「夜明けはくるか」 山の杜伊吹
名前・・・私を何年も悩ましているもの。一人になって、ふと思うのが自分の名前の事である。きっかけは、家にやってきた印鑑売りであった。つい話を聞いてしまったのがいけなかった。
要するに「あなたの名前は非常に悪い」というのである。そして、こうでしょう、ああでしょう、こういう時があるでしょう、と語る事すべてが、ことごとく当たっているように思われたのであった。うまくいかない人生、過去の数々の不幸な出来事、なんで自分だけこうなるの? と他人を羨む日々を送っていた私は、本当にそうかも知れないと思ってしまった。「すべてはこの名前が悪いのだ」と。でも、印鑑は買わなかった。欲しかったけれど、貧乏すぎて購入できなかったのである。
その話をある人物に話すと「親につけてもらった名前をそんな風に言うなんて、けしからん奴だ。騙されて印鑑なんか買わなくて良かった」ときっぱり言い切った。そして「名前なんかで人生は変わらない」と断言した。
その言葉に力をもらって帰宅し、パソコンを開くと、先程会ったその人物からメールが届いていた。~あれから気になって、念のためあなたの名前を調べてみました。とても悪いようです。大変悪いので、改名をおすすめします~と、あった。
以来、三人くらいの人にこの事を話したが、皆私の名前は悪いので変えた方がいいという答えで、諸悪の根源は名前にあり! という考えは確信に近いものになった。
結婚した主人も人生いろいろな人で、趣味が姓名判断だ。自己流の無免許なので、信憑性にははなはだ疑わしいものがあるが、なんとなく当たっている気がする。
その主人によれば、私の名前は自身の三十過ぎに若くして亡くなった母親と、全く同じ字画をしているという。そして「俺の方が早く死ぬだろう。君は後家さんになる」という。彼の父親は、母親の死ぬ七年前に亡くなっている。
つまり、結婚して名字が変わっても、私の名前は悪いままのどうしようもない名前なのである。しかも、どんな漢字に変えても悪いときている。改名するなら、これまでとまったく違う名前にしないといけないのである。そこが、すぐに改名に踏み切れない理由だ。
先日、十五年来の友人と久しぶりに会った時、名前の話になった。改名したいとその時初めて話したつもりであったが、出会った十五年前にも、すでに名前が気に入らないと言っていたよ、という。
私はそんなに昔から、名前のことが頭を支配していたのか、と驚いた。印鑑屋が来るはるか以前である。飲み屋のママのような名前、父親が酔ってつけたけたような名前、「本当は違う名前にしたかったのよ」と、いつも母親が言っていた。
その友人自身改名しているのだが、社会生活上変えているだけかと思ったら、戸籍から変更していた。使用している字が悪かったのもあるが、いつも男に間違えられてしまうのが決め手になった。家に届いた男向けのダイレクトメールなどの資料を揃えて裁判所に行って、認められたのだという。改名後すぐに結婚がまとまり、いま幸せな生活をしている。
私は宗教にこそはまらなかったが、無類の占い好きになっていた。相談する占い師から「名前のことばかり気にしてる所が、そもそも問題なのよ」と言われる始末だ。確かにそうかも知れない。運の良い人は名前なんか気にしない。占いもしない。でもそんな人は決まって、もともと名前が良くて、良い時に結婚をして、良い時期に、良い方角に家を建てるのだ。
と、考えているとやはり親を恨む事になる。その行き着いた答えそのものが、不幸である。
昨年、母と慕い、人生の指針として唯一頼りにしていた占い師が、私の事に腹を立てて、ついに絶縁状を叩き付けられてしまった。そこまで悪い事をしたつもりはなかったのだが、過去のいろいろな不義理をもなじられたのである。この出来事はいまも私の中に暗い影を落としている。満足な愛も、生きる術も知らずに、手探りで孤独と絶望をなんとか乗り越えて漂ってきた頼りない私の魂は、いまや改名を相談する人もなくしてしまった。夜明けはまだ来ない。