「父の形見の時計」 眞鍋京子
「忘れもの」が話題になると、今でも脳裡から深く離れない思い出がある。光子は、定年退職になり母喜美子に永い間お世話になったお礼に何かお返しをしたいと思っていた。母は、一度海外旅行をしてみたいと常々口にしていた。光子の弟は、海外勤務の経験が多く話は早くまとまり行先は台湾に決まった。
光子と喜美子は、阿里山の資料を頭に入れ、阿里山鉄道の阿里山駅から、台湾で最も標高が高い祝山駅(標高二四五一メートル)迄、約二十五分間ご来光に合わせて運行される列車に乗車した。祝山の展望台からは、玉山を始めとする峰々や天候次第で美しい雲海が眺められる。標高三九五二メートルの玉山は、かつて新高山(にいたかやま)と呼ばれ、第二次大戦前の日本統治下では日本の最高峰として知られていた。後に、真珠湾攻撃の暗号文として有名になった。ご来光はちょうど玉山の方向から昇ってくる。台湾一といわれる壮大な景色が楽しめる。玉山でのご来光や雲海は、言葉では言い表せない程すばらしく二人は感無量であった。
ホテルへ帰って頭で思い出を整理し始めた。
「あれっ」喜美子の余りに大きな驚きの声に、
「お母さんどうしたの?」と光子は喜美子を見た。
「何時も胸の内ポケットに入れている懐中時計が無い。どうしよう、どうしよう」
「お母さん、落ち着いて探してみてね。時計の鎖を内ポケットに付けていたから外れることはないわねえ。」
「その時計はお父さんの形見なの、それで今度の台湾旅行にもお父さんも一緒に連れて行ってあげ、喜びを分かち合いたいと思って、念には念を入れて確かめていたのよ」
教職にあった父が永年の功績により学部部長より頂いたものであり、桐箱の中の赤い布には父の功績を讃えた数々の文字が書かれてあった。
行った先々を振り返ってみるが外した覚えはない。
日本から同行して来た添乗員にも訳を話し、ホテルや休憩した心あたりを尋ねてもらったが良い返事は返って来ない。旅行のスケジュールもあり、気持ちだけを残して出発した。
三日目の事、現地の添乗員より日本から同行の添乗員に連絡があり、「ホテルの庭園を掃除していたら何か引っかかるものがあった。拾い上げて見ると日本からの旅行客のものと分かり、早速事務所に届け次の特急列車で届けます。」との事であった。見ると紛れもなく父の記念の時計であった。喜美子と光子は、お礼の言葉を述べようと思っても、感謝の気持ちが溢れ出て涙となり言葉になって出て来なかった。ようやく気持ちが落ち着き、拾って下さった中国人の清らかな気持ちに深く感謝の言葉を述べた。遠い所まで持って来て貰ったお礼をと言ったが、「忘れものを見つけた者がお届けするのは当たり前のことです。決してお礼など頂こうと思っておりません。忘れられたものがちゃんと持ち主に戻った事、これ程嬉しい事はありません。只、阿里山のホテルからの鉄道往復運賃だけ頂ければ、私の仕事は終わった事になります。本当にいわれのある時計が戻って来た事は私まで心が明るくなりました。お元気で旅をお続けください。」と言って去って行かれた。
国境を越えた台湾阿里山旅行で出会った温かい人情味は、何時までも二人の心に残った。(完)