「涙のままに」  真伏善人 

ギターの音色にひかれてしまったのは、社会に出て、数年たってからのことと覚えている。きっかけは、置かれる立場に神経質になっていた頃だ。社内での常識に納得できず、劣等感の塊が暴発した。代償は大きかった。周囲から一目置かれていると感じ、孤独に陥ってしまう。そこに沁みこんできたのがギターの音色だった。独身寮の先輩から快く貸してもらい、おそるおそる人差し指で弦をはじいていた。覚束ないまでも、いつか曲らしいものになっていくのが日々の救いになって、何としても自分のギターが欲しくなり、小づかいを切り詰め、購入してしまう。くる日もくる日も哀愁を帯びたメロディをなぞっては満足していた。いつの日か流れるその曲をよく聞いていると、メロディを引き立てる和音というものがあることを知る。あの中に美しい秘密があるに違いないと手探りを始めると、もう仕事のことなど、どうでもよくなっていた。しかし所詮我流であり、壁にぶち当たるのは早かった。自然と好きなフレーズだけを弾いては、悦に入る方向に進んでしまっていた。
 やがて曲がりなりにも一端の成人になり、家庭を持つことになると、止むないギターの空白、二十数年ー
 ある日の午後、家で広報誌をめくっていると、ギターとフルートの演奏会が当地であると載っていた。ギター奏者は知らぬものがないほどの名手であった。開演は何日かあとだったが、とにかく季節は立春のころで、小雪が舞う午後の三時ころだった。会場は町の文化センターで、入場すると予想以上に席が埋まっていた。仕方なく階段を一歩一歩上がりながら、ようやく見つけた席に腰を下ろしてほっとする。ほどなく観客席の照明が落ち、ステージが一段と明るくなる。まばゆいばかりの舞台の左から純白のドレスのフルート奏者、右からはまぎれもないあのギター奏者が黒い燕尾服で向かい合うように現れた。司会者の紹介があって二人はいったん退場する。再度拍手の中に現れたのは燕尾服の奏者だった。あの彫りの深い面長の彼が、ギターを片手に中央へ進み一礼をし、燕尾服の裾を気にしながらゆっくりと椅子に腰を下ろす。愛しむようにギターを抱え目を閉じる。それを食い入るように見つめ、最初の一音に耳を澄ます。
 いくつかの呼吸を置いて瞼を開き、奏者がネックを握り弦に指をかけると、しんとした会場にゆるやかなアルペジオが力強く舞いあがった。その瞬間、何ということだろうか、鼻の奥がつんとして、いきなり涙が湧き上がった。こらえようのない涙は、あとからあとから噴き上げて瞼を閉じさせなかった。溢れる熱い涙は太い筋となって頬を伝い流れ、たまらず顔を仰向けるがどうにもならない。隣人に悟られてはと嗚咽を懸命にこらえるが、ぼろぼろの涙は曲が終わるまで止まず、瞬きも、拭うこともかなわぬまま頬を濡らし続けた。プログラムが進行する間中、身動きひとつできなかった。ただ残り涙の雫にひっそりまばたくだけで、舞台はぼんやりと眺めているにすぎなかった。終演になっても立ち上がる気持ちになれず、照明を避けるようにうつむいていた。いつか席を立つ人々がまばらになり、周りも数えるほどになったところで腰をあげた。
 目を伏せて会場から出ると雨になっていた。はや薄暗さの漂う道を考え歩いた。あの理性の利かない一方的な熱い涙は、孤独の中でもがいていた青春時代の物悲しさが、堰を切って流れ出たものか、あるいは胸の底に沈めたはずのギターへの思いが、大きな気泡となって浮き上がったものなのか…知る由もなかった。
 とぼとぼと家に帰り、箪笥の上で閉じられたままの古びたギターケースを見上げて、腕組みをしたあの早春からもう随分になる。  (完)