「夜の漆黒」 山の杜 伊吹
あれは、うだるように暑い夏の夜だった。
原稿の締め切りに追われ、真夜中の二時になってもパソコンに向かっていた。この世のすべてが眠りについているかのように、夜の静寂がしんと広がっている。湿度も高く、汗がしたたり落ちてくる。今日は熱帯夜、いやな予感がした。こんな日は、きまってヤツが出るのだ。冷房嫌いだが、ヤツに出会いたくないがために、クーラーのスイッチを入れようとしたその時であった。ブゥン、ブゥンという嫌な羽音。カナブンクラスではなく、もっと大きい、私の忌み嫌う昆虫の羽音だと一瞬で理解した。ギョッとして音のする方に振り向くと、ヤツはガラス戸の向こうの網戸にへばりついていた。少し楕円がかったカラダは茶色、 細くて長いヒゲを激しく動かしている。間違いない、十センチはあると思われる大物が、どこからともなく我が家に飛んで来たのだ。ガラスと網戸の間は数セ ンチ、ヤツに悟られる事なく、至近距離で、カラダの裏側からじっくりとその仕組みを観察する事もできたはずだ。でも裏など見たくはない、ていうか無理、 直視できない。「信じられないよっ!」誰もいない部屋で雄叫びを上げた。
この世で最も嫌いなものを見てしまった時は、カラダがショックで震える程の恐怖と怒りだ。しかしたとえ心拍数が上がり、嫌な汗が流れ、キーボードを打つ手が震えようとも締め切りというものがある。気持ちの高まりがやっと落ち着こうとしたその時、ふいに、ブゥン、ブゥン。ガサッ、ゴソッ。なにかが動く音が、隣の部屋から聞こえてくる。空耳に違いないと思う。信じたくない、でも確かに聞こえる。それはなにか。想像したくない。バチッ、バチッ。羽がなにかにぶつかるような激しい音。まさか、今夜だったのか・・・。
仕事どころではなくなった。二階に上がり夫を起こす。「もしかしたら、出てきてるかも知れない」「自分で見てくれば」「なんか怖い。見てきてよ」夜中の三時にそんなやりとりの後、しぶしぶ階段を降りて行った夫が全然戻ってこない。心配になり、おそるおそる一階に降りると、「見てごらん、すごいよ」
目線の先に繰り広げられた光景は、暗闇にシルエットになったツノが、ノッコ、ノッコと動いていく様。「やった、オスだね、かわいい」男の子を授かった時点で母親は昆虫採集、そして昆虫飼育の道を覚悟しなければならない。思い返せば十センチはあるバカでかい幼虫を見た時は、ゲーッと思った。せがむ息子に負けて、知人に幼虫をもらい、腐葉土のショウジョウバエと闘いながら毎日霧吹きで土を湿らせ、フンを取り除き、蛹室に入ったら部屋を壊さないよう子ど もに口うるさく注意し、手探りで育てた。その結果、黒光りした美しいツノとカラダをもったオスが、見事に誕生したのである。そういえば、夕方水やりの為 に飼育ケースのふたを開けたら、あの昆虫独特の匂いがした・・・。
しかしこれから一体どうしたらいいのか。ケースにはもう一匹幼虫がいるので、別のケースに移しておいた方がいいかも知れない。騒ぎに目を覚ました息子も起きてきて、真夜中に大騒ぎとなった。しかし情けないことに誰も触れない。そこで割り箸を持ってきて、なんとかつかもうと試みるが、足の細かいギザギザがケースの隙間に入り込んでしまい、無理に引っ張ると、か細い足が取れてしまいそうで恐ろしい。一時間程格闘した末に、畳の上にボタッと落ちて、ギャー! 何とかしないと部屋中を飛び回る! その危機感で夫が拾い、引っ越しは完了。汗だくであった。次の日にもう一匹、メスが羽化した。その十日後、白い米粒のようなものが土の上に落ちているのでなにかと思ったら、もう卵を産んでいた。外で一匹野生のオスも掴まえて飼い始めたので、ツノとツノを交えたオス同士のケンカも観察した。暑い夏は あっという間に過ぎ去り、秋の虫の声が聞こえる頃になった。朝晩は随分涼しくなり、あんなに食欲旺盛で昆虫ゼリーをひたすら食べていたオスが、もう食べ にいく元気もなくなっていた。かわいそうになってゼリーを口元に持っていってやるが、手足も殆ど動かない。「もうアカンなぁ」
次の日起きるとオスは死んでいた。息子は涙を流しながら庭に埋めた。三日後にメスも死んだ。飼育ケースの中にもう彼らはいない。それを忘れたくてケー スも見ず、水もまったくやらず放置した。二カ月程経過したある日、何気なくちらりとケースを見て仰天した。そこには土の上でウネウネと激しく動き回る幼虫の姿があった。土の中には、夏の思い出を作ってくれた彼らの残した命の証、七匹の幼虫が見事にふ化し、育っていたのである。