日記文学「笛猫日常茶番の劇(連載1)」
Mよ
この世は醜さや、悲しさばかりが目立つ
でも自然は美しい。人の心も捨てたもんじゃない
(笛猫からの伝言)
―これから始まるのは、私だけの話ではない。人間た ちの物語である。
二〇〇九年四月十六日
夜。木曽川河畔の愛知県K市。自室。
私は、たった今から愛猫こすも・ここに向かひて趣味で日々、練習に励んでいる横笛をふくが如くに、Mあてに日常生活を書き残すことにした。Mは、どこにでもいる一人の女性に過ぎない。この物語は、いわば笛猫こすも・ここも加わっての心の伝言劇でもある。
今夜、帰ると、Mは珍しく湯上がりだった。
朝、出がけにMが私に向かって言った「あのねえ。彼は今晩、食事いらないだって」の言葉を思い出し「あぁ、だから先に風呂に入り待っていてくれたのだ」と勝手に思った。
Mは亭主と、ふたりの愛猫にいつものように食事をさせたあと「きょうは、もう疲れたから。寝るよ」と言ってさっさと二階寝室へ退却とあいなった。私は、こうして自室に居る。傍らではこすも・ここが座っている。ただ、それだけの日が過ぎていった。
十七日
けさ、Mがこすも・ここと一緒に台所の窓から裏庭を眺めていたので一緒に上から下をのぞいてみた。紫のラベンダーと、ピンクと白のマーガレット、紫と黄に染まったスミレがそこにはあった。すべて、Mが手で植え育てた花ばかりである。
Mは、これらの花々に満足そうに見入っていたが、私に向かって「キンカンの木を植え替えたいの」とも言った。その木は、ちょうど台所の壁面下部分で窮屈そうに立っている。いつのまにか、周りの土が大きくえぐられており、Mが植え替えようとしている証しとも見た。
いまの季節。この地方の桜の花々は殆んど終わり、かわって目にもまばゆい新緑が木という木から、どんどんとわき出ている。昼食時に私は、名古屋の職場近く那古野神社に寄ってみた。それは見事な新緑が、まるで無言のなかで緑の交響曲を奏でているようだった。
緑といえば、Mのお気に入りの色でもある。わが家の愛車パッソの色も、Mが見たてた鮮やかなグリーンである。
愛猫二人のうちのボスの方、すなわち、こすも・ここは、きょうも私たちを起こそうと声を立てて鳴き、年下のシロちゃんはシロちゃんで、Mが外出する前から、両手をそろえた、おねだりポーズで台所の一隅でチョコンと何かを訴える如く口を真一文字に結んで両手、両足をそろえたまま座っていた。
シロは私の短編小説集「懺悔の滴」の表紙を飾っている、まことに透明感のある白い見事な不思議なほど妖艶な猫である。読者の間では「表紙の猫ちゃんが魅力的なので中身の小説までが、すてきに思えてくる」といった声が多く、嬉しくなってくる。「懺悔の滴」は、まだまだ売れているようだ。
きょうは金曜日で私が出勤するため家を出たあと、Mも家を出て、この町の一番華やいだ通りにある彼女の営むリサイクルショップTに向かった。リサイクルショップとはいえ、ボランティア同然で、この店には、この町を守り、家も守っているーという、すご腕の女性ばかりが集まっている。いわば、そうした女性たちのたまり場とも化しているのだ。
十八日
ナゴヤドームへ。中日スポーツのファンクラブ通信の欄で紹介するためで、ドラゴンズファンの何人かに話を聞く。
このあとメナード美容院に寄り、私のお抱え美容師(私は彼を<藤吉郎さん>とも呼んでいる)に整髪してもらい、地下鉄桜通り線から鶴舞線に乗り換えたところで携帯がなった。
「おばあちゃんがね、調子がわるくなってね。いま病院にいる。意識はあるから、大丈夫だから」としっかりした声が入っていた。私は最初、携帯の音にこのところの変化の激しい気候に、Mの体調が怪しくなり彼が心配してそのことを知らせてきた、と思ったが、そうではなくて、彼女の方は大丈夫だった。
そういえば、私の母は八十八歳と十ヵ月で六月一日が来れば、満八十九歳である。「母のこともたまには心配しなければ。たいしたことでなければ良いが、と私はK駅からタクシーを病院にまで飛ばした。
病院では兄夫妻に妹夫妻も駆けつけ心配そうな顔で居り、母は点滴を受けていた。それでも医師の判断でたいしたことはなさそうだ、と分かり午後九過ぎには点滴も終わり、市内の実家へ戻った。妹によれば、昼間、いつものように実家に顔を出すと、母は五回ほどもどしたあとでぐったりしていたという。あわてて救急車を呼んで病院に運び込んだ、とのことだった。
聞けば、月曜日に木曽川河畔のスイトピアに年寄り仲間と行き、猛烈な雨が降った火曜か水曜日には自分で車を運転して近くの畑まで出かけ、そこで畑仕事をしてかなりずぶ濡れになったという。ほかに食べるものもたまたま、よくなかったのか。その後の三寒四温もあり、どうやら胃腸風邪を引いたのでは、というのが病院医師をはじめ、大方の見方のようである。一人住まいのため冷蔵庫に長く置いたまま古くなったものを食べ、それがあたったのではと、そんな見方もある。
車で実家から帰る途中、Mは「日比純子さん(内田るり三亀さん)から香典返しの小荷物が届いているわよ」とポツリと口を開いた。
夜遅く帰宅して荷物を開くと、ご挨拶文と都々逸の文句の入ったフェイスタオルとウォッシュタオルが届いていた。日比さんは、ことし二月に亡くなった、この地方が生んだ偉大な都々逸漫談家・柳家小三亀松師匠の恋女房で、これまで二人三脚で都々逸を世に広めてこられた功績はすこぶる大きい。
都々逸の文句入り文面は次のようなものだった。
「『苦』有り『楽』有る
世間の風も
人の情けに
支えられ
愛し愛され
五十年と七年
長く短い
夫婦道
感謝
お心遣い誠に
ありがとうございました 純子」
という内容だった。
こすも・ここは帰りの遅い私たちに何かを訴える如く、ウアオー、ウアオーと大きな声で鳴き続けた。その声があまりに大きいので私は逃げる彼女を2階上の渡り廊下まで追いかけ「鳴き止みなさい」と言って叱り飛ばした。こすもは、ちいさく丸くなって2階寝室にある、Mのつくった小型段ボール箱の中に身を潜めたが、私の大声にそのまま身を丸くして、ひと言も鳴かなくなった。
主人の私は少しばかり叱りすぎたようだ。こすもだって自意識を持って一生懸命に生きている。何か私たちに言いたいことがあったのかも知れない。
Mは、そんなこすも・ここを目の前に、こうも言ったのだった。
「ボスちゃんは、隣町のI市にいたころは、マンションだったから隣に気を遣って鳴かなかったじゃない。やっと一軒家で住むようになれたので言いたいことを訴えようとして鳴いてるんじゃない。そのまま鳴かせておけばよいのに」
Mは、こすも・ここのことをボスとも呼んでいる。このひと言で私は、こすも・ここの鳴き声に「ボスちゃん。なんや、なんやの」と訴えを聞こうとしているMの度量の広さを思い知り、同時に反省しきりとなった。こすもとシロちゃん
の二人がわが家に居てくれることによって、どれほど私たち家族三人が潤い、安らぎ同時に癒されていることだろう。
こすも・ここ、ごめんね。
十九日
四月というのに広島では30度を超えた。そんななか、Mが言うには「中庭のツツジの芽が、だいぶ膨らんできた」という。色は何、と聞くと「キイ。黄色なの」と教えてくれ、いまから楽しみである。確かに彼女はキィーと言ったはずだが。
きょうは午前中、Mの求めに応じて裏庭一角に立つキンカンの木の周りを掘り起こしMがそれを隣家との境界近くに植え替えた。すくすく育つといいな、と思っている。
昼からは病んだ私の母にはヨーグルトがよいのでは、と近くのスーパーでりんごのヨーグルト三個を買って実家に出向いた。帰宅すると、Mが玄関先駐車場角のひとすみのコンクリートの裂け目で最近、ちいさな、ちいさな野草がたくましく育ち薄いピンクの花を一輪咲かせていた、という。さっそく覗いてみたが、野草が生えているだけで、花一輪は既に消えていた。
二十日
「庭のツツジがやっと咲いた」とM。
二十一日
朝。中庭に咲いたツツジはどうやら、黄色ではなく、緋色のようだ。Mが教えてくれた「ヒイロ」のツツジを現場ひとつ見ないまま勝手に聞き違いして「キイロ」と勘違いしていたようだ。その見事なツツジがいよいよ、少しずつ咲き始めている。
今日は職場のドラゴンズ公式ファンクラブ事務局に京都の会員、西村さん夫妻からタケノコ八本が宅配便で送られてきた。西村さんは京都市認定の「京の旬野菜」栽培農家で毎年、旬の野菜を贈ってくださり感謝のしようもない。夫妻が一緒に入れておいてくださった糠と共にスタッフで分配し、私も分け前に預かった。
火曜日の夜。いつものように近くの福祉センターでフォークダンスを楽しんだMは私より遅く帰った。それでもタケノコを見ると「うわぁ~、どこからもらってきたの」と声をあげるや、その場でさっそく切って茹でたのである。たとえ料理の達人とはいえ、Mにはつくづく申し訳ない気がするのである。
Mはこの日、タケノコを茹であげたあと、午前一時近くまでかかって洗濯をし2階ベランダに、これらを上げて干したのだった。
私は私で熱砂同人のSからファックスで送られてきたテーマエッセイ(テーマは「色」)をパソコンのワードに打ち直して熱砂のW編集長のパソコンに送信しておいた。
Mは、きのうは定額給付金の申請に市役所を訪れ、きょうはK市内、飛高の施設に、私たちが知る、かつてはその筋の人とて恐れた、といういつものおばさんを見舞った。Mは連日、大車輪だけに、少しからだが心配になってくる。
あまり無理しないように。
二十二日
朝。わが家の台所カウンターの一角に、緋色のツツジがコップに生けられ何げなく飾られていた。それこそ、Mの心遣いで、彼女は一番咲きのツツジのうちのひと房を、コップに入れて、その場所に置いたようだ。
無言のツツジが命をときめかせて何か楽しそうな話を、私に語りかけてくる。
そんな気がする。不思議なものだ。
夜、帰宅すると、案の定、わが家の料理の達人によるタケノコごはんが出されてきた。昨夜、茹でられたタケノコが、はやくもタケノコごはんとなって食卓を彩っていたのである。
深夜になり、パソコンを開くと、W編集長とウエブ同人誌のメンテナンスの大役を果たすR連携によるアップで、『色』をテーマとした「熱砂」同人たちのテーマエッセイが一斉に画面に公開されていた。
私の作品は<主(ぬし)にみかえる花はない>のタイトルで書かれている。
このエッセイ公開により、これまで私の作品群の中でもしばしば出てくる、愛猫こすも・こことシロに続き、とうとうリボンちゃんまでがこの世に登場したのである。
二十三日
緋色は嫌い、それよりピンクの方が良い、とMは言う。
けさは二人でゴミ出しをした。きのう、六カ月点検から帰ったばかりのパッソにゴミを積んで、だ。Mは最初、なぜ一人では行けないのよーと不満顔だったが、結局はふたりで近くのゴミ集積場に向かったのだった。このところ、わが愛車はゴミ運搬車に変わってしまったようだ。
先日、救急車で病院に運ばれ、その後数日間、名古屋市内の兄宅で静養していた母が市内の実家に帰宅。電話をしたら「これからはお母ちゃん、いつ動けなくなるかわからへんで、ね。その時は兄ちゃんを助け、みんなで助け合ってやってね。いま、おかゆを食べたところだわ」と母。「(冷蔵庫に置きっ放しの)古いもんばっか食べちゃいかんよ」とたしなめると彼女は「古いもんなんか、お母ちゃん、これまでも、これっぽっちも食べとらへんて。単なる胃腸風邪だったんだよ」と反撃を食らってしまった。
二十四日
朝、家を出る前にMが「天女の部屋」で寝込んでしまいそうになっている。心配になり「どうした。大丈夫か」と聞くと「眠たいだけなの」の返事。
私の目には、掃除、洗濯からリサイクルショップの運営、食事の準備に後始末…と、Mの日々が目まぐるしく、かつ、かなりハードなため、少しでも負担が軽くなればーと、2階ベランダに置かれたままの洗濯物を以前、教えてもらったように干した。
出がけに「あまり、無理するなよ。たまには思い切って店を休んだらどうか」と言うと「品物の値段書きがあるから」の返事。「からだを、それ以上に壊してしまったらどうする。すべてがおしまいになってしまうじゃないか」と言い残して、私は家を出た。
昨夜、Mから「日比純子さんから手紙よ」と私あての速達を見せられた。
あす(すなわち、きょう二十四日)夫で先に亡くなった柳家小三亀松さんの墓が半田市内に出来、弟子たちとお参りに行くので来てくださると嬉しい、といった内容だった。きのうのきょう、の事なので悪いな、と思いつつも半田支局へこうしたことがあるので出来たら取材してやってほしい、と電話。急な知らせなのでО支局長も戸惑ったようで「悪いな、連絡しない方がよかったのでは。私が支局長だったとしても、急な取材依頼には戸惑っただろうな」と内心、深く自省したのである。
二十五日
Mは、このところジャズライヴにはまっている。
わが家から、それこそ五、六分のところにその白い館・トムがある。
今夜も遅れて顔を出すと、そこのカウンターの一番奥から二人目の位置に座ってMはウーロン茶を前に、じっと耳を傾けていた。
ピアノ、ベース、ソプラノサックス、テナーサックスの音がなんとも心地よいのである。
私はこの日、私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」のメンテナンスでことのほかお世話になっているバイオリニストRがバイオリン演奏で出演したファッション&セッションを鑑賞しに多治見の山奥の『ギャルリ百草』にまで行っての帰りで、ジャズライヴの店に入ったときは、既に午後十時半近くだった。
Mは一人、ジャズの世界に浸りきっていた。ジャズライヴはやはり、私にとっても魅惑的を超えた良さがある。Mと並んで黙って聴きながら、ジャズの音(ね)は、人間の息そのもののようなものだ、と初めて思い知った。
「ジ・アイランド」「美女と野獣」。
帽子をかぶったいつものドラマー。サキソフォンを高く持ち上げホッペをふくらます黒い背広を着た男、鍵盤の上を軽快そのものに五本指を走らせる若い女。渋い味のある音には自らが陶酔しきった感で、こうべを垂れ、全身でリズムを取って吹く太っちょのベースマン。
ベースをピアノの音が駆けて追いかけてゆく。
逃げるベース。ベースが逃げる。
ドラムまでが、同じ音となって共鳴しながら囃したてる。
この間、サックスもテナーも押し黙ったままだ。
みな、この町にふさわしく、かつジャズライヴの店にふさわしくお似合いの演奏者たちである。
私はビンビールを飲みキムチ焼きそばを食べたが、辛かった。帰り際に「先日、大津の落雁をいただいてありがとう」と美空ひばりに生き映しのような店の女将から、思わぬお礼の言葉までいただいた。店を出ると、夜風がことのほかさわやかで満天の空には星が輝いていた。
Mと私は無言のまま、その道を歩いた。
二十六日
「河村さんが勝ったよ」
いつもなら「勝ったよ」と語尾しか言わないMが『かわむらさんが』と主語に力を入れた。お風呂上がりに、Mの部屋を覗くと私が名古屋市長選の結果を知りたがっている、その気配を察してか、日ごろはほとんど喋らない彼女はこう自ら口を開いた。
日曜日ということでアピタでの買い物に続きMに言われるまま苗木屋さんへ。Mはなんと、ここで高級園芸培養土五袋を買い込んだ。台所の窓辺に朝顔を咲かせたいからだ、という。どんな花を咲かせるのか。いまから、楽しみである。
二十七日
メキシコで発生した豚インフルエンザを巡って帰宅後、Mとあれやこれやと話し合った。タミフルが用意されているとか、新しい予防接種をつくらなければならないだ、とか。
けさは出勤途中に地下鉄鶴舞線丸の内駅で降りたところで異様なほどの、こ寒さを感じた。デ、携帯電話でMに「外に出るときは、あったかくせないかん」と電話をしようと思った。だが、電話音に階段から駆け下りてくる姿を思い出し返って危険だ、と電話をするのは差し控えた。
電話に出たMは、こう言うに違いない。
「そんなノロマ、阿呆じゃねえよ。バァーか。何が、階段からなんか、落ちるもんか」と。
こうしたとき、こう見栄とタンカを切るのもMならでは、だ。
二十八日
社近くの飲み屋で私が小牧通信局在任当時によく取材したアマチュア劇団「小牧はらから」の主宰だった小畠辰彦さんと一献傾け、十時過ぎ帰宅した。
NHKラジオで脳科学者がバッハについて話し、バッハが「G線上のアリア」の作曲者であることにMとの間で話が弾んだ。
「やっぱり小難しい。バッハはいや、ビバルディーの方がいいの」とM。
恥ずかしながら、私はバッハもビバルディーも知らないだけに、Mは何でも知っているな、と感心した。そんな私の表情に気付いてか、ビバルディーの「春夏秋冬」の方がいいの、と言うMは「だって、曲を聴けば聞いたことあると思うよ」と私を弁護してくれた。
二十九日
昭和の日。
そういえば、きょうは昭和天皇の誕生日で昔から休みだった。
今夜は中日ドラゴンズ公式ファンクラブの家族会員としてナゴヤドームに私たち二人が招かれている日である。だから、連休初日のナゴヤ球場の模様をチェック後、地下鉄大曽根経由で大曽根からは歩いてドームまで行ってみた。Mは他に用事が出来たためやむなく辞退した。それでも、せっかくの招待券なので二人にあてがわれた席に座ってしばらく観戦し、その後になって、いつものようにファンクラブ通信の取材を進めた。
帰宅後、いきなりMが「ライプチヒは、ドイツだった」とポロリと言うので「ライプチヒだって。何がライプチヒなんだ」と逆に聞くと「そうよ、きのうの夜、あなた私に聞いたじゃないの」「バッハが住んでたところ。それを言いたかったの。『ライプチヒって、どこだったけ』って。聞いたじゃないの。だから教えてあげたじゃない」とまたまた、攻撃的な言葉が跳ね返ってきた。
しばらくすると、Mが独り言でそれまでの会話をすっかり忘れたように「へーえ。そうか。だから薬師寺なのか」と自ら納得した様子でいる。何がなんだか、さっぱり分からないままでいると、これはインフルエンザが平安の時代にも流行していた、との毎日新聞の一面コラム「余録」について、私が「平安時代にもインフルエンザがあったんだって」とMに語りかけたのが原因だと分かった。Mは私などには全く目もくれず「だから平城京なんか」とも続け、得心したようだった。
それにしても今夜のチンプンカン会話の原因は、いずれも私の側にあったようである。
三十日
四月も、きょうでお別れ。
Mはきのう、リサイクルショップから帰る際、自転車後ろの輪っぱにゴムの荷ひもをからませていることに気付き、これを直そうとしたが時間がかかりそうなので、そのままにし帰宅したという。
「大丈夫か。一人で直せたのか」の私の言葉に「心配ないってば。少し時間をかければ、直せる。難しかったら、近くの自転車屋さんに行くだけのことなのだから」と答えていたM。
今夜、帰るといつもの黄色い自転車がこともなげに玄関先に置かれていたため私はホッと安堵した。
それにしても、新型インフルエンザ(日本では豚インフルエンザといまだに言っているが)が、じわじわと世界中に広がっている。ジュネーブに本部のあるWHО(世界保険機構)は、とうとう警戒ラインをフェイズ5にまで上げ、国内でも成田や中部国際空港などで検疫官らが水際での進入防止策に血まなこだ。
Mは言う。
「でも、おかしいよネ。これだけ科学が進んでいるのに。最後は防護マスクと手洗いだけが頼りだなんて」と。誠にもって同感である。
五月一日
金曜日。Mは今夜も自宅近くのジャズライヴの店「トム」に出向いた。このところ、ジャズライヴにはまってしまった感がある。
私は風呂から上がり、テレビを見ながらMがあらかじめ用意しておいてくれたソーメンとおでんなどを食べ、缶ビールを手に少しくつろいだあと「トム」に出向いた。
「トム」では、いつものようにカウンター一番奥にMは、居た。
横に座ると「長いもステーキがおいしいよ」と耳元でささやくので、長いもステーキを注文。ジョニウォーカーのロックを呑みながらジャズを聴いた。
夜道を歩いて帰宅すると、午前一時近かった。Mは、トムに行きだしてから、ジャズライヴのある日は皆勤している。
二日
世は新型インフルエンザの恐怖のなか、大型連休に入っている。
私はそれでも一線の新聞記者当時の癖が抜けないまま、仕事をためないためにも、と社に出向き中日スポーツに掲載された本日付ファンクラブ通信二本を公式ファンクラブのホームページにアップし、時間の許す限り取材と執筆、原稿の確認作業を続けた。
帰途。名鉄江南駅で降り、定期バスに乗ったところで携帯電話が鳴り続け、しばらくして切れた。
珍しくMからで、こうした時の私は決まって心臓がドキンとし、キュンとなるのだ。日ごろから口数が少ない彼女から電話がかかる時は、どうしても彼女にとっては必要な場合だけなので、その分「いったい何事か」と、不安と心配が胸をかすめるのである。
過去に大病を患ったMが急に胸が苦しくなって、めったにはかけてこない電話をひん死のからだでかけてきたかもしれない。もはや、一刻の猶予すらない…。
バスはまだ出発前だ。私は、他の乗客に遠慮しつつ携帯電話を鳴らした。
返ってきたのは「あのねえー、おばあちゃんが来たの。だから」
Mからの返事はただのそれだけだったが、内心ホッとしつつ帰宅して「それで」と聞くと、「わたしがお店から帰った直後のことで、これから夕飯作るから食べて行かれたらーと言ったんだけれど『野菜を持ってこないかん、と思って。もう帰るから。それから、あすは在所の法事に出ないかんから、家へは来んでもいいよっ』とただそれだけ話して車で帰って行ってしまわれた」とのことだった。このときになって初めて私は緊急にも似た携帯電話をかけてきたMを、嬉しく思った。
それにしても、来月一日が来れば満八十九歳にもなろうとする身で、ひとり車を運転して来る母も母なら、それを自然体でさらりと話すMもM。両方とも豪の女であることだけは確かだ。
私はMの心遣いで誰よりも先に母の来訪を教えられたのである。この夜、私とKはNHKで三つの顔と六本の手がある仏像、阿修羅の番組を見た。
この世では見えない何かが、どこかに潜んでいる。
三日
憲法記念日。二男・Yが岐阜県下の北方町で生まれた日である。
きょうはMに命じられるまま裏庭の整備(それは、アサガオをはわせるための壁かけネットの設置や、培養土をプランターに入れるといった、ただそれだけのことではあったが)や家の周りの雑草引きをした。そのあとで二人で平和堂に行く途中、コンビニにと言うので寄ると、Mはそこから段ボール箱にいっぱいの衣類をO市に住むYに送った。母と息子には心の通うものがあるようで私にはうらやましい限りである。
四日
久しぶりに母の住む実家に車で向かう。道すがら、私は愛車を運転しながら車窓に赤やピンクのツツジを見つけ「あっ、あそこも。そこにも咲いている」とKに言うと、彼女いわく「あのねえー、私が好きなのは、もっと別のツツジなの。『満天』と書いて、ドウダンと読むドウダンツツジなの。植物図鑑、持ってるでしょ、自分で調べてよ」ときた。
私にことのほか意地悪なM。彼女はそうは言いながらも、あれやこれやと私に教えてくれる。
五、六日
私は束の間の連休を利用して福井県大野市の九頭竜駅近くの笛資料館を訪れた。
ここで女性の指導者に教えられながら篠竹を材料に自らの横笛を作り、五日夜は国民宿舎パークホテル九頭竜に投宿。翌日は、かつて支局長として在任したことがある大津の義仲寺まで足を伸ばした。義仲寺は源氏の木曽義仲と俳聖・松尾芭蕉終焉の地で知られ、琵琶湖畔の境内には今も多くの人々が、その霊を悼んで訪れている。
寺を訪れた日、「境内ではつい先ごろまでドウダンツツジの白い花が満開だったんですよ」と坊守の女性に聞かされ、なんだか惜しい気がしたのである。Mが見たら、どんなにか喜んだことだろう。
七日
きょうは一日、雨ふりが続いた。
夜。帰宅して、昼の間に雨音にじっと耳を澄まして、久しぶりに作ってみた自由律俳句〈雨落ちる 泣きながら 笑いながら〉を、私の文学の師でもあるMに見せると「ながら表現よりもこうしてみたら」と誕生したのが<泣いてる 笑ってる 雨の音>というものだった。
しばらく自由律の俳句を忘れかかっていたので、これからはまたちょくちょく作句し、先生であるMに添作してもらおうか、と思う。
八日
先日訪れた大津の義仲寺で坊守さんが「ドウダンツツジは季節も終わりましたが、これからはショウブが育ち、ピークになりますよ」と話していた、とMに話すと「それは、おそらく花ショウブのことだと思う」の弁。「ショウブはサトイモなのだから」とも付け加えた。
私には義仲寺のショウブは図鑑で見るかぎり、花ショウブとは違う気がしたのだが。
九日
あすは母の日。Mは気を遣って、近くの花屋さんまで出向き私とMの両方の母に贈る手配をしたようだ。両方とも八十八歳。元気に長生きしてくれたら、と思っている。
プロ野球の方は、東京ドームで対巨人三連戦の二戦目だったが、わがドラゴンズは昨日に続き、きょうも負けてしまった。3対1。私がテレビ観戦していた限り、チェン投手は8回までよく投げ好機も訪れたが、あと一歩のところで涙をのんだ。これで借金は3。14勝17敗で首位を走る巨人の20勝9敗2引き分けと比べ大きく差をつけられた。でも、きょうの試合を見る限り、見応えは十分、まだまだいけそうな気がする。
ひごろ野球には無関心を装っているMだが、珍しくつぶやいた「負けてばっかり」のひと言が、私の心に突き刺さった。
Mも中日ドラゴンズを応援してくれている証明にちがいない。
十日
母の日。というわけで、まだ昼寝をしているはずだから、とのMの言葉に従って遅がけの夕方前に、実家の母の元へ。
「たったいま、T子さん(兄の嫁)とZ(私の妹)夫妻が来てくれ帰ったところなの」
八十八歳の母は、そう言いながら満足そうだった。さっそく亡き父の居る仏前へ。手を合わせたが、隣りの床の間の一段と高いところにカーネーションや菊、ユリ、カスミソウの花々が花飾りに活けられているのに気づいた。
案の定、Mから贈られた花がつい先ほど届いたので「飾らせてもらった」とのことである。Mはその豪華版を目の前に不服そうで「やっぱり自分で選ぶべきだった。花屋さんに任せるんじゃなかったわ」と独りつぶやいた。淡白な彼女には派手派手しく見えた自ら贈った花に不満が残ったとみえる。要は、もっと清楚な花にしたかったのだろう。
夜。NHKの大河ドラマを見たあとになって、わが家の次女猫シロちゃんが居ないことに気づき大騒ぎになった。私はじめ、M、息子までが血相を変えて家の隅から隅までの捜索を始め、私も家の周りをひと回りするなどした。
もう駄目か、とあきらめかかっていたところ、押入れの中でいつものニャアーンとシロちゃん独特のか細い鳴き声がするではないか。そこで念のため押入れを開けてみたところ、シロちゃんはそこにいたのだった。Mが冬の布団を押入れにしまいこんだ際に、いつもMの後ろをついて歩くシロちゃんが布団と一緒に閉じ込められてしまったと分かった。
一時的にせよ、シロちゃんの姿が消えたことで家族にとって、彼女の存在がどんなに大切なものか、を皆あらためて思い知ったのである。
夜には川崎の長男夫妻からMに花飾りが届き、Mがうれしそうに玄関先に飾った。
十一日
月曜日の朝。幸い天気はよい。
いや、むしろこの季節にしては暑すぎるのだが…二階ベランダにMがきのうの間に電気洗濯機にかけておいた毛布数枚が他の雑多な洗濯物と一緒に干され、山と干された光景を見ただけで私の胸はつまりそうだ。
ほかに食事の準備や買い物、猫ちゃんたちの世話ばかりか、半ばボランティア同然で運営しているリサイクルショップの切り盛り、カッターシャツのクリーニング屋さんへの持ち込みと、Mのやることは、あまりに多すぎる。ためいきが出てしまう。
それにきょうは月に一度の検診日で隣町の病院にも行かなければならない。
内心、大丈夫だろうか、と気遣いながら家を出た。
それでも、帰宅しM手づくりのおいしい料理が並んでいると、心の中で「ああ、Mはきょう一日を無事でいてくれた。よかった。それにしても、あんまり無理しないように。働き者のMを守ってください」と、Mの前では何げない顔でいながらも、その一方で見えない神さまに向かって祈りを込めてしまう。
私は、こうしてMの住む家に毎日帰ってくるのだなーと、どこか感傷的な気分にもなるのである。別に私んチに限らず、人は誰もが毎日、家族の元に帰って来るのである。人間とは不思議ないきものだなっと、つい思ってしまう。
私は間隔をおいて忘れていたことを思い出したように「病院、どうだった」とMに聞くと「いつもどおりよ」と、いつもの返事が飛んできた。私は気を遣い、それ以上は何も聴くことが出来ない。
十二日
今宵、Mは火曜日の夜なのでいつものように近くの福祉センターに行き大好きなフォークダンスを楽しんで帰ってくる。こうした夜は事前に、カレーとかチャーハンとか、おでんなどを用意してくれている。
それが、今夜はひと味違った料理がテーブルに並べられていた。
私には一見して分かる料理で、あの志摩の海女さんたちがつくって食べる、「てこね寿し」である。てこね寿しと言えば、納棺夫日記の著者、青木新門さんが七尾の支局長住宅を訪れた際、Mが手づくりのてこね寿しを出すと、気に入ってくださった日がつい、きのうのようでもある。
今夜は、もちろんのこと、カツオの刺身を白米にまぶし、酢を入れてMがごはんと一緒に手でこねてつくった、まさに、あの志摩の味が食卓に登場していたのである。もちろん、アッという間に平らげた。
Mはずっと以前から俳句と短歌に励んでいるが、調理師資格があるだけに、料理の味もまた格別である。本当においしかった。ごちそうさま、M。
十三日
高校一年生のこの日。
私はK市内の私立高校柔道場でI先輩と乱取りをしていて捨て身小内刈りをかけられ右足を複雑骨折し、その年の年内は登校もかなわず、自宅療養をしながら足の回復を待った。接骨医は確か「まんさどう」さんと言った気がする。
当時、私は普通科で文武両道に自分なりの夢を託していただけに、入学後まもないアクシデントには、悔しい思いをしたことが忘れられない。担任も柔道のS先生もよく自宅を見舞ってくださり、深く感謝をしている。
でも、私の足の骨を折ったそのI先輩だけは、とうとうただの一度も私の家に見舞いには来てくれなかった。あのとき「許そう」と思い、あれほどまでに来る日も来る日も先輩が来てくれる日を待ち望んでいた、というのに、だ。
それから三十数年後。私が新聞社の支局長として社会的評価が高くなって初めて盛んに「やあー、やあー」と近づいてきた。私はたいていの人間を愛するが、このように調子のいい人物だけはいただけない、と思っている。
私はあのとき半年以上休んだが、それでもなんとか進級し二年には講道館柔道二段を、大学入学後も一年で同三段を取得した。その後、新聞記者としてどうにかやってこられたのも、柔の道の気迫と精神力があったればこそ、といまも思っている。
私は、精力善用・自他共栄のことばが大好きである。柔道をする人には自らも磨いてほしいのである。
十四日
Mは、けさリサイクルショップmに行く前に、近くの郵便局に寄り、最近思潮社から出版された詩人最匠展子さんの詩集十冊の本代と21年分自動車税を払い込んできてくれた。
ありがとう。Mには、いつも助けられ通しで感謝している。
十五日
風呂から出て食事をしにかかると、Mが(NHKの定時ニュースのあとも)そのままにしといて、と言うので何かと思い、Mと一緒に「コンカツ・リカツ」という番組を見た。こんどは「チャンネル11(メーテレ)にして」というので従ったところ、Mの大好きな「探偵ナイト」だった。
いずれにせよ、同じメーテレの報道ステーションで見るつもりでいた「あす民主党新代表決定 多数派おさえる鳩山氏 逆転狙う岡田氏に秘策あるのか? 直前情勢」は見ることが出来なかった。
第108回文学界新人賞受賞作のシリン・ネザマフィさんの「白い紙」を読み終えた。なかなかの秀作なのでMも読むとよい、と私の希望だけを言い文学界を彼女の座るテーブルの前に置いた。
十六日
土曜日なので近くのトムでジャズライヴのある日である。
当然、Mは出かけるものと思いナゴヤドームから市役所、社経由でいつものように地下鉄鶴舞線、江南駅からはバスで帰ると、Mは珍しく「今夜は行かないの」ときた。何があったのだろう。
……
(続く)