「幸せへの軌跡」 伊神権太
東京オリンピック。と言われて、はるかかなたを思い起こすのは、第十八回大会の一九六四年(昭和三十九年)前後の私自身の青春時代だ。私が大学に入学した年で確か、その前年、高校三年生の時には愛知県一宮市出身の青春歌謡歌手舟木一夫さんの「高校三年生」(遠藤実作曲、丘灯至夫作詞)が大ヒットした年でもある。
正直言って【東京五輪】そのもので覚えているのは、鬼の大松博文監督率いる回転レシーブで知られた東洋の魔女、日紡貝塚の女子バレーがソ連を破って優勝し金メダルに日本中が歓喜したこと、と柔道無差別級で神永昭夫がオランダのアントン・へーシンクに抑え込まれ日本柔道が敗れたあの屈辱、そしてエチオペアのアベベ・ビキラ選手がマラソンでローマに続いて連続優勝。日本の円谷幸吉が二位になったことぐらいか。
ともあれ、私にとっての東京オリンピックは今となっては私自身を青春時代に回帰させるきっかけ、若返り剤とでも言えようか。事実、私のなかではあのころ私たちもよく歌った舟木一夫さんの青春歌謡「高校三年生」、そして中、高、大学と稽古に励んだ柔道への思い出が張りつき、少し溯った昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風襲来や、当時出回り始めた白黒テレビを前に黒山の人だかりとなり力道山を見たプロレス中継も忘れられない。
このうち「高校三年生」だが当初は、岡本敦郎さんが歌うことを想定して作られたそうだが、岡本さんが既に高校三年生という世代ではなかったことからお蔵入りに。運というのか。巡り合わせは不思議なもので、舟木さんが歌ったら、シングル発売1年で売り上げ100万本を超す大ヒットとなり、舟木さんはその年のNHK紅白歌合戦にも初出場。そればかりか、レコード大賞新人賞にも輝いたのである。あのころは、来る日も来る日も詰襟の学生服で歌う舟木さんを家族そろって茶の間の白黒テレビで見ていた記憶がある。
その年の秋。大ヒットもあってか、時計台で知られるわが母校・滝高校(愛知県江南市)で映画「高校三年生」のロケが行われた。その日は、青春スターが勢ぞろいするなか、学生服に身を包んだ八重歯の舟木さんが自転車置き場で何度も自転車ごと転ぶシーンを繰り返し、その様子を柔道着姿で「なんで」と首をひねって見ていたことを思い出す。
後年、私は新聞社に入って記者の道を歩み、一宮主管支局と文化芸能局の在任時の二度、舟木さんとお会いする機会があり、当時のロケ現場を柔道着に身を包んで見ていたと話させて頂いたが、わが母校の夕陽は歌詞にある通り「赤い夕陽が(いつも)校舎を染めて」おり、とても美しかった。ついでながら「高校三年生」の舞台として歌詞のなかにある「校舎」のモデルについては丘さんが文化祭の取材で訪れたことのある東京都の私立松蔭高校だとか、いや他校だとか、諸説あるようだが私には、どれもピンとはこない。
そうであろうがなかろうが、だ。当時高校生だったおそらく誰もが、この歌をうたう時はそれぞれの母校を「高校三年生」の舞台だと思っているに違いない。そして私の場合は柔道一筋にかけたあの青春時代と重ねあわせて尾張の雄、〝滝高健児〟の滝高校を、である。
東京オリンピックが青春歌謡とか柔道一直線の話に飛んでしまった。でも、来る2020年東京五輪の思い出が人々の心に、どう残るか、となると私には皆目見当もつかない。ただ万一百歳まで生きていたとしたら、四半世紀前を振り返って私はこう振り返るだろう。
「東日本大震災や福島原発事故、異常気象による竜巻や土石流やらに遭い日本中が苦しんだが科学技術の進歩と人間の英知もあって、平和な日々となりオリンピックでは日本人が活躍。リニア中央新幹線や自動安全走行車も走り出した。懐かしいなあ」と。
オリンピックが全ての人々にとって、幸せへの軌跡となるなら、それほど良いことはない。(了)