小説「月に行った猫」前編
〈1〉
半年前に十四番目となる職を失った恭平は月三万五千円のボロアパートで一人寂しく暮らしていた。彼は三十四歳になる醜い男で中学校しか卒業していなかった。一応高校には進学したものの二年で中退し、それ以降は警備員や季節労働者として地方を渡り歩いていた。彼はこれといった産業のない貧しい地方の出身で、今は自動車関連の工場が多く存在する地方都市に住んでいた。前職 ― 自動車部品工場の契約社員だったが ― を失った理由は人件費削減のためのリストラだった。
恭平は世間一般でいうところの落伍者でありニートだった。彼が部屋を出るのは週に一度、近所のスーパーに特売品になった食料を買いに行く時だけで、以前は日課のように通っていた職業安定所にも今では全く行かなくなっていた。彼は失業してから星の数ほどもの履歴書を出し、ありとあらゆる会社に面接に出かけていたが仕事を見つけることはできなかった。高い電車賃を払い、精魂を込めて履歴書を書いた末に彼が手にしたものは決まり文句が書かれたできあいの不採用通知だけだった。
できることなら死ぬまでやりたくない介護職にも手を伸ばしたが結果は同じだった。五軒ほどそういう場所を回ったが全てダメだった。中には手取りで十四万円程度の給料しか出さないにも関わらず「こういう仕事は能力の高い人しかできない」と言い出す経営者までいたほどだった。その経営者に「まあ、ボランティアとしてなら雇ってもいいが」と言われた彼は「誰が無料でジジィやババアの下痢便にまみれるか!」と言ってそれを断ったのだった。いずれにせよそれらのことは彼を心底疲れさせた。そして彼から就労の意思を奪い、その代わりに『手持ちの金が尽きたらどこかで首を吊るなりなんなりして楽になろう』という自殺願望を植えつけた。
わずかな蓄えと三カ月前に支給の途絶えた失業保険を頼りに暮らす彼の生活は悲惨だった。その生活はまるで即御仏になるための苦行のようなものだった。食事らしい食事は二日に一度で、それ以外の日は砂糖と小麦粉を水に溶いて焼いたもので飢えをしのいでいた。そのため身長一七五センチの彼の体重はモデルの女性並に落ち、頬や目もすっかり落ち窪み、慢性的な下痢に苛まれていた。しかし彼に救いの手を差し伸べてくれるような人間はいなかった。彼は人付き合いが苦手だったうえに親、兄弟とはほぼ絶縁状態にあった。家を出たのはいつも自分をバカにし、蔑んできた家族から離れたかったからだった。家族は彼のことを一家の恥さらしと思っていたが、彼は家族のことを血がつながっているだけのあかの他人としか思っていなかった。いずれにせよ彼は一人ぼっちだった。
そんな恭平の唯一の慰めは酒だった。少なくともベロベロに酔っている間は何も考えずにすんだし、飲めば飲んだだけグッスリと眠ることができた。そんなわけで彼は一日のほとんどを酔って過ごしていた。彼は明け方に寝て夕方、遅い時は夜に起きるという生活を繰り返していたが、それは人が仕事に行ったり学校に行ったりするのを見なくてすむようにするためだった。別にそれらの人間が何をするというわけではないが、彼にはそれらの人間を見ることが苦痛だった。見ると自分の耐え難い部分がいっしょに見えてしまうのだ。いずれにしても今の彼はただ心臓が動いているからという理由で生きているに過ぎなかった。
冷たい雨のそぼ降る十一月のある日の夕方、恭平はくたびれたビニール傘をさしながら古びた八百屋や魚屋が軒をつらねる商店街の中を歩いていた。彼はいきつけのスーパーで最後の一万円を焼酎や食品に使ったところだった。全財産は今や四千円少々となっていた。
恭平は朝からの雨にも関わらず賑わう通りを見つめながら予定していた投身自殺 ― 彼が数ある自殺方法の中からそれを選んだのはそれこそが自分にふさわしい死に方だと思ったからだった ― を近日中に行うことを考えていた。所持金のことや部屋代のことなどを考えると遅くとも二週間以内に死ななくてはいけなかった。生きるために何かをしようなどとは思わなかった。生きながらえて何になる?と思っていたのだ。それは自ら好んで悪夢を長引かせるようなものだった。
アスファルトに叩きつけられた自分の体が砲弾のように飛び散る様子を想像していると前方から学校帰りと思しき派手な女子高生の二人組がやってくるのが目に入った。その二人はどちらも金髪で十代特有の世の中をナメ、腐った感じの表情を浮かべながら大声で話していた。まるで耳が遠いかのような声量で目にするもの全てをあざ笑っていた。
「何あれ?」一人がすれちがいざまに恭平を見ながら言った。「あれで人間のつもり?」
「なんであんなのが道を歩けるの?」もう一人が返した。「それにあのダサいTシャツは何? ゴミ捨て場から生まれてきたんじゃないの?」
「恥知らずだからだよ。私だったら自殺するか、親を殺すな。あんな顔に生まれたら」
「絶対童貞だよ、あいつ」
「気色わる! 今のうちに殺しとくべきだよ。ああいうヤツが性犯罪を起すんだよ」
「あんなヤツにヤラレるくらいなら喜んで人間魚雷に乗るよ」
彼女達は気のふれたような大声で笑った。恭平は一瞬後ろを振り返ったが、そのまま歩き続けた。一メートルも歩かないうちにまた弾けたような笑い声が通りに響いた。
恭平は一瞬悲しい気持ちになったがすぐに気分を取り直した。人からバカにされるのはいつものことだったし、今の自分の姿を考えれば笑われて当然だった。髭で口のまわりは真黒だったし、髪は浮浪者のように伸びきっていたし、着ているものもみすぼらしかった。シャワーはささやかな楽しみだったので毎日浴びていたがとてもそうは思えなかった。彼は自分をこんな容姿に産んだ両親のことを思い出し悪態をついたが、社会に対してはどうも思わなかった。
間もなくして肉屋の前にさしかかった。恭平は周りの店と比べて少しだけキレイなその店の前で足を止めるとジッとガラスケースを見つめた。そこにはオーストラリア産の大きなステーキ用牛肉が二枚千円で売られていた。
恭平は少し考えた末に、どうせ死ぬなら最後に贅沢をしようとその肉を買った。そして店主と思しきブタのような鼻をした白衣姿の男から包みを受け取ると、再び部屋に向かって歩き始めた。人生最後の贅沢が二枚で千円の外国産の牛肉と考えると少し空しかったが、その気持ちよりも久しぶりに人間らしい食事にありつけることへの喜びの方が大きかった。牛肉は彼の大好物だった。
どうせなら豪華にいこうと思った恭平は、そばの八百屋で付け合せ用のジャガイモとにんじんを買った。ステーキソースはなかったが、まだいくらか残っている塩と胡椒で間に合わせることにした。運よく芽の生えたニンニクもあったし、今のところは料理をするためのガスもちゃんとつながっていた。彼は先ほどの女子高生のことを思い出すと心の中で、今夜はとるに足らない忌まわしきクソ人生に乾杯だ! とつぶやいた。
商店街を抜けた恭平はアパートのある住宅地に入った。彼はなぜだか以前に派遣社員として働いていた弁当工場で知り合ったクラッカー・サンダーボルトというバンドマンの男のことを思い出した。何度か休憩時間に話した程度だったが、彼はその男のことを気に入っていた。その男はいかにもバンドマンといった感じで誰に対しても平等にケンカっぱやかったがあけっぴろげでいいヤツだった。人を欺いたり影口を叩いたりしないタイプの人間だった。しかし、その男は意地の悪い社長の奥さんに「えらそうに洋モクなんて吸って」と嫌味を言われたことに腹を立てて乱闘騒ぎを起し、三週間もしないうちにその会社を辞めてしまったのだった。
今よりも少しマシだがひどいことに変りのない日々のことが脳裏をよぎった。恭平はしばらくその男のことを考えた。― そういえばあの男にはレコード屋の仕事があって楽器を買うためか何かで週に二日しか来ていなかったな。あの男は今頃どうしているのだろう? そういえばあの男が働いているレコード屋は俺の部屋のそばだった。黒猫レコードとかなんとか言ったけどまだあるのだろうか? 一体どんなレコード屋なんだろう? ―
そんなことを考えているうちにアパートのそばにやってきた。ふと視線を流した恭平は左手にあるゴミ捨て場に尻尾の切れた汚らしいトラ猫がいることに気づいた。その猫はゴミ捨て場に落ちていた雨に濡れた肉片をモサモサと食べている最中でひどく痩せていた。後姿を見る限りかなりの年寄りのようだった。彼は幼い頃から猫が好きだったので猫の年齢を見分けることができた。いつか飼いたいと思ってよく図鑑などを見ていたのだ。
恭平は雨に濡れたその猫の姿をジッと見つめた。すると視線に気づいた猫が食事をやめて後ろを振り返った。彼と猫は数秒ほど見つめあった。その猫は不思議と逃げようとはしなかった。彼はその猫の左目が膿か何かでふさがってしまっていることに気づき、中学生の頃に見たモデルガンで撃たれた猫の目がちょうどこんな感じだったことを思い出した。
しばらくして猫が立ち上がった。その猫はひとなつっこい声で鳴くと恭平の足元にやってきて彼に頭をすりよせた。それが病気のせいか、空腹のせいかはわからなかったが、足取りはおぼつかなかった。その猫はヨロヨロしながらも懸命に頭をすりつけて恭平のジーンズの裾を雨で濡らした。
恭平はしゃがみ込むと優しくその猫の頭を撫でた。猫はうれしそうに目を細めるとノドを鳴らした。まるで喘息をわずらっているかのようにゴロゴロと。もしこいつが人間だったら俺みたいなヤツなんだろうと彼は思った。みじめで、汚らしくて、傷まみれで、そして友達らしい友達もいない姿は自分に似ているように思えた。
「ひとりぼっちか?」
猫は相変わらず目を細めてうっとりとしていた。雨で毛が体にはりついているせいでネズミの子のように見えた。恭平は頼られているような気がしてうれしかった。
「おまえ、おなかが空いてるんだろ?」
恭平はそう言うと手にしていた買物袋の中をまさぐって特売品のハムを取り出そうとした。しかし、彼はその手を止めると猫を抱きあげてジッとその猫の目を覗き込んだ。
「なあ」恭平は言った。「よかったら俺と一緒に夕飯にしないか? たいしたもんじゃないけどステーキ肉があるんだ。一枚やるよ。俺もひとりぼっちなんだ」
猫が鳴いた。まるで恭平の言っていることがわかるかのような鳴き方だった。
「そうか」
恭平ははにかむと猫を抱いた。そして立ち上がるといつになく優しい気持ちで部屋に向って歩き始めた。
〈2〉
恭平は他の住人の目を気にしながら部屋に戻った。彼の住むアパートは老朽化しているにも関わらず、ペットを飼うことが禁止されていた。そのアパートの大家は超がつくほどの守銭奴で部屋が汚れることを何よりも嫌っていた。むろん家賃はビタ一文まけてくれなかった。
部屋に戻った恭平が真っ先にしたことは料理ではなく、猫を風呂に入れることだった。彼は猫を抱いて歩いているうちに体中が痒くなるのを覚えていた。彼はその猫を人間用のシャンプーと石鹸で丁寧に洗いながら毛玉の下に作られたノミやダニの帝国が一つずつ滅んでいく姿を想像して楽しんだ。
猫は風呂をいやがらなかった。それどころか風呂が好きなようにさえ思えた。恭平はバケツにはった湯の中で気持ち良さそうに目を細める猫を見ながら、ひょっとするとこの猫は以前、どこかの家で飼われていたのかもしれないと考えた。野良猫にしては人なつっこいし、風呂を嫌がらないのも不思議だった。首輪こそしていないが。彼は三回ほど立て続けに猫を洗うと脱衣所で猫の体を拭いた。毛玉はとれなかったが、目を覆っていた膿と毛の黒ずみは取れた。見ちがえるとまではいかなかったが、それなりには見えるようになった。彼は拭いている最中にその猫がオスだということに気づきモモと名づけたが、そのことに深い意味はなかった。
風呂から出た恭平は隣の部屋に行くと床に雑巾とみまちがうほど磨耗したバスタオルを引いてその上に猫を寝かせた。猫は慣れない風呂で疲れたのかあまり部屋の中を散策するようなことをせず、辺りを数回見渡すとおとなしくその上に横になった。と、言っても散策するような場所などなかったのだが。彼の部屋はよくあるバス・トイレ付の六畳一間だったが家具らしい家具はなかった。あるのは一組の布団と何冊かの文庫本だけだった。テレビやビデオといった金になりそうなものはすでに売り払って、暇をつぶすための一冊百円の文庫本や賞味期限がさしせまった特売の食品にかえていた。彼は別に読書が好きというわけではなかったが、百円で一日楽しめるという点では本が好きだった。それに中学しか出ていない自分が賢くなったような気になれるという点でも。彼は学歴に対するコンプレックスをひきずっていた。
恭平は猫の頭を数回撫でると料理を始めた。肉を焼き、ジャガイモとにんじんを焼き、買ってきたハムなどもいっしょに焼き、再就職が決まったら飲もうと思ってとっておいたワインのボトルも空けた。二週間分近くの食費を一日で使っていたが、自殺を決意している彼にとってはもうどうでもいいことだった。彼にとって人生はただ苦しいだけの悪夢にすぎず、死はそこからの出口のようなものだった。
食事ができると寝室の床に座って猫といっしょにそれを食べた。恭平は生まれてこのかたテーブルを持ったことがなく食事はいつも床でしていた。彼は引越しが楽なように極力家具や洋服を持たないことにしていたのである。唯一の例外は猫を洗うのに使ったプラスチック製のバケツだけだったが、それはどこかのスーパーのくじ引きで当たったものだった。
猫は予想に反して小食だったが恭平と同様にうれしそうだった。おそらくその猫がこういう食事をするのは初めてか、何年ぶりかなのだろう。その猫はせわしなく四分の一ほどの肉と三分の二ほどのハムを食べ終えると満足した様子で彼の傍らに横たわった。彼は久しぶりの食事らしい食事を瞬く間に片づけるとワインを飲み、安タバコをふかしながら猫の腹を撫でた。手を切りそうなほどにあばら骨が浮いたその体を。彼は久しぶりに味わう満腹感と、安さだけが売りのゴミのような焼酎以外の酒と、誰かがそばにいてくれることの喜びに幸せを感じていた。
「なあモモ・・・・」恭平は傍らで安心しきった様子で寝息を立てる猫を見つめた。「おまえと俺は偶然会ったのかな? それとも俺とおまえは情けない者同士会う運命だったのかな?」彼はさらに続けた。「なあ、俺はもうすぐ死ぬんだけど、っていうか自殺するんだけど、よかったらもう少しここにいないか?」
当然のことながら返事はなかった。猫は相変わらず横たわったままだった。久しぶりの風呂と、慣れない食事で疲れたのかダルそうだった。病気と年のせいかもしれないが。
恭平は再びタバコに火をつけると風呂に向かった。そして残りが少なくなった石鹸とシャンプーで軽く湯を浴びると穴だらけになったパジャマに着替えて猫を抱いて布団に入った。まだ早い時間だったが眠りたい気分だった。何か生き物の温もりに包まれて眠りたかったのである。人の体温が恋しくなるような雨降りの夜だった。
布団に入った恭平は幸福を感じながらその猫について考えた。彼の想像通り生き物の暖かさを感じながら眠るのは気持ちが落ち着いた。彼はまどろみながら猫に話しかけた。まるで恋人にそうするかのように、時おり猫の頭に自分の口を押し付けたりしながら。猫は黙って彼の身の上話しを聞いていた。彼が知る限り猫は気まぐれな動物で、布団に入れてもすぐにイヤになって出て行くものだったが、その猫はちがった。まるでどこにも行くなといわんばかりにぴったりと彼に寄りそっていた。汗ばんだ肉球を彼の胸に押し付け時おりノドを鳴らしながら。
その夜、恭平は久しぶりによく眠った。慢性的に見ていた怖い夢にさいなまれることもなく、夜中に寝汗まみれで飛び起きることもなく。恭平と年老いた猫は翌日の昼までこんこんと眠った。
〈3〉
猫が部屋に来て三日が過ぎた。その間、恭平はトイレと風呂に行く以外の時間の全てを猫と一緒に過ごした。むろん寝るのも同じだった。猫はこれといって何かをするわけではなかったが、十分に彼の孤独を癒した。彼は左目から膿を垂らす、はたから見れば醜いその猫がそばにいてくれることがうれしかった。彼にとってその猫は三十四年目にしてようやくできた何があっても変わらずそばにいてくれる友達のようなものだった。そのため彼は自殺する日を先延ばしにしていた。死ぬことはいつでもできることだし明日すればいい。だからもう一日だけ猫と暮らしてみようと。
恭平は人目を避けるためにその猫を夜遅くに散歩に連れて行った。猫は相変わらず具合が悪そうであまり動こうとはしなかったが、排泄のことを考えるとそうしざるをえなかった。猫用のトイレやそれ用の砂を買うだけのお金がなかったのだ。気軽に食べられるようにと翌日にキャットフードを購入したがあまり食べなかった。ミルクや干した小魚も与えてみたが結果は一緒で水もあまり飲まなかった。
そうこうしているうちに四日が過ぎた。その晩、恭平が白飯に塩と胡椒と化学調味料をまぶしただけの粗末な焼き飯を作っていると隣の部屋で寝ていた猫が水を飲みにやってきた。猫用の水と餌はふちの欠けた茶碗に入れた状態で台所の隅に置かれていた。
「お目覚めか?」恭平は言った。「今日もだけど何もしなかったな? 俺達はなまけものだよな? 働くよりはずっといいけど。安物で申し訳ないけどたくさん食いなよ。俺ももうすぐ食事だから。今夜は中華なんだ。って言ってもちゃんとしたものじゃないけど」
猫はチラリと恭平を見やるとヨロヨロと台所の隅へと歩いて行った。彼は猫の目を見ながらまた拭いてやらなきゃなと思った。その猫の左目は膿のせいでかなり腫れていたが、彼には目の下を押してやることか、拭いてやることしかできなかった。病院に連れて行くだけの金がなかったのである。人間用の目薬をさしてやったが効果は見られなかった。
猫は水の入った器の前に座ると顔をそれに近づけた。そして数回ほど舌を動かすと突然激しくせき込み始めた。水を気管支に詰まらせたのだ。
驚いた恭平は手にしていた木製のしゃもじを流しの中に投げ捨てると猫の元に向かった。それと同時に猫が倒れてドスンという鈍い音が台所に響いた。その様子は彼の目にひどくゆっくりと写った。倒れた猫は毒ガスを吸い込んだかのように後ろ足をピンと伸ばした状態で小さく体を痙攣させていた。
「モモ!」
恭平は猫を抱き起こすと必死に背中を叩いた。猫の股間から暖かい小便が垂れて彼のズボンを塗らした。失禁したのだ。
「モモ! モモ! しっかりしろ! モモ!」
恭平は叫びながら必死に猫の背中を叩いた。まるでナイフの刃を首筋に突きつけられたような冷たい感触が背筋に走った。突然死刑を宣告されたような気分だった。彼は泣き出しそうになりながら必死に背中を叩き続けた。人間技とは思えないほどの早口でありとあらゆる悪態をつきながら。彼はもし、モモが助かるならもう一度生きてやるからと心の中で神に言った。数日前に読んだ小説のお蔭で自殺が神の教えに反するということを知っていたのだ。
その思いが通じたのか猫は意識を取り戻した。猫はノドの奥で下水管が詰まったような音を鳴らすと二秒ほど間を置いて体を動かした。それに気づいた彼は思わず叫んだ。
「モモ!」
猫は息を吸い込むと再び体を動かして床に下ろしてくれと合図した。恭平は目に安堵と恐怖の入り混じった涙を浮かべながらゆっくりと猫を床に下ろした。抱かれているのが辛かったのだ。
「だいじょうぶか?」
猫は息を吸い込むとジッと恭平を見つめた。彼は思わず四つんばいになると猫を抱き寄せて頬を額にくっつけた。愛おしくてたまらなかった。
「苦しかったんだな」恭平は言った。「ごめんな何もしてやれなくて・・・・」
恭平は自分のズボンが猫の小便で塗れていることも忘れて猫を病院に連れて行くことを考えた。つまりどうやって金を工面するかということを。彼はまず日雇いのバイトのことを考えた。しかしそれは無理だった。アコギな日雇い仕事ならすぐに見つかるし、明日からでも働けるだろうが、仕事に行っている間に猫が倒れないかと考えるとそれをすることはできなかった。次に身の回りのものを売って金を作ることを考えたが、それも無理だった。そもそも彼の周りに売れるようなものはもう何もなかった。古本屋で買った一冊百円の文庫本なら何冊かあるがそんなものを売っても百円にもならない。内臓や目玉を売るという手もあるのだろうが買ってくれる場所がわからなかった。だとすると他に手は金を借りるくらいだが彼に金を貸すような人間はいなかった。親や兄弟に頼んでみても電話を切られるのがおちだろう。サラ金という手もあるが、あれはあれで審査やらなんやらが厳しい・・・・・
恭平はしばらく考えた末に立ち上がった。そして猫を抱き抱えると隣の部屋の押入れの中から折りたたんであった小さな黒いボストンバッグと靴の空き箱を取り出し、一つの案とともに部屋を出た。勝算はなかったし、かなり恥知らずなことだがそれ以外に方法はなかった。
〈4〉
恭平が向かった先は部屋から三十分ほど歩いた場所にある小さな繁華街だった。彼は通行人の何人かに場所を聞いてなんとか目的地を突き止めることができた。その場所を教えてくれたのは髪を赤く染めた美しい女性だった。その女性はブサイクで猫の小便をあびたズボンをはいた浮浪者のような風体の彼に対して嫌な顔一つせずに地図を書いてくれた。しかし、地図の端にキレイな筆記体でその日の日付と彼女のサインが書かれているのは意味がわからなかった。その女性は鈴木尚美という名前のようだった。
恭平は猫をボストンバッグに入れて ― 靴の空き箱を底にしまって形がくずれないようにしていた。猫を一人で留守番させておくのがどうしても心配だったのだ ― 通りを歩いて行った。そこは怪しげな飲食店や洋服屋などがごちゃごちゃと並ぶ通りで平日だというに人が多かった。通行人の多くはこのそばの会社で働くサラリーマンやOLなどだったが、ゴロツキくさい連中も少なからずいた。高そうなビジネススーツを着込んだ女ににらみつけられた彼は、その女が休暇を利用して出かけたハワイやグアムで自爆テロに巻き込まれて死ぬことを祈った。
目的のレコード屋はひどく老朽化した三階建ての雑居ビルの二階にあった。恭平はドキドキしながら階段を上って行った。壁には安手の紙に印刷されたバンドのチラシやポスターが大量に貼られていた。彼はその中の一枚にさっきの赤い髪の女性が写っていることに気づいた。ザッ・レインドロップスというバンドのメンバーのようだった。傍らにはリーゼントヘアーの男が二人と黒いチャイナドレスを着込んだ女性がもう一人写っていた。
階段を上りきると深呼吸をして左手にあったドアを開けた。それと同時に聞いたことがないが懐かしい感じのオールディーズと古い紙の匂いが押寄せてきた。彼はCDやレコードやカセットテープが収められた無数の棚に囲まれた細長い店内を見渡したが、他に客の姿はなかった。
レジはドアの正面にあった。そこにいたのは赤い長袖のシャツを着込んだリーゼントヘアの痩せた男だった。その男はレジのカウンターの隅に水滴の浮いた缶ビールを置いたまま書きものをしている最中だった。恭平は空気の中に香水だか整髪料だかの甘い匂いがまじっていることに気づいた。バニラのような匂いだった。
店員の男は顔を上げると恭平を見やった。そして「いらっしゃいませ」と言うと再び書き物を始めた。しかし、二秒もしないうちにまた顔をあげるとジッと恭平の顔を見つめた。まるで南北戦争が何年に起きたのかを思い出そうとするかのような面持ちで。一体ここはどんな店なんだろうと恭平は思った。店員が営業時間中に堂々と酒を飲んでいることが信じられなかった。
「あれ?」しばらくして男が言った。「お兄さん、ひょっとしてクソまずい弁当を作る工場で働いてませんでした?」
「はい」
恭平はその店員があの男だったことに驚きを覚えた。彼が知るクラッカー・サンダーボルトとはまるで別人だった。仕事中はほとんどの時間マスクと帽子をしていたのであまり顔がはっきりとしていなかったのだ。さっきのチラシの男に似ているのは髪型のせいだろうか?
「まだあの弁当工場で働いてんですか?」男は笑みを浮かべると缶ビールをあおった。「あのうるさいクソババアのいる弁当工場で」
「いや、もうやめましたよ」
男は人なつっこい感じの笑みを浮かべた。「いい選択ですよ。あんなところは働くに値しないから。あんなババアは使い回しの油の中に落ちて唐揚げにでもなればいいんですよ」
恭平は笑みを浮かべた。久しぶりに人と話すせいでドキドキしていた。彼はもう何ヵ月も人と話していなかった。たまに行くスーパーのレジにいる店員とありふれたやりとりをする以外には。
「場所はすぐにわかりましたか?」男は言った。
「いえ、たまたま通りすがった赤い髪の女の人に聞いたら教えてくれました。地図まで書いてくれて」
「赤い髪? あれ? その女って女にしては背が高くて目が大きくなかったですか? 刺繍の入ったジップ式の黒いパーカーを着てて」
「はい。百七十くらいありました。で、地図の端にサインが入ってました」
男は笑った。「そりゃあ、まちがいなく尚美だ」
「知り合いですか?」
「ええ、知り合いっていうかバンドのメンバーなんですよ。ついさっきまでここにいました。俺がギターで尚美がボーカルで、相棒の香村がウッドベースで、前に話した優子がドラムなんですよ。ああ、そうだ。よかったら週末に『ヘルキャット・バー』って店でショウをするんで見に来てください。お代はタダなんで。レインドロップスってバンドなんですよ」
「そういえばそこの階段にチラシが貼ってありましたよね」
「目立ちたがり屋なもんでしてね」
男はそう言うと声をあげて笑った。恭平は相変わらずだなと思った。男の内面的なものはあまり変わっていないようだった。少し巻き舌調な話し方も、血の気が多そうなことも、それに何も考えていなさそうなところも。
「それで」男は言った。「今夜は何か探し物ですか?」
「ええ、ちょっと」
「秋は夜が長いですからね。っていうかもうほとんど冬ですけど」
「そうですね」
「ウチはご覧の通りの店です」男は手にした黒いペンの尻で店内を指した。壁には信じられないような値段のついた古いレコード盤がいくつも飾られていた。「気に入ってもらえるものがあるといいんですけど。ただ、品揃えには自信がありますんで。特に古い音楽にはね」
「どうも」
「よかったら試聴もできるんで言ってください」
「ありがとうございます」
恭平はうつむいた。どうやって話を切り出そうとかと考えているうちに恥ずかしくなってきたのだ。数回しか合ったことのない男、しかも、よかったら来てくれと言われて一度も行ってなかった店にいきなり顔を出して金を貸してくれなど恥知らずもいいところじゃないか。しかも猫のために。でもそれ以外に方法はない・・・・
突然、店内に猫の鳴き声が響いた。それと同時におとなしくしていた猫がモゾモゾと動いた。恭平は思わず小声で「おとなしくしろ」と言ったが、すぐにしまったと思った。それは遠まわしにカバンの中に猫を入れていると言っているようなものだった。寝ていた猫が再び目を覚ましたのだ。
恭平は恐る恐るレジに目をやった。男は通りでアブラハム・リンカーンに出くわしたかのような面持ちで恭平のボストンバッグを見つめていた。しばらくしてまたカバンの中で猫が動いた。恭平はどうしていいのかわからずたじろいだ。レジの後ろに貼られていた白い紙には黒のマジックでデカデカとこう書かれていた。
店内でのご飲食はお断りさせていただきます。
尚、他のお客様のご迷惑になりますのでしつけのできていないお子様と犬畜生を連れての入店もご遠慮願います。皆が子供好きで動物好きとは限りません。
余談ですが当店は捕鯨に賛成しています。
黒猫レコード
「カバンの中に何かいませんか?」男は言った。「なんかカバンの中でモゾモゾしてますけど」
「あの・・・・」
「まさかダッチワイフじゃないですよね?」
「ちがいますよ」恭平はムキになって言った。遠まわしに自分が童貞であることをバカにされているように感じたのだ。「そもそもなんでダッチワイフが泣くんですか?」
「いや、そういうものもあるのかなって。ヘロインがスーパーで売られてもおかしくない世の中だから・・・・」男は狐につままれたような表情で言った。「でも、なんで猫をバッグに入れてるんですか?」
「実は・・・・」
恭平はバスケットがなかったからだと言いかけた。しかし男は気味の悪そうな表情を浮かべると彼をさえぎって言った。男は猫を店内に持ち込んだことに対してよりも、なぜ猫をボストンバッグに入れているのかに気をとられているようだった。
「あんたひょっとして獣姦趣味?」
「はっ?」
「動物に突っ込むのが趣味?」
「ちがいます」恭平は言った。「ただのペットですよ」
「毎日そうやって歩いてるんですか?」
「いえ。こういうことをするのは今日が初めてです」
「何のために?」
「わけがあるんです」
「神のお告げがあったとか?」
「そんなわけないでしょ」恭平は言った。「そんなに猫が珍しいんですか?」
「いや。猫は珍しくないですよ。でも、ボストンバッグに猫を入れて持ち歩いてるヤツは珍しい」
「バスケットがなかったからそうしてるんです」
再び猫が鳴いた。恭平は男を見やった。男はボストンバッグを指すと言った。
「出してやったらどうですか」
「でも・・・・」
「いいですよ。おとなしそうだし。前にでかいだけで役に立たないバカ犬を連れてきた客がいたんで少し神経質になってるんです。その犬は床にだらだらヨダレを垂らしたあげくに小便をもらしゃがってね。まあ飼い主のクソッタレに掃除させましたけど」
恭平はバッグを床に置いた。そして中をまさぐると猫を取り出した。それを見た男は驚きのあまり口をダッチワイフのような形にした。わかっていたこととはいえショックのようだった。猫は小一時間ぶりに見た光に目を細めながらおとなしく恭平に抱かれていた。
「トラ猫ですか」男は言った。「しかも腹が白くない方の。見たところかなりの年のようですが」
「多分そうだと思います。事実あまり動こうとしないんです。でもそこがまたかわいくて」
「その猫は病気なんですか? 片方の目がひどく腫れてるし黒い膿が出てるけど」
恭平はしばらく黙った。しかし大きく息を吸い込むと決心して言った。切り出すにはいい機会だった。
「実はここに来た理由はこいつのことなんです」
「というと?」
恭平は男に事情を話し始めた。彼は半年以上失業していて金がないことや、この猫の具合が悪いせいで仕事に行けないことや、頼れる人間が他にいないことなどを事細かに話した。恥も見栄も捨てて。男は恭平と猫の顔を交互に見ながら黙ってその話を聞いていたが疑っている感じではなかった。むしろ彼に同情しているようだった。
「事情はわかりました」男は恭平が話し終えると言った。「つまり、ここに来たのは金を借りるためってことですね?」
「はい」恭平は言いづらそうに言った。「頼れる人が他にいないんです」
「で、いくら貸して欲しいんです?」
「猫の病院代を」
「具体的な額は?」
恭平はふと思った。そういえば猫の治療費というのはいくら位するものなのだろう。人間より高いという話は聞いたことがあるがどれくらい高いのだろう?
「俺に出せるのは二万円ですよ」男は言った。「俺も金持ちじゃないんでね」
恭平は思わず両目を見開いた。「えっ、じゃあ・・・・」
「いいですよ。貸しますよ。俺も猫は好きなほうなんで」男は言った。「期限はいつでもいいので生活に余裕ができたら返してください・・・・なんてことは言いませんけどね」
「いつまでにお返しすれば?」
「そうですね・・・・遅くとも二週間以内に。さっきも言ったみたいに必要な金なんで」
「絶対返します!」
恭平は返すメドがないにも関わらず反射的に言った。しかし、それはデタラメではなかった。具体的にどうとは言えないがなんとしてでも返す気だった。彼は自分に反す気があるということを伝えるにはどうしたらいいのかを考えた。
「あの・・・・」恭平は言った。「紙とペンを貸してもらえませんか?」
男はレジの下から日時が過ぎてしまったバンドのチラシを取り出すと手にしていたペンをそえて恭平に押し出した。男は彼が何をしたいのかよくわかっていない様子だった。
恭平は自宅と実家の住所と電話番号を紙に書いて渡した。それは万が一彼がその金を返済できなかった時のためを思ってのことだった。彼はさらに免許証を見せて自分の書いた住所がウソでないことを証明したが、別にそれは男が強要したわけではなかった。
男はその紙を受取ると立ち上がってジーンズの後ろポケットから白いヒョウ柄の長財布を取り出した。そしてその中から一万円札を二枚取り出すとそれをカウンターの上に置いた。恭平はそれを受取ると猫を抱いたままで深々と頭を下げた。彼の目には涙がうっすらとにじんでいた。
「本当にありがとうございます・・・・」恭平は言った。「二週間以内に必ずお返ししますので・・・・」
「それで足りればいいんですけどね」男は言った。「なんであれ、医療費っていうのは高いから。そのくせ介護職員の給料はクソ安いのに」
「はっ?」
男は水滴が浮いた缶ビールを一口あおった。「恋人が介護職員なんですよ。自己犠牲の精神の上に成り立ってる下らない仕事だ。いくら働いても一向に報われない」男はそう言うとはにかんだ。「夜勤やらなんやらで大変だからそんな仕事はやめてもっと普通の仕事に就けって言ってるんだけど聞きやしない。私を必要にしてる人がいるからって。タイムカードすら満足にないくせに」
「優しい恋人なんですね」
「バカなだけですよ。もしマトモな脳ミソがあるなら団結してストライキを起すとか考えるけどああいう連中はそういうことをしない。ただ低賃金と重労働に甘んじてる。闘うってことを知らないんだ。まあ、もしそんなことをしようものなら即刻クビにされるんでしょうけどね。あの手の場所っていうのは独裁主義国家みたいなもんだから。出勤が全て○と×で管理されてるっておかしな場所なのに」
「はあ・・・・」
「やり手がない理由がよくわかりますよ。少しでも脳ミソのある人間ならあんなアコギなクソ仕事につこうとは思わないから。やりがいだの何だのって言ってるけど実際のところは国家をあげての詐欺だ。いらねぇ道路を作るくらいならもっとあいつらに金を回しゃがれってんだ」
恭平は黙っていた。男がなぜそんなことを言うのかがわからなかったし、どういう反応を示すべきかもわからなかった。彼はそんな仕事にすらつけなかったことを思ったが口には出さなかった。でも、なぜここまで自分の彼女の仕事をくさするのだろう?
男は再びレジの下に手を伸ばすと今度はトリスウィスキーのポケットサイズ瓶を取り出した。そしてキャップをひねると一口あおってそれを恭平に渡した。恭平はそれを受取ると同じようにあおった。安物のウィスキーが空腹に染みた。二人はスピーカーから流れる荒々しい『監獄ロック』のカバーを聴きながらウィスキーを回し飲みした。
「猫が助かるといいですね」と男は言った。「かわいい猫だ」
猫は相変わらず恭平の腕の中でおとなしくしていた。彼の二の腕にアゴを預けて。疲れているのかだるいのかはわからなかったが、鳴いたりはしなかったし、床に下ろしてくれとも要求しなかった。
「あの・・・・」恭平は言った。「本当にありがとうございました」
「困った時はお互い様ですよ」男は返した。「タバコがない時と金がない時は特にね」
「必ず返しますんで」恭平は言った。「利子をつけて」
「結構ですとは言いませんよ」男はウィスキーをすすった。「まあ、ついてなくてもいいけど、ついてるに越したことはないですから。俺も貧乏人なんで」
「あの・・・・」
「はい」
「一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「なんで僕に金を貸してくれたんですか? 職場で数回会っただけなのに」
「信用できそうだったから」男は言った。「それにたまたま今日はサイフの中に金があったからかな。俺も猫は好きだし」男はそう言うと腕時計に目をやった。「あの、すいませんけど、そろそろ店を閉めなきゃいけないんで」
恭平は男の後ろにあった柱時計に目をやった。すでに閉店時間を十分ほど過ぎていた。
「すいませんね」男は言った。「今日はこの後、バンドの練習に行かなきゃいけないんで。ちょっと急ぐんです」
「いえ・・・・」
「また時間があったら遊びに来て下さい。平日だったらこれくらいの時間は大抵暇なんで」
「ありがとうございます」
「今度はスコッチを用意しときますよ」
恭平は深々と頭を下げると店を出た。そして階段で再び猫をバッグに入れるといくらか人通りの減った通りを歩き始めた。彼は男に信用できそうと言われたことと、生まれて数回しか触れたことのない人の優しさに温かい気持ちになっていた。彼は冬の匂いをはらんだ夜風を浴びながら、猫のためにもあの男に金を返すためにも頑張らなければと思った。
しばらくして恭平はなぜあの男があれほど自分の恋人の仕事のことをくさしていたのかにかに気づいてほほ笑んだ。そして立ち止まって後ろを振り返ると店がある方向に向かって心の中で再度礼を言った。
〈5〉
白髪頭を短く刈り込んだ初老の医師は診察台の上の猫を見つめていた。猫は緊張のせいか台の上にボタボタとヨダレを垂らしていた。その日、朝一番で動物病院をおとずれた恭平は右の脇に空のボストンバッグを抱えながら両手で猫を押えていた。
「どうやらケンカか何かで眼球を傷つけられたみたいですね」と医師は言った。「それが化膿したようです」
「治りますか?」
「ここまで悪化すると無理ですね。眼球摘出手術という手もありますが」
「よくなるんですか? その手術をすると」
「少なくとも毒が体や脳に回ることはなくなります」
「値段はどれくらいかかりますか?」
「当然それなりの費用はかかります。でもおススメはできませんね。この猫はもうかなりの年です。ノラにしては珍しく十二年以上は生きています。もっとも以前はどこかで飼われていたようですが。去勢手術もされているし」
「つまり体が手術に耐え切れないってことですか?」
「はい」医師は言った。「それにもし成功してもこの年では長くは生きられないでしょう。この痩せ方は典型的な老衰です。話を聞く限りものを飲み込む力もかなり落ちている」
「じゃあ、どうするんですか?」
「とりあえず注射を二本と点滴を打っておきます」
「はあ・・・・」
恭平は複雑な気持ちだった。莫大な手術代を請求されないことがうれしい反面、医者がサジを投げていることがショックだった。この医者にしてみれば膿で目のふさがった汚い猫に過ぎないかもしれないが彼にとっては肉親のようなものだった。
「あと、目の洗浄液とクスリを出しておきますので必ず飲ませてください。それと目薬も出しておくので朝と晩、二回さしてください」
「はい」
「それと今週の金曜にまた来てください」
「明後日にですか?」
「もう一度点滴を打ちますので」
医師はそう言うと傍らにいた若い金髪の女性助手に点滴と注射器を持ってくるように言った。その助手は感情のこもらない声で返事をすると面倒くさそうに部屋の外へと消えていった。多分仕事のわりに時給が安いのだろうと恭平は思った。
「あの・・・」恭平は少し考えてから言った。「正直なところどれくらいこいつは生きられるんですか?」
「わかりません。私は獣医であって神ではありませんから。ただ一つだけ言えることは長くないということです」
恭平は自分の手の下で震える猫を見つめた。猫はいくらか落ち着いたものの相変わらずよだれを垂らしていた。まだ出会って数日しかたっていないというのにこの猫がいなくなることを考えると悲しかった。そうしたらまた一人ぼっちだ・・・・
「安易に生き物を飼うべきではありません」と医師は言った。「生き物は安らぎと悲しみを同時に運んで来る」
「はあ」
「以前、十五年間つれそった愛犬を失くした女性がいましたが、その女性がどうなったかわかりますか? まあ、私から見れば千匹に一匹の割合でしか生まれない真のバカ犬を絵に描いたようなものだったのですがね」
恭平は医師に顔を向けた。だいたいの察しはついたがあえて何も言わなかった。どうせ神経症になって入院したとか、インドに旅に出たまま行方不明になったとか言うのだろうと彼は思った。
「その女性は・・・・」医師は続けた。「旦那を刺して今は精神病院にいます」
「刺した?」恭平は聞き返した。「なんで旦那を?」
「その旦那はタバコを吸う方だった。それでその女性はその犬が死んだのはタバコのせいだと言って旦那を刺したんです」
「死んだんですか?」
「いや、一命はとりとめました。でも怖い事件です」
「何が言いたいんですか?」
「心の準備をしておくべきだと言っているんです。見たところかなりこの猫に入れ込んでいるようなんで」医師はそう言うと背後にあるドアに目をやった。そして舌打ちをすると吐き捨てるように言った。「遅いな。一体どこまで探しに行ってるんだ。もう三分はこうしてるぞ。まさかまた仕事中にいなくなったんじゃないだろうな・・・・」
まただって? 恭平は思った。そんなに人が頻繁にいなくなるのかこの病院は?
医師は再び舌打ちをすると席を立った。そして「少し待っていてください」と言うと腹立たしそうに部屋を出ていった。恭平は猫を押えていた腕から力を抜くと「どこもひどいのだな」と思わずつぶやいた。それを聞いた猫は恭平を見やるとそうだと言わんばかりにニャーと鳴いた。彼は「モモは賢いな」と言うと頭を撫でながらほほ笑んだ。
しばらくして医師が注射器と点滴の袋の乗ったジェリービーンズのような形をした金属製の皿を持ってもどってきた。医師は感情のない声で「お待たせしました」と言うと極度の痔をわずらっているかのような面持ちで準備を始めた。
恭平はその様子をジッと見つめた。
〈6〉
部屋に戻った恭平は猫をバッグから出すと近所のコンビニエンスストアに行き無料の求人誌と履歴書を手に入れた。そして再び部屋に戻ると求人誌のページをめくりながら目ぼしいもの ― むろん正社員ではなく日払いで給料がもらえる単純労働だったが ― にちびた赤鉛筆で丸を打ち始めた。半年ぶりに働くことを考えると胸が張り裂けそうなほどにドキドキしたが猫の病院代や、あの男に借りた金のことなどを考えるとそうするしか方法はなかった。生き続ける以上、部屋代や光熱費だって必要となる。
やがて恭平は雑誌の中から選んだ最も日給の高い人材派遣会社にプリペイド式の携帯電話から電話をした。そして明日から働きたいという旨を伝え、その日の夕方に面接にこぎつけると精魂を込めて履歴書を書き始めた。写真は一年以上前のものだったがそれを使うほかなかった。今さら撮り直すような余裕はないし、髪を切る金などあるはずもなかった。むろん自分で切るという手もあったがそれはあまりにも危険すぎたのでやめておいた。
恭平が履歴書を書いている間、猫は恭平の布団の上で毛づくろいをしていた。点滴と注射のおかげか猫はいくらか元気になったように思えた。部屋の中を歩く足取りと、表情には病院に行く前にはなかった生気のようなものがあった。男から借りた二万円の大半はすでに治療費に消えていたが彼は別に何も思わなかった。少なくともその価値は十分にあったのだから。残金は再び一万円足らずになっていたがそれは正しい金の使い方だった。
履歴書を書き終えた恭平は猫を見ながら日中はこいつをどうしようかと考えた。俺が出かけているうちにまた水をノドに詰まらせて死なないだろうかと。しかし、いくら考えても部屋に置いて出かける以外に方法はなかった。仕事に猫を連れて行けるはずがないのだから。結局、彼は少しかわいそうだが嚥下障害を引き起こす原因となりうる餌と水を全て片づけて仕事に出かけることにした。運よく職場の倉庫は部屋から歩いて十五分ほどの距離だった。なんなら昼休みに帰ってきてもいい。もっともそれは受かればの話しだが。
恭平は洗面所に行くと少しでも印象をいいものにするために入念に髭を剃り始めた。そしてそれを終えると押入れの中から何年も前に買った安物のスーツを取りだして夕方に備えた。形も色もまるでなっていなかったがとりあえずそれはスーツだった。恭平はスーツを押入れの木枠にかけるとそれを見つめながら幸運を祈った。
〈7〉
祈りが通じたのか面接はうまくいった。
翌日、恭平は棚が並んだだだっ広い倉庫の中を汗まみれになりながら歩き回っていた。彼の仕事は自分と同じくらいの年の男から渡された納品書を片手にジュースやお菓子といった品物を台車に載せたダンボール箱の中に詰めていくという発送係りのようなものだった。彼は以前にもこういう仕事をしたことがあったので手馴れたものだった。免許こそ持っていないが前の会社で無理やり乗らされていたのでフォークリフトにも乗ることができた。
仕事はきつくて単調だった。しかし、恭平は仕事にありつけたことがうれしかったのでまじめに働いた。人が嫌がるような重量物を運ぶことを命じられても笑顔でそれをこなした。むろん日払いの派遣社員というピサの斜塔並みに不安定な立場を考えるとそうしなければいけないということもあったのだが。慣れない早起きと半年ぶりの重労働で三時間を過ぎる頃にはかなり疲れていたが、男との約束と猫のことがそれを支えた。
契約は朝の五時から昼の三時までだった。仕事を終えた恭平は派遣会社の人間からその日の日当 ― 単純労働の派遣社員にしてはなかなかの八千円だった。彼は前日の面接で本来会社にもどってもらうはずの給与を現地でもらうよう交渉していた ― をもらうと近所のスーパーマーケットに寄って一番高い猫缶と自分用の食べ物を買い、大急ぎで部屋にもどった。予想に反して昼休みが三十分しかなかったので昼に帰ることができなかったのだ。彼は道中ずっと猫のことを考え続けた。
部屋のドアを開けると布団の上で寝ていた猫が起き上がるのが目に入った。その姿にホッとした恭平は磨り減ったボロ靴を脱ぐと猫の元にかけよった。台所の床にしかれた新聞紙にはフンと尿が落ちていたが彼は何も言わなかった。かなり臭かったがちゃんと教えた場所にしていたことはえらかった。
「ごめんな一人にして。いい子でお留守番してたか?」
恭平は四つんばいになると顔を猫に近づけた。猫はうれしそうに目を細めるとノドを鳴らし始めた。出掛けに目を洗浄液で洗い、目薬を点眼したというのに猫の左目はドス黒い膿でふさがっていた。
「今、目をキレイにして食事にしてやるからな。ノドが乾いたし腹も空いただろ」
恭平は猫を抱き上げるとしばらくあやした。そして言ったとおりのことをすると窓を開けて買ってきた缶詰を空けた。尿のしみ込んだ新聞紙はビニール袋に入れてゴミ箱に捨てた。
恭平と猫は床に座っていっしょに食事をとった。彼が買ってきたものはプラスチックの容器に入った弁当だった。それは安さ以外に何の魅力もないような代物だったが、満足に昼食をとっていなかったのでおいしく感じられた。彼の昼食は出掛けに作っていった二枚の食パンに年代物のジャムを塗ったものだけだった。
猫は珍しくよく食べた。皿にもった缶詰を全て平らげるともっとないのかといわんばかりに鳴いてみせた。それを見た恭平は自分の弁当に入っていたシャケの切り身を猫にやった。猫に食欲があることがうれしかった。
食事を終えた恭平は猫と一緒に布団に寝転がった。頭側の窓から差し込む秋の柔らかな夕日が猫の毛をキラキラと輝かせていた。彼はそれを見ながら言いようのない幸福感を覚えた。猫が自分の帰りを待っていてくれることと、一緒に食事をする相手がいることがうれしかった。それに退屈なハンパ仕事に変わりはないが生活の術があることも。
恭平は猫を撫でながら目をつむった。それと同時に一日の疲れがドッと押寄せてきた。半年振りの仕事で手足の筋肉がパンパンに張っていたがそれは心地のよい痛みだった。彼は猫が安心しきった様子でノドを鳴らす音を聞きながら心地のいい眠りに落ちていった。起きたらモモと散歩に行こうと考えながら。
〈8〉
「そいつはよかったですね」と店員の男はポケットサイズの瓶からスコッチをあおりながら言った。「仕事が見つかって」
「ええ。でも所詮日雇の派遣ですけどね」と恭平は返した。「一日行っても八千円にしかならないけど。でもお蔭で猫を病院に連れて行ってやれるし、なんとか家賃も払えるし」
「顔が前に会った時よりもずっと輝いてますよ」男は言った。「なんていうか自信に溢れてる」
恭平は黒猫レコードにいた。その日、彼は借りていた金を一割ほどの利子を上乗せして返すために買ったばかりのバスケットに猫を入れて店に来ていた。期限は今日までだった。
「やっぱりこの二千円は持って帰ってください」男はレジの上に置かれた紙幣の入った袋を見ながら言った。「物入りだろうに」
「いや、是非、受取ってください」恭平は返した。「ほんのお礼です」
「気持ちはうれしいけど素直に受取れないな」
「キレイな金ですよ」
「キレイとか汚いって問題じゃないんですよ。例え、それが働いて得た金でも、銀行強盗で得た金でも金は金だから」男はそう言うと再びスコッチをあおった。そしてしばらく考えてから言った。「じゃあ、この二千円は俺の金ですよね?」
「そうですよ」
「じゃあ、この金はその猫にあげますんで、猫のために使ってください。首輪を買うとかして」
「でも・・・・」
「首輪を買ってやってください。それじゃあ野良猫とまちがえられて保健所に連れていかれちまいそうだ」
店内には相変わらずの古臭いロックンロールが流れていた。時間は午後七時でその日は珍しく他に一人客がいたが、その客は男が勤務中に酒を飲んでいる姿を見ても別に何も思っていない様子だった。多分、この店の客は男のこういう姿になれっこなのだろうと恭平は思った。男は派手な刺繍が入った黒いジップ式のブルゾンにリーゼントヘアといういでたちでいつものように甘いバニラの匂いを辺りにただよわせていた。
「わかりました」恭平は言った。「ではそうさせてもらいます」
「理解してもらえてうれしいですよ」
男は笑みを浮かべるとスコッチの瓶を恭平に差し出した。恭平はそれをあおると言った。
きつい酒とオールディーズのお陰で口が滑らかになっていた。
「見かけによらず優しいんですね。村林さんは」
「時と場合によってですけどね」
「この間、彼女の仕事をくさしてたでしょ」
「ああ。してましたね」
「その理由は、頑張ってる人間が報われて欲しいっていうことでしょ?」
男は笑った。「いつの時代もそうだけど、正直者がバカを見る時代なんでね。神様はいつも居眠りしてやがるから」
「面白い表現ですね」
「そりゃどうも」男は言った。「でも何で急にそんなことを聞くんですか?」
「いや、あの晩、ふと思ったんで。そうじゃないかって」
客がやってきた。前髪をビートルズのように切りそろえたその客は手にしていた何枚かのLPレコードとCDをカウンターに置くと「最近どうですか?」とか「次はいつですか?」といったちょっとした身の上話をして店を出て行った。その客もバンドマンのようだった。恭平はその客が一度の買物に一万六千円も使ったことに驚きを覚えていた。彼にとってレコードとはレンタルしてテープにダビングするもので買うものではなかった。
男は表紙がボロボロになったノートに何やら書き込むと恭平の足元に目をやった。そこには猫の入ったバスケットが置いてあった。猫はその中でおとなしく寝ていた。
「かわいい猫ですよね」
「ええ。週に二回病院に連れていかないといけないっていうのが玉に傷ですがね。でも最近は食欲も出てきたし、前よりも少し元気になりました」
「バスケットに入れられて鳴かない猫は珍しい」
「ボストンバッグの時は少し鳴きましたけどね」
「寝る時はどうしてるんですか?」
「もちろん一緒に寝てますよ。朝まで」
「同じ布団で?」
「そうですけど」
「まるで犬みたいだ」
「そうですか?」
「ひょっとしたら昔、犬と一緒に暮らしてたのかもしれませんね」
「どうでしょう? 考えたことがないな」
「まあ、何にしてもそいつは森本さんのことが好きなんでしょうね」
「似た者同士ですからね。僕たちは」
恭平はそう言うと照れながら笑った。それを見て男も笑った。男は手にしたペンを器用に指で回すと彼を指して言った。
「まあ、そいつのためにもがんばってくださいよ」
〈9〉
それから一月ほどがすぎて本格的な冬がやってきた。ある晩、恭平は缶ビールを飲みながら窓の脇に立って、雪がアパートの前の通りや周辺の民家の屋根を白く染め上げていくのを見つめていた。夕方から降り始めた雪は午後九時を過ぎても一向に止む気配はなく、明日の朝まで降り続きそうだった。もし、ここがシベリアなら普通なのだろうが彼の暮らす町で十二月の半ばに雪が降るということは珍しいことだった。彼は雪を見ながら少しだけ故郷のことを想おうとしたが、想うべきことは何もなかった。故郷での生活よりも猫と暮らしている今の生活の方がずっと楽しいのだから。
恭平は相変わらず不安定な立場の日雇い仕事をしながら猫と暮らしていたが、その生活は充実していた。毎朝四時に起きて仕事に行き、部屋に帰って猫と戯れて眠るという日々だったがそれがしあわせだった。むろん給料は食いつないでいくのが精一杯といったところだったが、これまでの人生のほとんどを質素に生きてきた彼にとっては不自由に感じるほどのものではなかった。食べ物と寝ることのできる小部屋と猫がいてくれればそれで十分だった。彼には高いだけで意味のない洋服も、話題になっているだけで退屈な映画も必要がなかった。一人の男として一度は女と寝てみたいとは思っていたが。
しばらくして布団の上にいた猫が起き上がった。猫はアーチのように背中を伸ばすと台所に行って水を飲み始めた。あれ以来猫が水を気管支に詰まらせて倒れるようなことはなかったが、恭平は猫が水を飲む時はいつもヒヤヒヤしていた。出かける時に水と餌を片づけていることは言うまでもない。
恭平が万が一に備えて身をしゃちこばらせていると猫が部屋に戻ってきた。猫は元いた布団に戻ると再び横たわり寝息を立て始めた。まるで大仕事を終えた後のように。家具のほとんどない部屋の中は恐ろしいほど静かで寒々としていた。
恭平はしばらく猫を見つめていた。彼はこのところ猫が寝てばかりいることが気がかりだった。むろんそれは季節的なものや気候によるものではなく、本当に具合が悪いからだった。食欲もあまりなく好物のハムを与えても以前ほど食べなかったし、散歩の時もあまり歩きたがらなくなっていた。死の影はゆっくりとだが確実に猫に忍び寄りつつあった。最近猫の体重は以前にも増して落ちていたがそれは明らかに老衰だった。
恭平は再び窓の外を見つめながら明日のことを考えたが、すぐにそれをやめて深々と溜息をついた。正確に言えばできなかったのだ。いつかこいつと別れなければならなくなるのかと考えると泣きたくなった。自分がそう願うよりもずっと近い未来に。彼は命あるものは全て生まれながらにして呪われているのではないかと考えた。それはどれだけ両親を愛してもいつかは両親と別れなければいけないというようなものだった。もっとも彼が両親を愛したことはないのだが。
ふと視線を流すといつしか半身を起した猫が彼の方を見ていた。その目はまるで「どうしたんだ?」と言わんばかりだった。そういえばこいつのほうが俺よりも年上なんだよなと恭平は思った。人間の年にしたらこいつはもう九十を超えている・・・・
恭平は心の中で猫が一日でも多く自分と時間を過ごしてくれることを祈りながら布団の上で丸くなっている猫にほほ笑んだ。そして歩いて行って猫の横に腰を下ろすと猫を抱き上げてギュッと彼を抱きしめた。まるでどこにも行くなといわんばかりに。猫は彼の奇行に不思議そうな表情を浮かべていたがやがてうっとりと目を細めるとノドを鳴らし始めた。
〈10〉
「うーん。やっぱり高校くらいは出ておいた方がいいんじゃないですか?」
男は客が数名いるというのに相変わらず缶ビールを飲んでいた。カウンターの上ではデコレーションがほどこされた小さなクリスマスツリーがネオン管のようないやらしい光を放っていた。恭平は猫を病院に連れて行った帰りにまた黒猫レコードに寄っていた。彼はあの日以来二週間に一度の割合で店に顔を出していて、今は自分の最終学歴について話したところだった。彼は男が予想に反して大学を出ていることに対して驚きを覚えていた。
「今ならそう思うんだけど」恭平は言った。「あの頃はそういうことがわからなくてね」
「わかりますよ。身の回りにそういうヤツが多いから」男は言った。「俺のバンドのベースも勢いで高校を辞めちまった。周りのヤツらとソリが合わなくて」
「ああ、香村君だっけ?」
「いや、あいつじゃくてデニーってヤツです。俺はレインドロップス以外にバンドをもう一つやってるんです」
「忙しそうだね」
「今はもう一つの方を休みにしてるからそうでもないですけど」
「でも、ショウは毎週末やってるんでしょ?」
「ええ。わけあって。一本でも多くやりたいんですよ」
恭平と男はだいぶ打ち解けていた。そのため年上の恭平は男に対して敬語を使うことをやめていた。最終学歴の話が出たのはこれまでに経験してきた仕事について話していたからだった。猫は足元に置かれたバスケットの中でおとなしくしていた。
「で、そのベースの子はどんな仕事に就いてるの?」
「清掃員ですよ」男は言った。「ついでに言うとドラムも同じ仕事をしてます。休みが取りやすい会社なんで」
「清掃業は休みが取りやすいの?」
「少なくともあいつの職場はそうみたいです。でも、あいつはえらいですよ。あの後で定時制高校に入って二十三の時に高校を卒業したから」
「なんでまた?」
「多分女ですよ。本人はインディージョーンズを見て考古学者になりたくなったとか、わけのわからないことを言ってるけど」
「女?」
「あいつの彼女は一応高校を出てるから。それで彼女にコンプレックスを感じてそうしたと俺はにらんでます。あいつはある意味世の中をよく知ってるから」
「というと?」
「彼女が自分より高学歴だと、いずれ彼女が自分をバカにしだすってことを知ってたんですよ。その逆はそうじゃないけど」
恭平は同じ小学校に通っていた同級生の男の子の家庭を思った。その家庭は父親が中学しか出ていなくて母親が高校を出ていたが、確かに夫婦の仲は悪かった。男の言っていることは理にかなっているように思えた。
「森本さんも行けばいいのに」
「この年から?」
「人間は一生学習ですよ。年は関係ないと思います」
「でも時間も金もないし」
「やる気があるなら通信っていう手もありますよ。あれなら毎日学校に行かなくてもいい」
恭平は男を見つめた。冗談では言っていなかった。彼はふとそれも悪くないなと考えた。そうすることで絶えず自分について回っていたコンプレックスが消えるように思えたのだ。それに就ける職種だってひょっとすると広がるかもしれない。ブサイクで貧乏な自分に恋人ができるとは思えないが・・・・
間もなくして数名の集団が店に入ってきた。恭平は邪魔をしてはいけないと思い店を後にした。その夜はそれ以上その手の話しをすることはなかった。しかし、部屋に戻った彼は猫を抱きながらずっとそのことを考え続けた。三十四になれば中卒も高卒も関係がないように思えたが、それは少なくとも意味のあることだった。今さら高校を出てもたいした仕事には就けないだろうが、そうすることで自分の中から学歴に対するコンプレックスがなくなると思うとやる価値は十分にあるように思えた。まがりなりにも新しい道が開くかもしれないと。
「なあ」彼は猫に言った。「どう思う?」
猫は恭平を見ていた。恭平は一人続けた。
「この年から高校なんてバカみたいだけど、悪くないかもって思うんだ」
猫は恭平を見つめるだけだった。このところ体力の衰えが目立っていたが、この夜は比較的元気そうで食欲もあった。
「正直。コンプレックスがあるんだ」恭平は言った。「猫には学歴ってものがないけど、俺達人間にはそういう下らないものがあるんだ。俺は一応高校に行ったんだけど辞めちまった。クラスの人間も嫌いだったし、学校自体バカらしく思えたから。まあ、でも学校なんていうのは通っても何の役にも立たない場所なんだけどな。でも、そのせいで俺は働くところも限定されたし、いつも劣等感を感じるハメになった。例えそいつがバカでどうしようもないヤツでも、高校を出てるって聞くとそれだけで自分よりも優れた人間みたいに思っちまうんだ。仮にそいつがヨダレを垂らしながらケツを丸出しにしてるようなオタンコナスでも。そうだな・・・・わかりやすく言うとおまえが自分に長いシッポがあったらって思うようなものかな? まあ、そいつがあったところでいい仕事に就けるとは限らないけど、っていうかこの年じゃしたいと思える仕事には就けないだろうけど・・・・でも、少なくとも劣等感は払拭できるし、有意義なことに思えるんだ。農業高校卒業のワキガ野郎から『おい、中卒、ちょっとこっちに来い!』なんて呼ばれることもなくなるし。モモはどう思う?」
猫はしばらくの間恭平を見つめた。そしてその通りだと言わんばかりに鳴いた。それを聞いた恭平は思わずほほ笑みを浮かべた。絶妙なタイミングだった。
恭平は猫に頬をすり寄せた。猫はノドを鳴らしながらうっとりと目を細めた。それはまるで恭平が前向きに人生のことを考えていることを喜んでいるかのようだった。人生の大先輩として。
その夜布団に入った恭平は真剣に高校卒業資格習得のことを考えた。そして眠りにつくまでにはそれを実行に移すことに決めた。明日、仕事が終ったらインターネットができる喫茶店に立ち寄って調べてみようと。安定した収入が入るようになったらそれに申し込むことにしようと。
その夜、恭平はアパートの部屋で猫に卒業証書を自慢している夢を見た