「泣くとは」 加藤 行
人間がこの世に誕生する時が、正しく泣く。僕は、赤ん坊の泣き叫ぶ大声に、この世に生まれてくる以前の世界は、そんなに恐ろしい所だったのだろうか、それとも、生まれてくるのが、そんなに恐ろしいのかと、勝手に想像したりする。しかし科学的解釈によると、オギャーオギャーと大声で「産声を上げる」のは自分の肺を膨らませて呼吸と心臓の機能を母体内のシステムから、自分自身で酸素交換を行う出産後のシステムへと切り替えるように遺伝的にセットされているという。
産まれてからも言語を持たない赤ん坊は、意思伝達表現として泣いて訴える。しかし子供になっても、やはりよく泣くものである。僕の、大泣きした想い出は、今も痛みとなって残っている。小学生の頃、「仮面ライダーショー」のサイン会に行きたくてお金をせびり、怒った父親に頭を叩かれて大泣きしたのである。小学五、六年生の頃で「お前は幼稚だ」と言って怒られた。
成人になって以後、どうも泣くことが無くなってきた。明確な理由は分からないが、年齢を重ねると、経験も多くなり物事に対しての感動も褪めて、感受性も鈍くなるのだろうか。僕の場合、人の不幸で泣くことよりも、自分の不甲斐なさで人を泣かせることのほうが多かったような気がする。障害者であるが故の僕は、皆にとって、終始、心配、迷惑極まりない存在ではないかとつくづく思われるのであります。平身低頭です。
現実問題として、誰でも、心のなかであろうとも、自分のために涙を流すことは時として、あると思う。自分の不幸を嘆くことは、決して不自然ではなく、人間として当たり前の行為であると思われる。しかし,いつか涙は枯れるのだから,涙で悲しみを流し去ったら、明日に向かって生きるために、魂を鼓舞して、何度でも立ち上がらねばならないのだろう。その姿にこそ、人は大きな感銘を受けるのではないか。
僕の場合、歌や、ドラマのような物語に、よく感動して泣くことがある。特に映画では思いがけない結末に涙することがある。物語では、O・ヘンリーの短編で何度も何度も泣かされた記憶がある。「最後の一葉」、「緑の扉」、「よみがえった改心」や「賢者の贈りもの」等々である。物語の場合、そこには著者の優しい意図が窺えるのだが、僕だけだろうか、現実世界での悲しみの衝撃は、あまりにも唐突にやって来て、不安定な違和感を覚える。一寸先は闇、当然といえば当然のことだ。しかし僕の世界が大きく揺らぎ不安感に染まる。
世のなかには悲しい出来事が毎日のように起こっている。しかし、それらをまったくの他人事として感じた場合、泣くことはまずない。自分の人生に関わる時は別として、テレビや新聞で報道されても、親身に感じたり、同情するとしても、泣いたりはしない。僕の勝手な推論ではあるが、「泣く」という行為は、生物学的に、強度のストレスとなる身近な不幸に対して、自己保全のために取る本能的な対抗手段「自分への癒し」ではないだろうか。
われわれ人間は、崇高な愛情に対して「ともに泣く」精神性を持っているように思う。それは、犠牲愛、託す愛、献身愛も人類愛に根ざした感動を呼ぶものである。そして、強いものには誇りにも似た感情を抱き、弱いものには、その姿に涙するのである。そこには、したたかに生きる人間のたくましい生命力すら感じさせるのである。泣くことにより、再び人間は、新たに生きるきっかけを掴んでいるのだろう。
四月の末に、僕の母が八十八歳で亡くなった。往診の先生は「大往生」だと言われた。自宅の老衰末期の床で、医療機器に頼らず自力で自然死をがんばった母の姿を、僕は食い入るように見守っていた。意外なくらいに、あっけない最期であった。手を尽くしたが、大きな自然の力には決して逆らえないと、心底、悔しい思いをした。でも泣けなかった。脳梗塞で右半身麻痺、失語症で十年の自宅療養生活だった。最期はあまりにも自然に下降していく母の姿を見守っていた。老衰でくたびれた身体は、食べ物が欲しく無くなり、次いで、コカコーラだけで四十日間の生命を継ないだ。その間も意識はしっかりとして動いていたし、ベッドに寝たきりになったのはコーラも飲まなくなった二日だけだった。今は、存在が無くなり、会えなくなった寂しさ、暗くなった家の中は、どうしょうもない喪失感を埋めれない状態である。
悲しみに流す涙は、人のこころから溢れ出す宝石のようなものだろう。とても美しいのである。そして泣いたあとには、新たな希望を抱いて生き抜いていく、偉大な人間の背中を、僕は見つめているのである。 (了)