掌編小説「電話ボックスの黄昏」
今日もまた、電飾の夜を迎えようと、艶やかで静けさを装う煌々とした夕暮れの時が訪れようとしていた。
野の林のように立ち並んだ高層マンション街では、すべてが赤一色に染め上げられて、やがて暗黒に包まれる時をじっと待っているかのようであった。その赤い街には行き過ぎる人の影もまばらで、皆が同じようにため息をつき、うなだれているかのような雰囲気があった。その揺れ動く人影たちのなかに、人生に絶望し永遠の安らぎを求めて舗道を彷徨う一人の若い女性の姿があった。
「ああ、どうだろう…この道の向こうには、いったい何が待っているのかしら。何もかも失なった私を、迎え入れてくれる誰かが待っているのかしら…でも、もういいの。それでいいの。死んでいければいいの。死ねば永遠に安らかな眠りが待っているから。今の生き地獄から逃れて私は気持良くこの瞳を閉じて死んでいけるから」そう美佐子は言い聞かせていた。彼女の黒いハンドバッグは、歩き続ける彼女の隣りで、まるで振り子のように右へ左へと、ゆらゆら揺れていた。美佐子の身につけているのは、地味な色合いで安っぽいワンピースと白いハイヒールだった。右足のヒールは無残に折れて、その傾いた足取りは、今にも風に飛ばされそうに、とても頼りなげな様子だった。
ふと、近くの誰かが、不審そうに美佐子を振り向いたのかもしれない。そんな声がした。しかし美佐子はそれと気づかぬままに、ただ眼の前の何もない空間をみつめながら、おぼつかない調子でこつこつと前へ進んでいく。彼女だけの時間がゆっくりと過ぎていく。そしてどこまでも赤いマンション街の真上で、太陽はまるで、くつろぐかの様にゆっくりとおだやかに沈もうとしていた。
どっぷりと酔い乱れた彼の毛むくじゃらで大きな右手が、激しい勢いで、怯えた美佐子の顔を繰り返し叩きつけた。大きな音を立てて美佐子の顔が弾け、眼を見開いたままの彼女の唇から血が吹き出して飛んだ。ぎゃーと悲鳴を上げて美佐子は床に倒れる。それでもまだ気がすまないように、彼は小さく舌打ちをして、今度は部屋の隅で布団にくるまれて眠っている幼い赤ん坊に眼をくれると、近づいて、いきなり握りこぶしを振り上げた。
「待って、あなた。お願いだから、この子にだけは手を上げないでちょうだい」
と声を上げる美佐子には、まったく意を介さずに、彼は赤ん坊に掴みかかろうとする。異変に気づいた赤ん坊が眼を覚まして泣き声を上げ始めた。この子が殺されてしまう。美佐子は我が身を捨てる覚悟で赤ん坊の上に身を伏せ、うずくまっては背中を蹴り続ける彼の攻撃に耐えつづけていた。
やがて泥酔した彼は気持ちよさそうにグウグウと畳の上で眠ってしまった。丸刈り頭で角ばった顔つきの大柄の男だ。そして美佐子は全身の痛みに耐え切れずに涙を浮かべ、うつろな意識の中で模索していた。
いつの間にこんな悲惨な生活に変わり果てたのだろう。以前の彼はこうではなかった。突然のリストラによる失業とアルコール中毒が彼をここまで狂わせたのだ。
しかし、このままでは私と子供が彼の暴力に身も心も破滅してしまう。急いで、ここから逃げ出さなくては。それも今すぐに。美佐子は、はやる気持ちを何とか抑えながら、赤ん坊が泣き声を上げぬようにそっと抱き上げて、鏡台に置いていたハンドバッグのなかを確かめると取り上げ、鏡で、乱れた髪を手で直してからアパートの部屋を出た。しかし、どこにも行く当てはなかった。どうすればいいんだろう。ともかく、ここからどこか遠くへ離れるしかない。それから改めて行き先を考えよう。意を決して美佐子は足早にアパートから立ち去っていった。それが、美佐子の孤独な逃避行の始まりであった……。
生き地獄のような記憶を残してアパートの部屋から逃げ出した美佐子は、しばらく当てどなく徘徊していた。やがて、彼女が抱きかかえた赤ん坊がゆっくりと眼を覚ますと、大きな泣き声を上げ始めた。やさしく赤ん坊の体を揺らしても、一向に泣き止む気配がない。彼女が困り果てたころに、タイミングよく公営団地のそばにある小さな公園に出た。それで彼女は、公園内にいくつかあるベンチのひとつで休んでは、赤ん坊を抱えたまま、ぼんやりと物思いに耽った。すでに彼女の頭には、これから将来への希望は微塵もなく消えていた。彼女の未来へのすべての扉が、ことごとく閉ざされていく。と同時に、死への願望がゆっくりと頭をもたげて彼女を支配し始めていった。
明るい日差しの差す公園の美しい光景と裏腹に、もはや彼女の気持ちはありえないくらいに暗く澱んでいた。想い返せば過去に、顔も判らぬ両親に捨てられて孤児院で育った美佐子の唯一の夢が、将来、素朴で明るい家庭を持つことであった。ごく平凡でいい。温かで穏やかな家族の生活。ただそれだけ。しかし、結果として、容赦ない現実は彼女の想いを残忍なまでに打ち砕いてしまった。そう、あの狂った獣のような男の住むアパート以外に私の帰る場所はもうない。ならば、いさぎよく、私の人生を終わりにしてしまおう。遅かれ早かれ、誰でも人生の最後はいずれ訪れてくるのだから…。
その時また、赤ん坊が泣き出した。そのあどけない泣き顔をじっと覗き込む。もう私は死んでもいい。でも、苦しみとともに産んだこの子の将来だけは……。しばらくの躊躇のあとで意を決したように、美佐子はハンドバックから手帳を探り出すと、一枚の紙片をむしり取って、そこへペンで走り書きをしたためた。「私にはもうどうしようもありません。どうか、この子をよろしくお願いします」しかし、それは美佐子にとって、まさに断腸の思いであった。やり切れぬ気持ちで、そのメモ書きを赤ん坊の胸もとにへヤピンで留めると、そのちいさな体を静かにベンチの上へ横たえた。もはや、悩んでいる時間はない。取り戻す未練が湧き起こる気持ちが起きない間にこの場を離れなければならない。そして急いで駆け去っていく美佐子の眼に溢れんばかりの涙が出てきた。やがて遠くから、去っていく美佐子に追い討ちをかけるように、公園で遊んでいる子供たちの笑い声と歓声が上がった。
意識が朦朧とした美佐子は、さっきまでの都会的なマンション街を通り抜けると、やがて鄙びた駅前商店街の前に差し掛かった。敏感になった彼女の耳にさらさらと河の流れる音が聴こえてくる。素朴なせせらぎの音が疲れ果てた美佐子の耳にしばらくの間、心地よく響いていた。そこでは茶色く濁って汚染した河の上に小さな橋が架かっている。橋のたもとで、美佐子はふと足もとに眼を止めた。石畳の路上に、ちいさく鋭利なガラスの破片が落ちている。虚ろになった彼女の気持ちを誘うように、ガラス片が鈍く輝いている。しゃがみ込んだ美佐子はそっと破片を拾い上げると、それを自分の左の手首にあてがってみた。しかし手首は切れない。ためらいがあった。どうやら彼女の命を絶つ気持ちに逆らう何か、がある。いったい何だろうか。と、その時、美佐子の背後に何やら鋭い視線を感じて、驚いたように彼女は背後を振り返った。
そこには煙草店があった。その店先の窓口で、背中を丸めたエプロン姿の小柄な老婆が、丸眼鏡のレンズの奥から無表情にじっと彼女を見詰めている。それで急に何やら不安な気持ちに襲われて、美佐子は手にしたガラス片を河に投げ捨てると、老婆の視線を振りきるように、見上げて遠くに視線を投げた。すると白い歩道橋が視界に飛び込んできた。その歩道橋の下を猛スピードで電車が駆け抜けていくのが見えた。そうだ。あの歩道橋から落ちて電車に衝突したら、私は間違いなく死ねるだろう。その衝撃も一瞬のことに過ぎない。自分の死に場所を探し当てて、美佐子は何やら少し肩の荷が下りたような気がした。
ここで最後を告げると決めた白い歩道橋の階段を、まるで過去の想い出を懐かしくかみ締めるような気持ちで美佐子は力強く昇っていこうとしたが、どうやら身体がふらふらと揺れているようだ。ほとほと歩き疲れたせいか、美佐子の息づかいも荒く苦しげだ。ようやく橋の上までたどり着いた頃には、それならばいっそ、このまま倒れて死んでしまえばいいと、やや自暴自棄な気分で、重い溜め息をついた。しばらくして橋の欄干から、気の抜けたような身体を乗り出しては、真下を見おろしてみる。灰色の砂利石を敷き詰めた二車線の線路を、今、まさに大型の電車が猛スピードで美佐子の下を駆け抜けていく。これなら、ひとたまりもなく絶命するだろう。
「さあ、美佐子。決して何も恐れることはないのよ。これであなたも、生涯の生き地獄からあっという間に解放されるのだから。もう、自由なのよ。ほら、美佐子。今こそ勇気を出して」
思い切って歯を食いしばり、強く両眼を閉じて、美佐子は橋から身を投げ出そうとした。さあ、最後の瞬間が来た。と、そのとき、バタンと大きな物音がしたかとおもうと、予期せぬことで、美佐子はそのまま、あわてて身をすくめてしまった。それで何ごとかと、美佐子が振り向くと、彼女の足もとに口を開いたハンドバッグが落ちて、中から一枚の白いカードが飛び出していた。美佐子は怪訝な面持ちで、いったい何かしらと、白いカードを拾い上げる。そこには、「こころのダイヤル・・・お悩み事・お困り事があれば、いつでもご相談ください。あなたからのお電話をお待ちしています」と書かれている。
最初は、いまさらこんなものがどうしたの、と安易な気持ちで破り捨ててやろうかとも思ったが、ふと考え直して「うん、そうだわ、死ぬ前に誰かへ別れの言葉を残しておくのもまんざら悪くなさそうね」と改めて、その電話番号を確かめた。この近くに電話ボックスはないのかしらと、また辺りのあちらこちらに視線を走らせる。すると歩道橋の反対側に、自動車が行き交う広い国道が通っているのが、ちいさなビルの隙間から覗いている。その傍らに狭い駐車場と大きなコンビニが看板を上げているのが見えた。隣には電話ボックスが立っている。よくは見えないが、ボックスの中には人影があるようだ。
「実はさあ、俺、ついさっき、初めて行った駅前の喫茶店のマスターに聴いた所なんだけどさ、ここの電話ボックスから見えてる、あの白い電車の歩道橋、何でも人の噂によれば〝足摺り橋〟って呼ばれてるらしくて、以前から飛び降り自殺の名所なんだって」
透明なガラス張りの電話ボックスには、地味な背広を着た若い男の先客が、電話で会話の最中だった。そのそばに立った美佐子の耳には男の会話が、手に取るようにはっきりと聴き取れた。美佐子は手にカードを握ったまま、信じられぬ彼の話に思わず驚愕していた。
「本当だって、母さん。先月も二人、あの歩道橋から自殺したんだぜ。一人は失恋した女子高校生、それにもう一人はリストラで失業したサラリーマンだって。よくいう、最近流行の心霊スポットってやつかな。でも、何だか気味悪いよ」
「自殺の名所」。そして「心霊スポット」。その言葉で、あっという間に美佐子の悲惨だった心境が変化し始めた。そうなの? もしかしたら、いや、本当にそうかもしれない。私が死のうとした理由、それはあの夫の暴力だったのではない。そもそも、夫の暴力そのものが、あの白い橋に原因していたのかもしれないのだ。そして、私までもが、あの橋の魔力に誘われて、ふらふらと、さまよい歩いて引き寄せられて殺されようとした。そうよ、殺されようとしたの。やがて美佐子の心に激しいまでの戦慄と恐怖心が沸き起こってきた。そして一瞬のうちに美佐子は現実世界に戻された。殺されたくない。そして何よりも、死にたくない。決して私は死にたくはないわ。
「そうそう、とうとう由香里のやつ、あの男と駆け落ちして、家出して出て行ったよ。うんうん、それは分かってるよ。亭主の俺にも責任はある、でも、由香里は金遣いが荒いし、派手で身勝手なタイプだろ。それで、前からこうなるとはうすうす感じていたんだ。今ごろ、あの男と、どこかの洒落たレストランで〝二人の未来に乾杯!〟ってところじゃないのかな。あとに俺と息子の太郎を残しておいてさ。本当、いい気なものだよ」
男の話に、美佐子はこころから同感していた。結局、この人も私と似たような境遇なんだ。実際、男も女も結構、身勝手なものね。世の中って、どこかで誰かが楽をすれば、その分、誰かが苦労しなけりゃならない。これって理不尽なのかしら。美佐子は重くため息を吐いた。また電話ボックスの男が話す言葉が、彼女の耳に入った。
「…俺の性格なのかな、いつまでも過去に捕われたくないんだ。だって無意味だろ、どうあれ、過去って変えられないよ、それに嫌な出来事も放っておけば、いつの間にか、遠い記憶になってくれる。だから、また将来の夢をもう一度、描いてみようと思うんだ。俺はこれから第二の人生を歩んでいく」
美佐子の表情が徐々に明るくなってきた。美佐子は考えていた。そうよね。ものは考え様よね。現在、私は本当に、また自由を手に入れたのかもしれない。私の人生なんだから、私の好きにする。やろうと思えば、この世のなか、何だって挑戦できる筈よ。そう、がんばったり、楽しんだりねえ。これからは、苦しんでも生きていく勇気を持たなくちゃ。がんばれ、がんばれ、美佐子。
「それでさ、俺、ドライブが趣味だろ。で、昨日、久しぶりに海を眺めてみるかと、近くの海岸まで、気分転換に車で出かけたんだ。ラジカセで、ポップな音楽を聴きながら、でっかい海をみていたら、俺、パーッと気分が晴れてきて、爽快、爽快って感じなんだ。車のドライブっていいよ。さあ、今度はどこへ行こうかって、今もあれこれ思案中なんだ」
音楽鑑賞か。そう、そう。ようやく美佐子は、いつもの忙しい日常生活で、いつの間にか忘れていた憧れの女性歌手の甘い歌声を思い出していた。つい最近も、また彼女の新曲のアルバムが発売されたことは、近所のスーパーで流れていたラジオ放送で知っていた。ぜひ、聴いてみたい。今からでも、駅前デパートのレコード店に出かけよう。何だか、楽しい気分になってきたわ。
「ああ、母さん、うっかり忘れていたよ。俺、今日は自宅に息子の太郎を、おいてきたんだっけ。もう、こんな時間になってしまった。太郎のやつ、きっと、お腹を空かせて待っている筈だ。俺、急いで帰ることにするよ」
公園で置き去りにした私の大事な赤ちゃん。そうだ。うっかりと今朝からまだ一度もミルクを飲ませていないきっと腹ペコだろう。ああ、今は音楽どころではないわ。とにかく一刻も早く、公園に残してきた私の子供を連れ戻さないと。急げ、美佐子。
カチャンと電話を切ると、悩み事を打ち明けて気が済んだのか、若い男はゆっくりと落ち着いた心持ちで電話ボックスを出た。どこか遠くで、駆け去っていく女性の靴音が、たかく響いて来る。さて、今日の仕事も無事にこなしたな。彼はきつくなったネクタイに片手をあてがって緩めようとして軽くうつむくと、すぐ足もとに落ちている小さなカードに眼を止めた。何だろうか。「こころのダイヤル」と書かれているようだ。彼はそれを軽く拾い上げると、すこし笑顔を浮かべ、再びボックスの扉をひらくと、白いカードを緑色の電話機の上に置いて少し気分が軽くなった。そして手にした薄っぺらな財布の中身を確かめると、彼は上機嫌で軽く口笛を吹きながら、彼の車が待っている駐車場へと向かった。
電話ボックスは、今日も孤独になって残された。しかし、いつも、どこか寂しげな電話ボックスは、今日は何かをお祝いする特別な日でもあるかのように、とても元気そうに、凛として立ち、穏やかな夕陽を受け止めていた。今日もまた、電話ボックスに黄昏が訪れていた。誰の人影もない。そして巨大なビル街に沈みかけた赤い太陽は、まるで、おおきくあくびをしては、のんびりと居眠りしているようであった……。 (了)