連載小説「死神の秘密〈その6〉」

  6

 目が覚めた瞬間に白い天井を見て、また白い空間に閉じ込められたのかと思った。いつも通り起き上ろうとするが、身体が妙に重くて上手く動かない。加えて何か違和感を持った。背中には布の感触で、自分がベッドの上に寝ているのだと認識する。
「なんだ、これ」
 口を動かすと、かすれた声が出た。
 訳がわからなくて、とりあえず横の手すりを使って無理矢理身体を起してみる。腹にちくりとした痛みが走った。
 それから突然、どこからかアルミ板が落ちる音がして驚いた。音のした方を見ると、そこには小森豊の母親がいた。
「なんで、母さんが」
 豊は目を丸くした。母親は声も出ないのか、その場で泣き崩れてしまった。
 白い天井。白いシーツのかかったベッド。腕から伸びた細い管の先に、何かの液体が入った透明の袋が見える。点滴のようだった。どうやらここは、病院らしい。
 母親が落としたのはアルミで出来た銀色のお盆。幸い何ものせていなかったようで、お盆以外の被害はない。
「よかった。豊、よかった。目が覚めて」
 泣きながら、母親は何度も、何度もよかったと呟いた。
「母さん。母さん、俺は一体どうしてここに」
 豊はなんだか久しぶりに母親の顔を見たような気がして、嬉しいような。でも泣かせてしまっていることが哀しいような。複雑な気分だった。
「ごめんね、豊。母さん、あなたが苦しんでいるのに気付かなくて。ごめんね、お腹痛かったでしょう。すごく、すごく痛かったでしょう」
 涙を拭っても、後からどんどん溢れてくる。母親の言葉に、豊は自分が腹をナイフで何度も刺したことを思いだして、腹部を触ってみる。皮膚に何か、ガーゼのようなものが貼られていた。胸部に右手を当てたら、心臓が鼓動しているのがわかった。
「俺、生きてる?」
 思わず母親にそう質問していた。
「うん。うん、生きてる。生きているよ。豊は、助かったのよ。助けられたのよ。よかった、本当に」
 何度も頷いて、母親は豊を抱きしめてくれた。その腕は小さく震えていて、けれどとても強い力だった。
 生きていた。自分は生きていたのだと豊は理解する。
「……よかった」
 豊は呟く。心の底からそう思うことが出来て嬉しかった。知らぬ間に涙が、頬を伝っていった。
 母親を泣かせてしまったのは哀しい。けれど、こうして戻ってくることが出来て嬉しかった。生きていたことがこんなに嬉しいことだなんて思わなかった。
「母さん。心配かけて、ごめんなさい」
 豊は母親に謝った。申し訳ないことをしたと思う。自分は間違ったことをしたのだ。自分が死んだ後の、母親の気持ちなど全然考えていなかった。ただ苦しみから逃れたかった。自分勝手だったのだ。
「いいのよ、豊。生きていてくれて、目覚めてくれてお母さんは嬉しい。本当に、嬉しいのよ」
 泣きながら、母親はそう言った。
 豊は震える母親の背中に手を添える。その身体はとても細く、小さく思えた。
 それから少し落ち着いて、母親が医者を呼んでくると言って病室を出ていった。
「あれは、夢だったのかな」
 母親を見送ってから、豊は思い出すようにそう呟く。
 目が覚める前、豊は死神ユタとして仕事をしていた。人の魂を切っていた。それが現実だと認識していたはずなのに。本当は夢だったのだろうか。豊は死んだと言われていたのに、実際は生きている。何が夢で何が現実なのかわからない。
「あ、そうだ。財布。父さんの、財布」
 ふいに思いだして、それを探すためにベッドから降りる。床に足をつけて立ち上がると、足元がふらついた。どれだけの期間眠っていたのだろうか。筋肉が衰えてしまったらしい。
 傍にある棚の引き出しを開けて探してみるが、財布は見当たらなかった。母親が持っているのだろうか。豊はそう思って、母親を探しに病室を出た。
 お守り代わりだったので、あれが手元にないと不安になる。切り裂かれそうになったのを必死で止めたので、無事を確かめたい。それに、財布があればこれが現実なのだと改めて知ることが出来る。
「ユタくん」
 よろよろと廊下を歩いていると、突然後ろからそう声をかけられた。どこかで聞いたことのある声。多分、夢の中で。
「やっぱり、ユタくんですよね」
 振り向くと、そう尋ねられた。豊も驚いた顔をしたが、相手も同じ顔をしていた。しかしどこか険しい表情。ショートカットのよく似合う彼女だった。
「シノ?」
 夢の中で呼んでいた彼女の名前を、疑問を含めて口にしてみる。
 彼女は頷いてから、言う。
「はい、シノです。こんなところで会うなんて思ってもみませんでした。どうしたんですか、そんな格好で。まるで入院患者みたいですよ」
 確かに豊は今、パジャマを着ていた。場所と着ているものを見ればそう思うのは当然か。
「それは、俺もよくわかんなくて。あれ、シノがいるってことは夢じゃなかったのかな。もう何がどうなっているのかわからないよ」
 豊は困惑しながら言った。
「何を言っているんですか、ユタくん。すべて現実ですよ。ユタくんが実は生きていて、こうして意識を取り戻したのも。ミキちゃんとミナトくんが実は生きていて、同じように二人とも意識を取り戻して今この病院内にいるのも。僕の身体がまだ病室で眠ったままなのも。すべて、現実ですよ」
「え? ど、どういうこと」
 豊は首を傾げる。
 シノが言っていることの意味が、豊にはよくわからなかった。すべてが現実。実は生きていた? 何を言っているのだ、彼女は。
「サクさんに、嘘をつかれていたんですよ。僕たちは。手の平の上で踊らされていたわけです。ミキちゃんとミナトくんが消えてしまってから、何かおかしいと感じたのでいろいろ調べたんですよ。いいえ、だいぶ前からやろうと思っていてやらなかったんです。僕はサクさんを信じていましたから。多分、みんなそうですよね。サクさんの言葉を信じたから、調べなかったんです。信じたかったから、調べようとしなかったんです」
 シノが立っている場所のすぐ傍の病室。言いながら、シノはそこのネームプレートを、何を思ってか指で触っていた。
 豊は唖然としていた。今シノが言ったことは本当なのかと思いながら。でも確かにサクのことを信じていたのだ。豊に死んだと言ったサクのことを。
「ここは、僕たちが死神になる前に住んでいた街。確かにそうですよね。おかしいと思いませんでしたか。何故わざわざ遠方の街の、あんな小さなアパートに住まわされていたのか。死んだ人間とそっくりな顔が歩いていたら混乱するから、それを避けるため? それは、ただ理由の一つです。本当の目的は、僕たちが完全に死んではいないことを、気付かせないため。本体を殺させないためです」
「そんな」
 シノの言葉に、豊は目を丸くする。
「ユタくん。僕たちは真っ先にこの街を、探すべきだったんですよ。探して、つきとめて。眠っている自分を殺すべきだったんですよ。現にミキちゃんもミナトくんも、そしてユタくんまで生きているじゃないですか。目覚めてしまったじゃないですか。耐えられるんですか。これからも人生、続いていくんですよ。年老いて死ぬまで。病気で死ぬかもしれませんし、事故で死ぬかもしれません。誰かに恨まれて殺されるかもしれないのに、そういうの全部、覚悟しているんですか」
 シノは笑っていたけれど、笑ってはいなかった。心の中は絶対に、笑ってなどいない。
 けれど豊は答える。目覚める前に思ったこと、素直に全部伝える。
「うん。覚悟しているよ。俺はそれでも生きていこうと思った。大切な人のために。俺のことを大切に思ってくれている人たちのために生きるって決めた。哀しませたくないから、自分で自分のことを殺すのは、もう止めたんだ。だから」
 豊が最後まで言う前に、シノが口を挟んでくる。
「だから、なんですか」
 冷たい声色だった。
 シノが触っていたネームプレートから、変な音がした。強い力がかかっているみたいで、今にも折れるんじゃないかと思うぐらい。
「僕はごめんですよ。そもそも、この世に自分という存在がいることが耐えられないんです」
 その言葉で、豊は気付いた。あのネームプレートに書いてあるのは、きっとシノの本名だ。あの病室に、シノの本体が眠っているんだ。豊はシノの前まで歩いて、それから立ちはだかるように病室を背にした。
「シノ。何を言っているんだよ。確かに、サクが嘘をついていたことは怒っていいとは思うけど、でもそれで結果的に目覚めてよかったって、俺は思ったんだよ。だから、早くシノも目覚めるといいなって思うんだよ」
 豊は先ほど感じたこと、思ったことを正直に言う。
 シノを守らなければと思った。彼女は今、酷く傷ついている。
「ふざけないでください」
 シノは怒っているような声を出す。
「ふざけてないよ。俺も、思ったよ。ミキとミナトが消えたとき、俺も消えたいって思ったよ。存在が消えるなら、それが一番いいって。でも、実際は違ったじゃないか。二人とも生きてるんでしょう。俺も今は、生きていてよかったって本当に思うよ。シノは思わないの。素直によかったねって思わないの」
 豊はシノに尋ねた。
 現実の自分と、死神だった時の自分が混ざり合っている感じがした。どっちが本当の自分だったのかよくわからない。けれどミキが言っていた。両方とも自分だと。ああ、こういうことかと思った。こうやって誰かを説得するくらい、強気な自分もいたのだ。
「思いません。思えません。あなたに、僕の何がわかるって言うんですか。なんにも知らないくせに。他人が自分と同じ考えだと思わないでください」
 首を振るシノ。それは拒絶だった。
「わからないのは当たり前だよ。わからないから、教えてよ。シノはこれから何をしようとしているの」
 豊は質問する。シノの本心を知りたかった。応えをもらうまでは一歩も動くものかと思っていた。
 しばらくの沈黙の後、シノは右手で豊の後ろを指した。
「そこを、どいてください。殺しに行くんです。自分を」
 力強い声で、シノが言った。彼女はもう、それを決心してしまっていたのだ。
 豊は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
「それはダメだなぁ。シノ」
 突然に背後の扉が開いて、そう言うサクの声がして豊は驚いた。後ろを向くと相変わらず高身長の男が偉そうに立っていた。
「び、びっくりさせないでくださいよ。なんでいるんですか」
 豊は胸を押さえながら言う。
 死神だった時には感じなかった心臓の鼓動が、自分が生きていることを自覚させる。
「お、悪いな。しかし一か月寝たきりだったのに元気だな、お前は。まあ若いから回復も早いか。んで、シノはよくここまで辿り着いたな。感心するよ。なまじ頭が良いからか、妙に勘が鋭い。いろいろ誤魔化せないな。俺の部屋に勝手に入ったり、秘密の空間に勝手に入ったり。挙句の果てには病院までつきとめて、ここまできてしまったか」
 サクは言いながら頭を掻いて、それから嘆息を漏らした。
「シノがいなくなったって聞いたから、俺はここで待っていたんだよ。そろそろばれる頃かなと思って、念のために」
 シノも驚いていた様子で目を丸くしていたが、サクの言葉を聞いて少しだけ頷いた。
「サクさん。どうして僕たちを騙していたんですか。納得のいくように説明してください」
 それは豊も尋ねたかった。結果はどうあれ、騙されていたことに変わりはない。
「自殺未遂者を強制的に死神にして働かせる。死神化計画というものがあってな。名称のまんま、つまりはそいつらに命の重さ、自分たちが犯した罪を知ってもらうっていうのが目的なんだが。……と説明したところで、納得するつもりはないよな、シノ」
 サクの言葉に、シノは答えた。
「そんなの、当たり前です」
 油断したのだと思う。豊はサクの方を向いていたから、シノの表情や行動が見えなかった。気付いた時にはシノが病室に足を踏み入れていた。サクも反応が遅れたらしい。「ちっ」という舌打ちと共に振り返る。
「そう来たか、小娘。端から話しなんか聞くつもりはないんだな」
 シノは一切の躊躇もしなかった。サクの話しなど聞く耳持たずという様子で。
「当たり前です」
 病室に飛び込んだシノはもう一度同じ台詞を言う。眠っている身体の前に立ったシノは、右手のブレスレットを引きちぎるように外した。
 その瞬間、豊の目にシノが映らなくなる。死神になったシノの姿は、豊の目には映らない。
「やめろ!」
 サクが叫んで、病室に一歩踏み込みながら右手を伸ばす。
 必死な表情のサク。シノに何かしたのだろうか。豊には、何が起こっているのかわからなかった。何も見えなかった。
「サク。シノは、どうなったの」
 怖々尋ねると、サクが答えた。
「なんとかなるもんだな。タイミングが悪ければ、やられていたよ」
 サクの手は何かを呼ぶように動かされた。それから何かをつかむような動作をし、それをそのまま腕時計の中に入れたようだった。もちろん豊にはその何かは見えていないから、何をしたのかまったくわからなかった。
 病室には眠っているシノの本体と、サクと、豊の三人だけがいた。
「どういう意味」
 豊は首を傾げる。
「死神化計画は、最終的にもう一度生きたいと本人に思わせることだ。俺が嘘をついていた最大の理由、わかるな。こういう事態を防ぐためだ。もし戻る身体を失って本当に死んだら、確実に後悔するぞ」
 そんなことは訊いていないのにと豊は思う。もう十分理解した。サクが豊たちのために嘘をついたこと。いろいろしてくれたこと。一番伝えようとしていたこと。今ならそれでよかったと思える。けれど、それどころではないのだ。
「シノを、どうしたの」
 豊はもう一度サクに尋ねる。
「例の白い空間に入れた。シノは今、この時計の中だ」
 サクはそう答えると、腕時計を指差した。それには時間を読むための数字はなく、ただ点が並んでいるだけのシンプルなものだった。針は午後三時頃を示している。
「入れて、その後どうするの。どうするつもりなの」
「まったく、質問が多い。逆に聞くが、お前はどうしたい。シノを救いたいのか。お前はシノを救えるのか」
 サクに尋ねられて、豊は怖くなる。
「そ、そんな風に聞かれてもわからないよ」
 自分に、シノが救えるかどうかなんてわからない。自信なんてない。けれど。
「成長がないな。そこは肯定するところだろう。まあ、いい。自分がどうしたいかは自分で決めろ。それで出した結果なら、俺はそれでいい」
 サクに言われて、豊は考える。どうしよう。どうしたらいい? 自分に問う。説得しても聞いてもらえないかもしれない。でも、必死になれば届くかもしれない。迷う暇はない。迷う必要はない。豊は、シノを助けたいと思っているのだから。
「サク。俺も時計の中に入れてくれないかな」
 真剣な表情で、豊はサクに言った。
 生身で入れる場所なのかは疑問だったが、そこにシノがいるのならどんなことになってもいいと思った。
「この時計で三分だ。それ以上は危険だからな。三分経ったら強制的に戻すぞ。それでいいか」
「うん。頑張ってみる」
 豊は力強く頷いた。
 サクは微笑すると、豊の胸部に手を当てた。その手は大きく、冷たかった。

 落ちていく感覚があった。いや、感覚ではない。実際に落ちていた。時計の中に落ちていく。意識が、魂ごと落ちていく。着地のことなど頭にはなかったから、思いきり床に身体を打ち付けてしまった。
「いててて」
 と思わず口にしたけれど、痛くはなかった。痛くはないのに頭を押さえてしまって、少し恥ずかしくなった。
「ああ、そうか。身体がないから痛くないんだ」
 一人呟いて、立ち上がる。辺りを見回すとただ白い空間が広がっていて、近くにシノがうずくまっていた。目的が果たせなくて落胆しているのかもしれない。と豊は思いながら、「シノ」と声をかけた。
 肩を震わせて、シノは豊の声に反応する。
「あなたたちみたいに、なりたかったです」
 消え入りそうな小さな声で、シノは言った。
「なれるよ。シノだって、きっとなれるよ」
 強く確信して、豊は言う。けれどシノは、首を振った。
「僕はなれません。なれないんです。ユタくん、どうして来たんですか。どうして僕なんかのために。危険だとわかっているでしょう。ここで僕があなたの魂を切ったら、自分がどうなるかわかっているんですか」
 顔を上げて、豊の目を真っ直ぐにみつめてシノが言った。
 わかっていた。サクが豊の魂を身体から引きだして時計へ入れたこと。だからこうも身体が軽いこと。痛みを感じないこと。サクが制限時間を設けたのはそのためだ。三分以上身体から離れていれば、危険だから。元に戻れなくなるかもしれないから。
「うん。でもシノは、俺のこと切らないでしょう」
 豊が言うと、シノの眉が微かに動いた。その通りだと言うように。
「ユタくんは本当に、バカです。どうして少しも疑わないんですか」
「だって、信じてるから。シノは、俺のこと切らない。切れないよ。だってシノは、そういう優しい人でしょう」
 豊の言葉に、シノは首を振る。
「そんなの、わからないじゃないですか。僕が本当は優しい人じゃなかったら、優しいふりをしているだけだったらどうするんですか」
「その時は、その時考える。それにさ、そうやって言うってことは、やっぱりシノは優しい人なんだ。だから俺は、そんなシノを救いたいと思うよ」
 豊はそう言って、微かに笑みを浮かべる。それは今の自分の正直な気持ちだった。
「やめてください。そういうの、やめてください。余計なお世話ですよ。救いたいなんて、そんな簡単に言わないでください」
「うん。ごめん。でも、俺はシノにも、もう一度生きてほしいと思うんだ」
 真剣な表情で、豊は言った。ミキのようにミナトのように、そして自分のようにもう一度生きてほしい。生きる希望を持ってほしいと豊は思った。
「いやです。それだけは、いやです。消えたい、消えたいです。僕は、消えたいです」
 何度も消えたいとそう言って、シノは頭を抱えていた。
「シノ、どうしてそんなにいやなの。話してよ。何か力になれるかもしれない」
 豊はシノと同じようにその場にしゃがむ。同じ目線で、しっかりと彼女をみつめる。
「俺はね、シノ。死神になる前、俺もずっと友達とか仲間がいなかった。相談する相手が誰もいなくて、辛いことも苦しいことも一人で抱え込んでいたんだ。でもさ、草葉荘にいて思ったことがある。仲間とか、そういう悩みを相談する相手がいるのってすごくいいことだなって。気持ちが楽になるなって。俺も、シノやみんなに助けられたんだよ」
 豊がほしくても手に入れられなかったものがそこにはあった。草葉荘は大切な仲間たちのいる、大切な場所だった。
 仲間だから助けたいと思う。それは悪いことじゃないはずだ。豊はそう思う。
 シノは豊から視線を外す。迷っている様子だった。口を開きかけたけれど、すぐに閉じて。それを何度か繰り返した。豊はずっとシノをみつめていた。
「僕は……」
 呟く。シノは何かを覚悟したように、ゆっくりと話し始めた。
「僕は生前、厳格な父と教育熱心な母の間に生まれた男の子でした。小さな頃から厳しくしつけられ、一番でなければ褒められない、可哀想な子どもでした。僕は常に一番を欲しました。そうしなければ、両親に怒られてしまうから。僕は優等生になりました。学級委員長。生徒会長。まるで絵に描いたような人生でした。父と母の理想でした。でもそれも、ある日突然壊れてしまいました」
 哀しそうで寂しそうな表情だった。遠い過去を振り返るような、そんな感じでシノは続ける。
「親の敷いたレールに乗り大学へ入り、しばらくした頃でした。それは突然やってきました。唐突に、起こりました。僕は呼吸困難に陥り、倒れました。本当にいきなりでした。周りのみんなが僕のことを心配してくれました。僕はそれがとても嬉しかったのです。今までそんなことありませんでしたから。みんなが、両親が心配してくれる。僕はそれからもたびたび呼吸困難になり、ついには医者にパニック障害だと診断されました。精神がボロボロになっていくのを感じました。それでも僕は優等生をやめられず、やがて抑鬱状態も併発するようになりました。僕はもう、死ぬしかないと思いました」
 シノは震えていた。聞いているだけで豊も胸が詰まりそうだった。
「いつ発作が起こるかわからない恐怖でいっぱいだったんですよ。僕は自傷行為がやめられなくなって、最後には首を吊りました。僕は死神になんてなりたくありませんでした。やっと終わると思ったのに。死神になったと知った時、本当に心の底から神様を恨みましたよ。どうしてこんなことをするのかと。僕は一体なんの罪を犯したのかと思いました。自分で自分を殺すことはそんなに悪いことですか。じゃあ、どうして僕をあんなに苦しめたんですか。卑怯じゃないですか。挙句、実は死んでいませんでしたなんて、どれだけ僕をおちょくれば気が済むんですか」
 シノの目に、涙が溜まっていた。いつこぼれてもおかしくないくらい。
 豊はただ黙ってシノの話を聞いていた。
「僕は草葉荘に来た時、最初はみんなと慣れ合う気はなかったんです。でも、だんだん楽しくなってしまって。気付いたら、みんなと一緒に笑っていました。でも、それでも不安でした。サクさんに望んだ自分になれると言われて、ああ、これで不安ともおさらばかなと思っていたんですが。望んだ自分が女の子で、女の子として過ごすうちに何か違う気がして。中身は変わっていないのではないかと思えてきたんです。僕は生前と同じようにならないように努力しました。でも、いい子の皮は結局外せなかったんです。僕は違う自分になりたかったのになれませんでした。僕だけが。僕だけが前とまったく変わらずにそこにいたんです。僕はみんなが羨ましかったんです」
 シノはいつも笑顔だった。でも多分、それはシノの言ういい子の皮だったのだろう。豊はシノが可哀想だと思った。違う自分になりきれない彼女が、笑顔の裏でいつも何を思っていたのだろう。
「きっと女の子になれば、性別が変われば性格も変わるんじゃないかって、そういう安易な考えだったんですよ。バカですよ。僕も結局、浅はかな人間だったんですよ」
 本当にそうだろうか。と豊は思った。シノは頭が良い。サクも言っていたではないか。頭がよくてその分、余計なことに気を回してしまうのだろう。
「シノ。前に、落ち込んでマイナスなことばかり言ってたミキに向かって言ってたよね。らしくないって。いつも明るくて奔放なミキが今のミキだって。そんなようなこと。上手く言えないけど、別に無理して違う自分になろうなんてしなくていいんじゃないかな。みんな、自分は自分なんだしさ。そのままでいいよ。無理しなくていいよ。シノは頑張ったよ。みんなのこと、いつも優しく見守ってくれてたよね。俺、それですごく安心してた。ありがとう」
 豊が微笑むと、シノの涙がとうとう頬を伝って彼女の手の甲に落ちた。
「僕は、生きている意味がずっとわからなかったんですよ。さっき眠っている自分を見たときに思いました。僕たちの罰は終わらせるべきです。でも、どうしたらいいんですか? 僕は、あなたたちみたいに強くない。だからあんな方法しか、思いつきません」
「大丈夫。シノは強いよ。シノならきっと、もう一度生きられるよ。それに、もう一人じゃないから。俺たちがいるよ。ミキも、ミナトも、俺も。それからサクだって。一人で苦しまなくていいんだ。俺もそれがわかったから、生きようって思えた。大切な人たちのために、生きようって思ったんだ。その人たちが、俺を必要としてくれるのなら。死んでもさ、生きていた頃の証は残るんだ。誰かの心に残る。記憶として。だから残された人たちはずっと死んだ人のことを覚えている。記憶の中で生き続けるんだ」
「ユタくん……」
 シノがユタの名を呼ぶ。何だか懐かしい響きだった。
 もうすぐ時間切れのようで、豊は自分の身体が消えかけていることに気付いた。輪郭がぼやけていく。体感ではもう三分以上経っている気はするが、サクの時計ではもう少し残っているらしい。あと数十秒といったところか。もしかしたらこの空間と、現実の世界では時間の流れが違うのかもしれない。
「ユタくん、身体がっ」
 シノも気付いたようだった。
 ユタは内心焦りながら言葉を紡ぐ。
「シノ。もう一度生きてほしい。頑張って生きてほしい。それでさ、もし身体も動くように、元気になったらさ。またみんなで集まって草葉荘に行こう。そうしたらさ、思い出話とかして一緒に笑おう。それと、俺が助けたい女の子。その子に会わせるって言ってたじゃん。だから、約束」
 そう言ってから、豊の意識はまた途切れた。
 その瞬間、最後に見たのはシノの泣き顔だった。

 放課後になって、帰ろうと思ったので百合子は下駄箱にいた。いろいろ考えていたけれど、やはりユタのことが気になって仕方がなかった。
 靴を履く。どうすることもできないことがわかっているので、いつもの日常を送るしかない。ため息をついた。
「幸せが逃げるぞ」
 突然聞いたことのある声がしたので、百合子は驚いた。声のした方を見ると、腕を胸の前で組んだ長身の男、サクが下駄箱にもたれて立っていた。
「どうして、ここに」
 何か用でもあるのかと、百合子は首を傾げた。
「報告があってな。恐らく君に会うのはこれで最後になるだろう」
「何故ですか」
「嘘はつき続けられるものではない。嘘に嘘を重ねても、誰も幸せにはならない」
 サクの言葉に、百合子は眉をひそめる。
「どういう意味……」
 遠まわしすぎてわからない。
「ユタが目を覚ました。それで今、最後の一人を救いに行っているよ」
 百合子は目を丸くした。今の言葉は本当なのだろうか。ここは、喜ぶべきところなのだろうか。そんなことを思った。
「よかったじゃないですか」
「ああ。これで俺も、安心して次のところへ行ける」
 サクは頷いてそう言った。彼の言葉に、ああこの人はそういう人なのだと百合子は理解した。
「次ですか」
「いくらでもいるんでな。あいつらみたいな死にぞこないは」
 そう言って、サクは哀しそうな表情をして笑った。
「なら、お別れを言いに来たんですか」
 百合子は尋ねる。
「俺が君に? いや、違うよ。しいて言うなら、懺悔しに来たかな」
「懺悔って、何をですか」
「俺はね、正直羨ましかったんだよ。あいつらには人生のやり直しがきく。けれど、俺はもう出来ないから。あいつらとは違って、戻る身体はとうの昔になくなっているからな。どんなに望んだって、俺はあいつらと一緒には、笑えない。だから多分、これから先もずっとそうやっていくんだ」
「そうですか。それはなんだか、寂しいですね」
 百合子がそう言うと、サクは微かに頷いてから「じゃあな」と言って去っていく。
 寂しそうな後ろ姿がふいに消えて、見えなくなって。百合子は急いで昇降口を出て空を見上げた。しかし鳥しか飛んでいなかった。そこには誰もいない。
「サクさん。あたしは覚えているから。見えなくなっても、ずっと覚えているから」
 多分まだ彼はいると信じて、言葉が届いていると信じて百合子は言った。百合子の目にはもう、死神は映らなかった。少し寂しい気もするが、これでよかったのだと百合子は思う。
「ありがとう。さようなら」
 百合子は最後に、そう呟いた。

 重い瞼をゆっくりと開けると、目の前に誰かが寝ていた。状況を理解するのにそんなにかからなかったが、それなりに驚いた。部屋の中には椅子に座っている豊と、眠っている彼しかいなかった。サクの姿は見当たらない。どこへ行ったのだろうか。
 豊は眠っている彼をまじまじと見てみる。シノにそっくりな顔立ちで、元々が女顔らしい。本当に男なのかと疑いたくなる。きっと性別を変えた理由は、性格だけじゃなく、見た目から影響を受けている部分も少なからずあるだろう。
 シノは、目を覚ましてくれるのだろうか。不安が豊を襲う。けれど、信じようと思った。彼は絶対に、目覚めるはずだ。
「ん……」
 祈るような思いでみつめていると、シノの身体が微かに動いた。
「シノ?」
 豊は慌てて立ち上がる。
「よかった。俺がわかるか」
 ゆっくりと薄眼を開けたシノに、豊は問いかける。シノは小さく口を開けた。
「え、なんて」
 何か言った気がして、豊はシノの口に耳を近づける。
「ありがとう、ございます」
 確かにそう聞こえた。
 豊は嬉しくて、思わず顔が綻んだ。
「どういたしまして」
 それから、二年ぶりに目覚めた彼は身体の検査をすることになった。豊も病室に戻されたが、母親にどこへ行っていたのかと怒られた。また心配をかけてしまったらしい。もう元気すぎるくらい元気だと言ったが、やはり豊も身体の検査をすることになった。まあ結果が出るまでは入院しなければならないが、すぐに退院できるだろうとのことだった。
 翌日、暇を感じた豊は病院の屋上に行ってみた。屋上という場所はどうしてこう、どこへ行っても気持ちの良いものなのだろうか。そんなことを思って、干してある白いシーツを見ながらぼうっとベンチに座っていた。
「やっぱり、ここにいた」
 ふいに後ろから声がして、豊は驚いて振り向いた。聞き間違えるはずのない声。ここにいるはずのない人物の声。
「え、なんでここに」
 まったくよくわからなかった。彼女がここをわかるはずがない。ここは彼女がいる街とは離れた別の街だ。事情を知らない彼女が、ここに来られるはずがない。
「病室にいないから、多分、ここだと思って。あなたは屋上が好きだから」
「そうじゃなくて、なんでこの街にいるの。なんで、病院にいること知っているの」
 豊は矢継ぎ早に尋ねる。
「サクさんに教えてもらった」
 百合子が言いながら、豊の隣に座る。
「そうだ、サク。あの人どこに行ったんだろ」
 思い出したように言う。そう言えばあれ以来、姿を全く見ていない。
「ユタ、落ち着いて。サクさん、もう次のところへ行ったみたい」
 冷静な態度で、百合子は言った。
「どういうことだよ。まったく、なんにも教えてくれなかった。あの人。百合子は知ってたの。いつの間にサクと会ってたの」
 ため息をつきながら、百合子に疑問をぶつける。
 わからないことだらけだ。
「言わないって、約束だったから。言ったら、あたしの記憶を消すって言われていたから。だから全部黙ってた。……ごめんね」
 遠慮がちに謝られて、豊は怒る気も起きなかった。
 記憶を消すって、大事じゃないか。と驚いていた。
「なんか巻きこんじゃったみたいで、こっちこそごめん」
 豊の知らない間に、百合子を危険な目に会わせてしまったのではないかと不安になる。だから豊も謝った。
「謝らなくていい。生きていてくれただけで、嬉しいんだ。あたしのこといろいろ助けてくれてありがとう。少しずつだけれど、状況はよくなってる」
 百合子の言葉に、豊は少し嬉しくなる。よくわからないけれど、自分のしたことは間違っていなかったらしい。
 空は青かった。風が心地よい。ずっとここにこうしていたい気分だった。
「俺、あれからいろいろ考えたんだけど。騒ぎになっているし、もう元の高校には通いづらくて。だったらもう転校しようかと思って、蒼井戸高校に」
 豊が言うと、百合子の表情がみるみるうちに変わっていくのがわかった。
「ほ、本当なの」
 今までに見たことのない顔。嬉しそうな顔。
 豊は頷く。
「うん、本当。電車で通うことになりそうだけど。あそこなら前の高校とレベルも同じぐらいだし」
「本当に、大丈夫なの」
 何度も尋ねられて、百合子は豊を心配しているのだと理解する。
「大丈夫。教室でおはようって言い合えるように、頑張る」
 不安を感じさせないように、豊はそう返事をした。
「うん、ありがとう」
 お礼を言いたいのは、豊の方だった。昨日、母親に学校の話を聞いて、かなり問題になっていて、もう元のところには戻れなさそうで。いや、戻りたくもないけれど。それでどこかへ転校する話しになって、真っ先に百合子が言っていたことを思い出した。だから、それを叶えてあげようと思ったのだ。
 豊はもう一度、人生をやり直すために歩きだす。今度はもっと上手く。大切な人たちのために生きよう。そう決めた。
 ミキもミナトもシノも、しばらくはリハビリの日々だろう。いつか元気になったら、またみんなで笑い合いたいなと豊は思う。不思議な縁だけれど、とても大切な縁だと思った。
「あ、あの雲シュークリームみたい」
 豊が言うと、百合子も同じように空を見た。
「そう。あたしには、羊に見える」
「どこら辺が」
 尋ねると、百合子は答える。
「ほら、あれが顔で、足が四本」
「あー。それっぽい」
 そんな会話をしながら、豊と百合子はしばらく空に釘付けだった。それは多分、あの空を飛んでいる感覚が忘れられないからだと思った。今はもう、背中にあの黒い羽根を生やすことはできない、あの空を飛ぶこともできない。  (続く)