「 死春期 」 光村 伸一郎

 目覚まし時計の針は午前四時半を指していた。十二月初旬のある夜、俺はバイト先で知り合った山崎さんという男のアパートでトリスをご馳走になりながら、だらだらと時がすぎるのを待っていた。そこは古めかしい二階建ての木造アパートの一階にある四畳半一間だった。
 俺が山崎さんの部屋を訪れたのはその夜が初めてだった。その夜、俺が山崎さんの部屋にいたのはバイトが長引いたせいで終電を逃してしまったからだった。山崎さんは俺より九歳ほど年が上で、なんとかという有名大学を出ていたが、まともな職についたこともなければつこうとしたこともなく、飲食店でアルバイトをしながら細々と生きていた。
 バイト先のくちうるさいババアや俺と同世代の連中からは「年ばかり食ったろくでなし」という扱いをされていたが、俺はバイト先にいる連中の中では山崎さんが一番好きだった。山崎さんは見た目だけでいったらかなりさえない感じだったが、他の従業員とちがって人の悪口を言ったりしなかったし、どこか浮世離れした部分があった。少なくとも俺の身の回りにはいないタイプだった。
 壁にもたれかかりながら偶然持ってきていたベースで先週からレパートリーに入れたジーン・ヴィンセントを弾いていると、布団の上で寝転がりながら本を読んでいた山崎さんが起き上がった。山崎さんは枕もとにあったエコーに手を伸ばして火をつけると青白い煙を吐き出しながら俺の手元を指した。俺が手を止めると山崎さんが言った。
「それは誰かの曲なの?」
「ジーン・ビンセントの『レース・ウィズ・デビル』って曲です」
「よくそんなに指が動くよね」
「少し練習すれば誰でも弾けますよ」
 俺は指先を温めるためにブルゾンのポケットに手を入れた。暖房器具がないうえに隙間風がひどいせいで部屋の中はうすら寒かった。部屋にあるのは一組の布団と安物の小さなラジオと何冊かの古めかしい本だけだった。
「この手の曲、ほとんど押さえるところがいっしょだから」
「確かにさっきから同じところばかり押さえてるよね」
「よかったら弾いてみますか?」
「いや、いいよ」
 山崎さんは「俺は音感がないから」と言って笑った。
「新しい趣味が見つかるかもしれませんよ」
「いいよ」
 山崎さんはかぶりをふると傍らに置かれたトリスの入ったコーヒーカップに手を伸ばした。
「俺は何もしたくないし、何も欲しくないし、何者にもなりたくないって人間だからね」
 諦念という言葉が頭に浮かんだ。俺は山崎さんのどこか浮世離れした部分はそれに根ざしているのだろうと思った。世間一般で言われる、いい生活につく資格があるのにあえてつこうとしないことも、これに起因しているのだろうと。しかしその言葉に後ろ向きな感じはまったくなかった。それどころか、とても前向きに思えた。今までに何度もバイト先で山崎さんとは話していたが、こういうことを話すのは初めてだった。
「他人が興味を持つことに興味がなくてさ」
 山崎さんは笑った。
「まあ、そのおかげで気楽に生きてられるけどね」
「反逆者ですね」
「そんなかっこいいものじゃないよ」
 山崎さんはそう言って再び笑った。
「俺はただ自分が死にゆく何かで、滅びゆく何かってことを知ってるだけだよ」
 山崎さんはそう言うと欠けたコーヒーカップから再びトリスをたっぷりとあおった。
「いくらあくせくして何かを手に入れても最終的には全て失うわけだし、どんな人間も死ぬときの姿は一緒だからね」
 山崎さんは短くなったタバコを灰皿に押し付けた。そして「練習再開」と言って笑うと再び布団に横たわって本を読み始めた。俺はブルゾンのポッケから手を出すと再びベースを弾き始めた。時おり死にゆく何か? 滅び行く何か? という言葉を反芻しながら。それはただの現実にしかすぎなかった。しかし、その言葉は俺にやんわりと何かを与えた。十九歳の誕生日を目前に控えた俺に。
 それからも何度か言葉を交わしたが、たいした会話にはならなかった。俺は時計の針が午前五時四十五分を指すのを待って部屋を出ると、まだ薄暗い中を駅へと向かって歩き始めた。午後からの講義のことや、夕方からのバイトのことを時おり考えながら。
 うす汚い木造家屋の立ち並ぶ狭い通りを十五分ほど歩いて駅についた。切符を買って階段をのぼった俺はホームの中央にある自販機で温かい缶コーヒーを買った。ホームにいるのは俺だけで辺りはひどく静かだった。まるでこの世に誰も存在しておらず、何も存在していないかのようだった。
 俺は冷たいベンチに腰を下ろすと栓を開けて甘ったるい缶コーヒーを飲み始めた。そして、さっき山崎さんが言っていたことを反芻しながら朝の光が徐々に闇を溶かしていく様子をじっと見つめた。なんだか自由になったような気持ちで。