「夢の夜明け」 真伏善人

 集団就職で、新潟の田舎から名古屋に向かう列車に乗せられたのは午後の三時過ぎで、到着予定は翌朝の七時過ぎだった。指を折って数えると乗換えを含め十六時間にもなる。いま考えると気の遠くなるような話だ。
 真夜中の寒さに震えながら松本でディーゼル列車に乗り換え、再びまぶたを閉じる。規則正しい車輪の走行音にいつしかうとうととして、気がつくと車窓から見える空が白んでいる。見知らぬ土地で夜が明けたのだった。
 やがて列車は名古屋駅にかけこみ、ゆるやかにブレーキをかける。わき目もふらずコンコースを足早に通りぬけると、巨大なコンクリートの建物群に圧倒される。通勤時間帯のかかりか、行き交う人々が、表情も言葉もなく急がしげに動いていた。車の多さと騒音。信号というものが際限もなくあり、広く交差する道路。
 路面電車を待つ間、これから「名古屋で生きる」という、故郷での漠然たる思いがこの現実を覆っていたのか、見通しのきかない空気が充満していて、辺り一面がやけに澱んでいる夜明けだった。
 現実世界に否応なく取り込まれ、労働力として認められるまでには、どれほどの時を要しただろうか。二十四時間操業の工場では、夜の勤務が避けて通れない。三週間のサイクルで回ってくるこの一週間の勤務は、まさに眠気との闘い。当たりまえのことに夜食をとるのだけれど、その後がいけない。昼をまともに眠らず、遊び呆けていた日は水で顔を洗おうが、頬をつねろうがものの数分で瞼が重くなり、こらえきれずにしゃがんで眠ってしまったり、いねむり歩行で鉄柱に額を打ち付けたりすることが幾度あったことか。
 けれども、あれほどの眠気も勤務が終わり、工場の出口の扉を押すと、瞼のシャッターは全開になる。ひんやりとした空気とまぶしさに、ああ夜が明けたのだと心地よくなりはするが、それもつかの間。朝食をとり、朝日を浴びて寮の部屋に戻ると、疲れがどっと押し寄せ倒れこんで眠りに落ちてしまう。夜明けイコール夜になるのである。
 こんなわけで二十四時間を交代で勤務していると、朝って「いつのこっちゃ」、ってことになる。
 そんな環境の中で高校に通い、勉学にも精をだすことになる。だが充実していたというより、過酷な毎日で挫折するのは目に見えていた。苦より楽。とがめるものは誰もいず、あっさり退学。おきまりのコースで遊び呆けるのである。夜な夜な飲み歩きの朝帰り。通勤バスで帰るきまりの悪さに、吊革を握ってのひとり赤面。マージャンとなれば当然のように徹マンで、これも眠るのは朝になる。こんな陰気生活の繰り返しで、夜明けなどは眠りの序曲を聴くようなもので、心をときめかせたり奮い立ったりの真逆にあった。
 よく山に登って、ご来光の感動といわれる。山のとりこになった一時期があって小屋に泊まると、まだ暗いうちから身支度を整えて、小屋を出て行く人がぞろぞろいた。それらは皆、日の出を拝みに行くのだと知り、驚いたことがある。それほどのものなのかと、思うだけで足が向かない。元来の天の邪鬼なのか、かたよった生活習慣が未だにしみついたままなのか、あるいは単に低血圧で、朝笑いができない体質であるからなのか、とにかく朝日よりは夕日がずっと魅力的であった。
 誰にも会わずに登りつめた、たった一人だけの山頂で雲海に沈もうとする大きなオレンジ色の太陽を、座り込んでじっと見つめていたことがある。その雄大さが、じわじわと沈み暮れていく切なさに、心を震わされたことが忘れられない。
 夜明けの感動を人並みに得るには、体質改善と洗脳以外にあるまい。まずは、むっつり精神を根本から改めなければということになる。生まれ変われることができれば話は早いのかもしれないが、それはいくら神様におねだりしても却下だろう。
 ならば、と考えついたのがこれだ。まず、スペースシャトルかソユーズでもいい、一度乗せてもらって宇宙ステーションとドッキングする前に、moonまで足を伸ばしてもらう。畳二枚の窓付きコンテナに入れてもらって、moonの裏側にそっと置いて行ってくれればOK。あとは四輪駆動のペダルを漕いで自由に動き回る。とりあえず、幾時かはずっと孤独の淋しさを楽しみ、それに満ち足りて、あふれそうになったら、よし、夜明けを見に行こうとなる。ギーコギーコと地球の見える所まで出向いて、「ご来光」ならぬ「ご来球」だ。それこそ震えるほどの感動だろう。夜明けの地球だ。ましてや日本列島でも拝むことができれば涙がわくのかもしれない。
 堪能したらUターン。またペダルを漕ぎ、裏側で孤独の淋しさにひたって…と思うのだがどうであろう。