これほどの涙が、波のように 山の杜伊吹
先日、家族4人で名古屋まで出掛けた。独身の頃は通勤で毎日使った私鉄、地下鉄にもここ10年殆ど乗っていない。いつもクルマだが、たまには子どもに〝電車に乗る〟という体験をさせる事も必要と考え、わざわざ電車を使うことにした。
目的地までのお金を券売機に入れ、ボタンを押し、切符を買う。券売機がすでにあの頃と違っていて、親である私が戸惑う。スイカ的なものもなかった。改札の通り方、切符の入れ方、ホームに行き、正しい場所で待つことを教える。白線の内側の意味。降りる人が先だよ、お年寄りには席を譲るんだ、優先席の意味はね。
懐かしい栄、あの頃毎日のようにランチしていたパン屋はまだあった。閉店していたショップ、高くて入れなかったカフェ、でもお気に入りの店の大半はもうない。あなたたちの親がまだ娘だった頃闊歩していた街よ、時は流れ伴侶と子連れで同じ場所を歩いてる不思議さ。セントラルパークで、テレビ塔をバックに記念写真を撮ってみる。田舎者丸出しだね、いいよホントに田舎から来たんだから。無邪気に写真に収まる子どもたちふたり。
夕方になり帰宅しようと、東山線栄駅のホームで電車を待っていた。買い物帰りの客でホームは混雑。電車が着こうとガタンゴトンやってきた時、逆方向のホームに並んでいたことに気づいた。ごめん名古屋行きこっちやったわ、と夫と長男に伝え、反対側に移動。さっきの電車はたくさんの人を乗せて出発した。乗らなくて良かった-と胸をなで下ろし、ふと気がつくと4つの娘の姿がない。
いない!! 閑散としたホーム、どこを見渡しても娘がいない。慌てふためき、夫と長男で探し回るも身長100センチのあの愛しい我が娘の姿はどこにも見つけられない。そうしているうちにも次の電車が来て、出発していく。改札付近に駆け上がり、血眼になってその姿を探す。さっきの電車に乗ったら名古屋港駅まで行ってしまう。ひらがなを読める程度の娘が自力で戻って来られるはずもない。全身血の気が引く。駅員さんに娘がいなくなった事を知らせ、なす術もなく心配のあまり気が狂う寸前。さっきセントラルパークで撮った写真が最後の写真になってしまうのか、テレビの公開捜査番組や、知らない駅で泣いている娘を、悪いおじさんが連れていく場面が浮かぶ、まさか名古屋港から船に乗せられてどこか知らない土地へ・・・。
ほどなくして、隣の新栄駅の駅長室で娘らしき女の子が保護されていると連絡が届いた。すぐに新栄駅に向かう。駅長室で、愛しい我が子を見た瞬間、涙が止まらない、娘を抱きしめ声を上げて泣き崩れた。あの時幼い娘は人混みに紛れ、そのまま電車に乗ってしまった。車内で家族がいないと気づき、なんらかの形でSOSを出し、親切なおばさんと一緒に次の駅で降りることができたのだ。駅長室で娘を抱きしめている間に、その親切な方はいなくなっており、お礼も言えなかった。
誘拐、転落、さまざまに想定される事故を未然に防いでいただいた神の化身だった。そして自分なら見知らぬ子どもが迷子になっていることに気づき、瞬時に電車を降りるという判断をして行動できるか、自答せずにはいられない。あの時のおばさん、有り難う。神様、ありがとう。 (完)