「チャー姉さんの死」 平子純
姉が命を絶って二十年余りになる。四十五歳という若い死だった。
私とは三つ違った。とにかく面倒見がよく、幼い頃から、病弱な母に代わり私の面倒をよくみてくれた。私が少年期になるまで心の拠り所は姉だった。
姉が心を病んでいることは母から聞いた。義兄の浮気が原因の一つ、事業拡張による責任の大きさ、長男の大学受験、いろんなものがのしかかっていたのだろうことは推察できた。しかし、子供の頃からとにかく気丈だった姉が死を選ぶなんてとても考えられなかった。
姉のことは日頃チャ―と呼んでいた。中村区則武辺りは子供に『坊』を付けるのが習わしで、チャ―坊と私が付けた。幼児期、里美と言えなかったから、チャ―坊と呼び、それが詰まってチャ―となった。
チャーと私の幼児期はあまり豊かなものとは言えなかった。四十坪から父母が始めた旅館は一向に客が来ず、輪タク屋が送り込んでくるアベックに頼るような始末だった。そのうち何人か娼婦も住み込むようになった。それ位からだろうか、客が来るようになったのは。関東方面の博徒が長期で滞在するようになり、不思議と逆の世界の警察官が昼サボって麻雀をやりに来ていた。無論部屋代等払う気はない。おまけにおにぎりやコーヒーのサービスを要求する。今では信じられないだろうが、駅裏の宿(どや)なんてものはそんなものだった。
進駐軍が昼からジープで乗り付ける、電タクでレコードをかけ、チークダンスに興じた後女の子をそれぞれ部屋に連れ込む。夜になると進駐軍の病院に勤めるキヌ叔母さんがやって来て、それぞれの娘のお尻にペニシリンを打つ。病院の在庫管理もいい加減なものだったのだろう。キヌ叔母さんは進駐軍のお菓子をいっぱい持って来てくれた。中でもアイスクリームは見たこともない物であり、段ボールに入ったピンクのは舌が蕩けそうに旨かった。
こんな環境でもあり、チャーと私は身を寄せ合うように生きていた。掃溜めに居ながら、それが社会と思い・・・。高年市内の名門私立中学校に入った時のギャップは忘れられない。姉の入った女子中学は私と同じカソリック系の超名門で、よりギャップは大きかっただろう。
父母の経営する宿は、旅行ブームの到来と共に切り替え、だんだんと大きくなっていき、今に至っているが、最終的には四十坪が四百坪余りの市内でも有数の団体旅館となった。
私が小学生の頃には賄いの叔母さんもおり、朝の遅い母に代わり朝食を作ってくれた。元お妾さんでありながら品があった。三回妾になったが、三回とも死別したのだそうだ。
横山の叔母ちゃんと私達は呼んでいたが、ある時、直腸癌に罹り死んでしまった。それでも死までの数ヵ月は実家に世話になったようだ。横山の叔母ちゃんが私の父に死ぬ瞬間はすぐ終わる? 苦しくない? と何度も訊いていたのが忘れられない。父がすぐだよ。楽に天国へ行けるよと言っていたのが印象に残っている。
私は幼児期から小学校二―三年頃までやんちゃでしょうがなかった。気が向かないと何もしない。そんな時手を持てあました先生が姉を引っ張り出し、私をなだめ、言うことをきかせた。姉が言うことには私も従わざるを得なかった。
私は先生たちの姉弟を見る目がどこか違うのに段々気が付くようになってきた。小学校三年生の時だったか、ある女の先生が私に「貴君の家は嫌な商売をやっているから可哀想」と言ってしまった。最初私には意味が分らなかった。しかし、意味が分るようになり、傷ついた。姉は女だからもっと苦しんだろう。三歳上だから、大体のことは分っていたに違いない。姉は強かったから、そんなことには憶しもしなかったように見えた。
後年姉は大学でサークルが同じだった義兄と結婚した。同じ時期、私も姉の後輩の妻と結婚し、それぞれに子供が出来た。
姉が死を選んだ翌年、長男の東大受験があり、合格は確実視されていた。次男は高校一年だった。その大事な時に姉は余程苦しかったのだろう。最初安全カミソリで手首を切り風呂に付けた。死にきれないと分ると首を絞めた。姉のすごい所は一回で決めてしまう所だ。なかなか人間は一回こっきりで死ぬことは出来ない。多分父親の影響があったのだろう。父は海軍で特攻兵を教えていた。その武士道のようなものに我々姉弟は少なからず影響を受けていたのだろう。父が戦争で死にきれなった情念は、いろんな形で伝わったのだ。
姉が死ぬ一週間程前から、岐阜から名古屋まですごいテレパシーを送ってきて、何故か朝になると私の枕が涙でぐっしょり濡れていた。
一週間目の朝五時に、私は何か物の怪に取り憑かれたようにフロントへ起きていった。その時だ。電話が鳴ったのは。姉が病院へ運ばれ、生死はまだ分らないとのこと。私は九歳下の弟に電話をかけ、すぐに岐阜へ向った。岐阜病院の前で丁度棺の乗った車を見た。私は直感した。姉はもうこの世の人ではないんだ。
姉の家へ着くと、もう姉は運ばれていて、布団の中に寝かされていた。私が頭に触ると、まだ温かかった。姉の目に涙がいっぱいたまっていた。懺悔の気持ちでいっぱいだったのだろう。私は姉に、一遍行ったらもう帰って来れえせんのだぜ、何故短気起した。 そう呼び掛けた。
葬儀も終り、焼場へ行ったが、私は姉の骨を見ることが出来なかった。まるで自分の骨を見るようだったから。葉桜の下でただうづくまっていた。姉が死んで、二年間私は立ち上ることが出来ず、夜ビールを飲むと涙が溢れた。どうして黙って行ったんや。長男は東大に現役合格したというのに、半年間が待てれんかったのか。
私の長い人生の中で、あれほど長いこと泣いたことはない。 (完)