちとるぜ。支局長。はよ、せんと。嘘やないわいね」とせきたてられた。私は受話器を置くや、支局員をポケットベルで呼び出し「へんなたれこみが、たった今、入った。ほんとかどうか、サツ(警察)で調べ事実なら夕刊に一報原稿を送るように」と指示し、私自らも現場に駆けつけたことがあった。
男からの電話と言葉は事実だった。私がサツ回りの女性記者に指示した直後にサツの当直長から電話が入り「まだ詳細は不明ですが、長良川河川敷で男二人の血まみれ惨殺死体が見つかりました。第一報です」との連絡が入った。そして、これこそが日本中を震撼させた少年グループによる長良川・木曽川大量リンチ殺人事件の始まりとなったのである。
私は、もし声の主が同一人物だとしたなら、ナゾの男からの電話はいつも核心をついていると言わざるをえない。それにしても男は一体誰なのだ。考えれば考えるほど、心までもが破れてしまいそうな私は「ウサマ・ビンラディンが日本の、それも能登半島のヤセの断崖で投身自殺するなんて、ありえないこと」とは思いつつ、男の話を一笑にふす気にもとてもなれなかった。ビンラディンが既にこの世にいないことは十分にありうることだ、とも思った。気になるのは、男はいつも事実を知ったうえで電話をかけてきており、全く無視するわけにはいかない点である。
男の話が事実としたなら、ウサマ・ビンラディンはいつ、どうして日本に来たのか。日本ではどこにいたのだろう。男からの電話以降、私はアフガンの戦火の成り行きに神経をとがらせ、特報デスク席に寄せられるニュース原稿をチェックしながら、ただひたすら男からの新たな電話を待つ日々が続いたのだった。
男からの電話は、それから十日ほどしてあった。既に反タリバン勢力の北部同盟によりカブールが制圧され、あるテレビはビンラディンの家族が潜んでいたという屋敷跡まで映し出して報道していた。タリバン制圧とはいえ、戦局はますます混迷を深め、タリバンのリーダーであるオマル氏とビンラディンは南方のカンダハル方面に逃げ、依然として健在である、そんなニュースを各マスコミとも流していた。電話はそんな一連の流れのなかでも、ある重要な節目に私あてにあった。私は内心、男の声に震えが止まらなかった。
電話は特報デスク席からやっと解放され、満員のJR列車に乗り帰宅途中の私あてにかかった。仕事用の携帯電話なのでいつ、重要な連絡が入るかもしれず私はオンにしたまま満員電車に乗っていた。着信音はいきなり大きなメロディーを奏で始め、それも『天国と地獄』を流しだし私は人目を避けつつ慌てて携帯を背広の内ポケットから取り出したが、既に切れていた。携帯電話は最寄りの尾張一宮駅に下車しプラットホームを歩き出すと同時にまた鳴り始めた。今度はすばやく受話器を耳にすると、あのくぐもった声が耳に迫ってきた。
「とうとうマザリシャリフ陥落後は、カブールを経てカンダハルまで来てしまったみたいやね。ほやろ。オマルとビンラディンは山岳方面に逃げたって言うとるけど、中東の何たらゆうた、そうそうカタールのアルジャジーラちゅう、テレビ局によれば、ビンラディンだけは既に国外に脱出したとも伝えているちゅう。そんやけ」
男はそこまで一気に話すと、ごくりと唾をのみこんだ。一瞬、声が震えているように思われた。私は携帯を握りしめたまま「それが何やて言うんや。それだけでは分からへんて」と、つい大阪弁の訛りにも似た能登方言を思い出し、空に声を投げ捨てるように言った。
「だから何でもいいから、あんたはんが若いころ記者生活を過ごした三重県志摩半島の渡鹿野島へ行ってみな。ビンラディンの日本での足跡は、そこから始まるんやから。ほやわいね。ビンラディンは既にこの世になんかいやへん。おらへんがいね。マスコミの報道の大半は誤りで、ただひとつどこが流したかは知らへんが、国外に脱出したという報道だけがおうとるわいね」
男はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。私はなぜ、男があれほどまでに確信に満ちた声で言い切るのか、が不思議でしかたなく、思わず「ワタカノシマ? ほんながかいね」と七尾弁で口ごもっていた。
翌日。久しぶりの休みに私は疲れきった心身を癒そうと自宅マンション近くの地蔵寺境内にまで足を運んだ。はらほろと晩秋の風に散ってゆく銀杏の葉たち。黄葉でも一枚一枚に濃淡の妙がみてとれる。ジュウタンの如く大地に横たわる無数の落ち葉たち。こんどはカサコソと、音をたて一陣のかぜたちと一緒に大地を転がるように流れてゆく。そのさまは砂浜の白砂たちが満ち潮で一気に押し寄せてくる、そんな情景に似ていた。
ハートの形をした銀杏の葉。私はそうした葉たちの葉脈のひと筋の中に、あのウサマ・ビンラディンの魂が宿っている、そんな突拍子もないことを考えていた。
境内を出て森伝いに歩く。私は途中、何度も大地に蹲ると、鮮やかに染まった落ち葉の一枚ずつを拾い集めた。毎年、晩秋になると、どうしても落ち葉を拾ってしまい文庫本の挿絵がわりとするのが私の楽しみの一つでもある。ウサマ・ビンラディンであろうが、一枚の葉であろうが、この世で懸命に生きてきた点では、みな同じなのである。
その日の夜から翌未明にかけ、私と咲恵は自宅マンションのベランダに立ち、東の夜空に昇った“しし座”から流れ星が放射線状に散る『しし座流星群』を見ていた。この流星群は、毎年十一月になると星空に現れ、ほぼ三十三年ごとに出現が多くなるとかで、私たちは運よく、その年に巡り合わせていたのだった。科学的には三十三年周期で太陽を回るテンペル・タットルすい星が軌道に撒き散らした宇宙の塵が地球の大気に飛び込んで発光する現象らしい。
午前二時過ぎ、咲恵は「おぉ寒」と言って体を震わせながら毛布を体に巻いたままで、私も厚手のパジャマを着込んだまま二人で空を見上げた。そこには夥しい星たちが輝いている。息を殺して見守る。と、上空をひと筋の白い線が走って流れて消えた。また息を殺す。反対方向でサアーッと音もなく光りが下方に落ちていった。夜の来訪者たちは、こんな按配で右に左に、上に下へ、さらには斜めに、と縦横無尽に星空を駆け巡るのだった。
私たちは見守るうち宇宙の神秘に魅かれ、ああした星の中に、それも何億分、いや何兆分の一にもならない存在で生きているんだなっ、と思ったりした。私は流れ星をひとつ確認するつど傍らの咲恵の首筋にくちづけし、手を握りしめて彼女の年の数だけ数え、室内に入り、再び寝入った。
翌朝、朝刊を開くと米軍が追跡している国際テロ組織の指導者ウサマ・ビンラディンに関する情報が二転三転していると報じられていた。妻子とアフガニスタンから出国したのでは、との発言をタリバン政権の駐パキスタン大使がその後になって否定した。さらにビンラディンが追い詰められていることは確かでアフガニスタン南部または南東部の山岳地帯に潜伏し、数日以内に拘束または殺害が可能とのテレビニュースまであり、情報が混乱している様子がよく分かった。私は毎日、デスク席に洪水となって流れてくるアフガン原稿を処理しながら、これらの原稿と照らし合わせても「数日以内に拘束もしくは殺害」はありえないと思った。どの原稿も予測の域を出ず確証に乏しい点はデスクワークをしながら誰よりも痛切に感じるのだった。
そんなことよりも、このところはあのナゾの男の存在と言葉が気になってしかたがない。単なる新聞記者の直感だが七尾でなければ、輪島か門前に住む男では。だったら、絞られてくる…とも、ぼんやり思ってみたりした。私はこのままだと真実が闇に流されてしまう。贋者のウサマ・ビンラディンが米国防総省と米軍の手によって引き回されかねない。それだけに、一刻も早く男の言う渡鹿野島に行って何か端緒を得なければと思い、はやる気持ちを抑えるのに必死だった。
渡鹿野島といえば、つい咲恵のことが思い出される。私たちは、かつて志摩通信部(当時、志摩郡阿児町鵜方にあった)を拠点に半島全域を管内に、三年五ヵ月に及び地方記者生活をしたことがある。咲恵とは駆け落ち結婚だった。在任中は渡鹿野島が古くから、女たちを守る“女護(にょご)が島”と呼ばれたためもあってか、咲恵からは休みのたびごとに島に渡ることをせがまれ、何度も足を運んだことがある。私たちにとっては若い日々の忘れられない島でもあった。
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渡鹿野島を訪れたのは、年内の特報デスク席からやっと解放され、その年も押し迫った、南国志摩にしては珍しく寒い日だった。それまでの間、自社特派員電はじめが外電などウサマ・ビンラディン氏捕捉の報がいつ飛び込んでくるやも知れず、デスク席に座る身としては、自身の中のもう一人がその時が一体いつになるのか、心のどこかで備えの構えをしつつ不意の報に怯えていたことも確かだった。
事実、十二月に入ると、「アフガニスタン東部のトラボラ地区で米軍と反タリバン勢力の進撃が続き、ウサマ・ビンラディン氏の捕捉も間近い」とか、「米軍特殊部隊はビンラディン氏がトラボラに潜伏している、との確かな情報を得、反タリバン勢力とともに爆弾投下をして身柄拘束に全力をあげ包囲網は狭まりつつある」「アルカイダとトラボラ地区をとうとう制圧した」といったニュースが矢継ぎ早に流され(主にNHKニュースが多かったが)、私はそのつどデスク席でこうした情報をメモに書きとどめるのに追われた。
この間、十二月七日には、十一月中旬にカンダハルで米中枢同時テロ発生当時の様子につきアラビア語で話すビンラディンを収録した映像も世界を駆け巡った。映像はジャララバードの民家住宅で押収され、ビンラディンはこの中で自信たっぷりの表情で「私は同時多発テロが、ほとんど計算どおりに運ぶという自信があった」と語り、米国は「これこそビ氏が首謀者であったことを証明するものだ」と強調。情報合戦の様相さえ呈していた。
ウサマ・ビンラディンの最新情報はこの後も、暮れになってカタールの衛星通信アルジャジーラを通じ世界各地に流された。ビンラディンは、この中で「米国のアフガン空爆は、米国のイスラム社会に対する憎しみの証明だ」と断罪し、各マスコミとも解説欄などで「今回の映像は、これまでにメディアに乗った二回に比べ、逃亡生活の疲れからか頬がこけ、かなりやつれが見られる。収録は、おそらく先月下旬から今月上旬にかけてだろう。ビンラディンの贋者を米側が流すとか、そうした作為的なものは感じられない」などと報道したのだった。
私が久しぶりに島の土を踏んだのは、ちまたが既に正月気分に染まりかけていた十二月二十九日のことだった。手元の手帳を開くと、ビンラディンの最新映像をカタールのアルジャジーラが流したのが、それよりも二日前の二十七日、その一日前にはNHKがニュース番組でビンラディンの潜伏・逃亡・死亡説につき特集番組を組んで放映していた。新聞、テレビは相変わらずアフガニスタン東部のトラボラ地区を中心に米軍がアルカイダの捕捉作戦を繰り広げ、潜んでいそうな洞くつを中心にビンラディンの捜索をしらみつぶしにしている。数日以内にも捕捉か、などと報じていた。
私は電話の男の正体が何かは分からないまま、その日、ポンポン舟で志摩郡阿児町国府の対岸から的矢湾を横切って島に渡った。ポンポン舟は、昔と変わらないのどかな音を立て、白波を残しながら島に近づいていった。海をみながら、私は、昭和四七年十一月に咲恵が、信州・松本から着の身着のままで私の元に駆け込んできた日のことを思い出していた。確か十月一日付の人事異動で松本支局から一人記者の志摩通信部に転勤してきたばかりだった。その通信部に咲恵が訪れ、そのまま同棲し、共に手を携えての地方記者生活が始まったのだった。
さて、これもまた昔と何ら変わらない船着き場に降り立ったものの、私はここでハタと腕を組んで考えこんでしまった。島に渡りはしたものの、この島がウサマ・ビンラディンと関係があるなどと、一体全体誰が思うのだろうか。雲をつかむような話を承知で私はただひとり、頼りになりそうな女を訪ねることにした。
女は京子と言った。
彼女には十数年前、大垣支局にいたころ、島を訪れ初めて知り合った。夜を徹して、この世のことを話し合ったことがある。彼女は当時、三十歳前後。島で自らのからだを男たちに売って働いていたが、私はその粋で穢れのない気持ちに惚れ込んだことを覚えている。私と京子はあの日、時の過ぎるのも忘れて普賢岳の噴火やら、アメリカ西海岸とヨーロッパの大洪水、松本のサリン殺傷、阪神大震災、東京・地下鉄のサリン無差別殺人と次から次に起きる事件や天変地異について語りあった。
彼女の口から鉄砲玉のように吐き出される言葉の数々が、ついきのうのことのように胎内から脳天に向かって突き上がってくる。
「普賢岳やろ。溶岩流が流れてきても人間がこれに対抗するなんて、でけへん。実際にでけへんやったろ。科学の力で抵抗できるのならいいが、そんなこと到底無理や。阪神大震災。ほかに北海道地震やろ。今度は富士山やな。富士山が大爆発するでえ。富士のあとは阿蘇が大噴火する。そして新幹線が転覆するんや。何人もが死んで血でいっぱいの修羅場になるんや。だけれど、全部は死なない。地球の人間たちを見えない手が間引きするんや。ただそれだけのことや…
それから。オウム真理教、一体全体どれだけの家族がトラブルに巻き込まれ犠牲となり泣かされてきたことか。あたい、ああいうの許せない。警察は、ああいうのこそ、バッサリと殺(や)ってほしい。それをやらないで何をするって言うの。みんな、さあ。心が貧しい。こ・こ・ろが、いけないんだよ。オウム真理教のアサハラにせよ何にせよ、似たり寄ったりで、今の人間たちは日本人に限らず、悪いヤツラばかりだ。
あたいですか。能登に生まれ育ったが、いろんな家庭の事情からこちらに来てからは、あちこちで男とくっついたり、別れたり。いろいろあってこの島へは友だちに誘われ前に働いていた大津の雄琴温泉から来たんや。生きるために島で働くようになってからは、そうなの。ずっと独身なんだ。五月二十二日が来ればコールガールの専業丸七年になる。だから、この日は絶対休みにするよ。人間、こ・こ・ろが美しければ、どこまでも生きてゆける。あたい、心だけは、これからも磨いて清らかなままで生きてゆくから。からだが男をつかんだ分だけ、こ・こ・ろきれいになってやる」
京子は、さらに次のようにも付け足した。
「あんたさんとは、なんだかこの先もずっと、“赤い糸”で結ばれていく気ィーがしてならねえ。あたい、あと四年たったら、遊女をやめて何かをやろうっ、て。真剣にそう思うとる。この島には、あたいみたいな女が国内外から流れ流れて二百人ほど来ている。三分の二が日本人で、残りは外国人。イスラムからもブルカを脱いだ女たちが稼ぎに来てんだから。ほんとだよ」
私は、京子の人懐っこそうに話す表情を思い出しながら、ウサマ・ビンラディンとの手がかりといえば、このブルカを脱いで島に来た女たち以外にはない、と確信し何よりもまず彼女をこの島で探すことから始めることにした。しかし、あのとき、彼女はあと四年したら、この世界から足を洗って何か別の仕事をしたいーと話していた。島には既にいないかもしれない。
島では、まず船着き場で舟券を扱う五十がらみの女に「京子」の存在を聞いてみた。
女はオラッ、知らねえよ、という顔をしながらも心当たりがあるのか、「いるのかいねえのだか知らねえが、だったら町んなかにある居酒屋『愛』で聞いてみな」と流し目を送ってきた。そういえば、京子とはあの夜、少しだけ外に出ようよ、と誘われてカウンター越しに話が出来るちいさな店を訪れた。暖簾には『愛』の刺繍が施され、あのとき青地に浮かぶ深紅の“愛”が単に個人的なものではなく、島を訪れる人々に対する、いや、それどころか、人間全体に対する限りない優しさのように感じられた。
彼女は、そこでとびっきり辛い唐辛子が上に乗った特製のタイソーメンを食べながら、あんたもちょっとだけ食べてみな、と無理やり口の中にタイソーメンを押し込んできた。京子はあの時、うまいだろっ、と相槌を求め「あたい、毎日、タイソーメン食べて体んなか、焼いて消毒してるんや。自分のからだは、自分で守らんと、ね。でもお客さんと一緒にこうして食べた、だなんて。初めてなのだから。ありがたいと思うといてな。あたい、よっぽどあんたのこと、気に入ったんやなっ、て。不思議やね。この広い、いや限りない、悠久の宇宙の中であんたとあたいがこうして今夜初めて出会って話をしているだなんて」と嬉しいことを言った。
私は、たった一度の出会いを思い浮かべながら海岸線を離れて町なかの漁師町を歩きながら京子にはきっと再会出来る、と自らに暗示をかけていた。あんたとは、この先も“赤い糸”で結ばれているんやから。声にならないつぶやきが波の白い飛沫とともに大きく耳に迫ってくるのだった。
海沿いに光の中を歩いていると、咲恵とともに過ごした青春時代が蘇えってくる。ミニスカートに八重歯を光らせ、長い黒髪を腰までなびかせ大股に胸を張って歩くのが彼女の癖だった。あのころ、この島のことを教えてくれた年老いた海女の言葉が忘れられない。
話しはこうだった。
「あのな。この島さ。昔の話しやけど、漁師たちが親のない、ててなし児を育ててなはったんや。それで身勝手な親たちに捨てられたおなごたちは、日ごろはまどろ網を引いたり、砂浜で稽古海女として島の海女さんたちにもかわいがられて遊んだりしてるんやけどな。それでも年月がたちゃあ、たくましく立派な女に育っていくわさ。十七、八になると、丈夫に女として育ててもろうたあかしに、湾内に船と一緒に停泊中の旅人さんに我も我もと、はちきれそうな体さ、売るんだ。旅人さん、ゆうても港に停泊する気イのいい船乗りさんばっかしや。この島は的矢湾に浮かぶ風待ち港ゆうてな。湾が入り組んでおり、台風の通過する時には、かっこうの避難港でな。何泊も停泊したときにゃ。女たちは、生きてきたあかしと育ての親への感謝の気持ちも込めて、船から船をワタリガニのように歩いたもんやて。
ほいでなあ。その晩はなあ。ごはんに味噌汁こしらえはって。旅人さんの衣服にほつれがあれば、それをひと晩かけて縫うてやってな。針師まで兼ねた。蟹のように船から船を走るように渡り歩き、針師も兼ねた。だから、女たちは、志摩のハシリガネとも呼ばれた。ほやからねこの島さ。おなごたちにとっちゃあ、神さま、仏さまやて。女たち一人ひとりの心かて自然に、よお、なるわさ。女を守る。だから“女護が島”って言われるんやて」
女は、こうも続けた。
「それから、一夜妻(いちやづま)献身の島ともゆうてな。船で避難中の旅人さんばかりでなく、仕事や家族のことで苦境に陥った男たちが寂しくなると訪れ、その晩ひと夜に限り、見ず知らずの女と契り、夫婦同然のひとときを過ごす。こんないいところ、あろかいな」と。
私は咲恵と過ごした遠い日々に思いをはせ、水平線に目を移していったん足を止め、そこで大きく深呼吸をした。海からのかぜに当たるのは何年ぶりになるのだろう。
男からの携帯電話が鳴ったのは、そのときだった。
私は胸騒ぎを覚え、見えない男が背後に幻となって迫り来る、そんな気持ちを抑え周りの様子を伺いながら電話口に出た。電話は相変わらずくぐもった声で話は、あらまし「ことしは大変な年だった。同時多発テロで罪のない何千もの人々が亡くなり、多くの家族が悲しみのどん底に落ちた。でも、ソ連の侵入など戦禍が続いたアフガンでは過去二十年に二百五十万人もが死に、七百万人が難民となった。地雷を踏んで足を失くした人々も数え知れない。こういう悲惨な現実を世界の人々があらためて知った、という点では歴史に残る年ではないんか」といった内容だった。
最後に男は例の調子で「あのなあー。ワ・タ・カ・ノ、行ったら、あんたさんも知ってるはずのキョウコという女に会うといい。彼女なら、ビンラディンの行方について、生死もあわせ本当のところのいくつかを知っているはずで、なんらかの貴重な手がかりが得られるかもしれんケ」と声を落とした。
私は、この電話にひどく狼狽した。
男はなぜ、京子の存在を知っているのだろうか。それとも、京子と私と男の間にひとつの接点というようなものでもあるのか。私は核心をついてきた男の声に何か神がかり的なものさえ感じた。それに、この声には確かに能登在任中に何度も聞いたような、そんな気配がするのである。かといって、七尾時代の友人を繰り返し一人ひとり思い浮かべてはみるものの、どうしてもナゾの人物に行きつけないのも不思議といえば不思議だ。
電話が途切れたあと、私は能登半島でお世話になった友人たちの顔を一人ひとり思い浮かべながら町なかの高台を歩くうち、ふと視線を上げると、穏やかな水平線の空高く二羽のカモメがスイスイと泳ぐようにして飛んでいるのに気づいた。風が少し出てきたようだ。私も、あのカモメと同じようにこの地上で生きている。妙に感傷めいた想念が意識の底から沸きあがってきた。
それはそうと、私はなぜ取りつかれた如く幻のウサマ・ビンラディンを追いかけているのだろうか。いや、そうまでして追わねばならないのか。追いかけたところで何になるのだ。徒労のようではあるが、どうしても追っかけたい。それは理屈を通り越した、自身の底から噴き上がる血の流れといってもいいものだった。歩きながら、もしかしたら、私自身があの世に棲む、もう一人のウサマ・ビンラディンかもしれない。『魔の9・11同時多発テロ』は、前世に私が起こし、いまの世に私自身がその洗礼を受けようとしている、そんな奇怪な錯覚にさえとらわれるのだった。
(続く)