「日没の彼方へ」 碧木ニイナ

 タンスの中を整理した。しばらく着ていないけれど処分するのは忍びない、そんな衣類のあれこれを思い切って捨てた。
 とても気持ちがすっきりした。この頃の私は、部屋や収納のあちこちを見回して、あれを捨てようこれを捨てようと、そんなことをよく思う。タンスの引き出しを開けた折にも、そこに収まっている何かをヒョイとつまみ出して捨てる。
 そのたびに肩や背中のあたりから、ふわぁ~と何かが大空に舞い上がり、体が軽くなるような解放感がある。それはもしかしたら、星がまだ見えるほの暗い天空から、日の出を迎える夜明けへの、時の移り変わりのようなものかもしれない。
 そして、この頃よく思うことのもう一つは、身軽になってこっそり静かにこの世から消え去りたいということ。そんな現世との決別に憧れる。立派な葬式も墓も必要ない。遺骨は海に散骨してほしい。娘にはそう伝えてあるけれど、明文化しなければというのが最近の私の関心事でもある。
 この世との別れは、夜明けの対極にある日没かもしれない。が、日没に向け心を整えるのもいいだろう。夜明けには、新たな物事の始まりという意味もあるし、日は昇り、日はまた沈むのだから。
 先日、「熱砂」の読者の一人である私の良き理解者に、今回のテーマ『夜明け』について、「なかなか書けなくて苦しんでいるの。何を書こうかしら」と言ってみた。でも、簡単にアイディアをいただけるはずもなく、私はまた言葉をつないだ。
「娘のMが好きだった絵本を何冊か引っ張り出してきて、何か書けないかとページを繰ってみたの」と、私はつい遠い過去を見る目になる。
 その人は、私の目に浮かんだ娘と私の過去をサッとやり過ごして、「あなたのエッセイは、いつもMちゃんとのこと一辺倒。今度はそこを離れて違うものを書いてみたら」と言う。
 確かに、私のこれまでのテーマエッセイの主題はほとんどが娘だから、読者にとっては食傷気味なのだろう。けれど、私の人生における最大の夜明けは、娘がこの世に誕生したこと。彼女と巡り会えたのは、奇跡以外の何ものでもない。というわけで、また娘が登場する。どうかお許しを。
 わが家には二十四歳の一人娘がいる。心身の両面にかなりの苦痛を伴う不妊治療を続けた後に、スパッと諦めて子供のいない人生を歩もうと決心し、病院通いをやめて一年がすぎた頃、私は妊娠した。すっかり諦めていたので、体調の変化を妊娠と結びつけるのに時間がかかった。
 当時は三十歳をすぎると高齢出産という区分がなされていた。高齢の初産だった私は、手術の必要なハイリスク分娩の妊婦として、先生をはじめ周りの人たちを心配させたけれど安産だった。神様や周りの人々への感謝に私は包まれた。
 母親業は思いがけないほどに楽しく、自分に合っていた。それは、母になってはじめて分かったこと。娘がそうした沢山の気づきの機会を私に与え、人生を何倍も豊かにしてくれた。
 丁度、娘が生まれた年に戸籍法が改正され、裁判所に氏の変更を申し立て、許可を得れば外国姓を名乗れるようになった。あの頃の日本社会は、いろいろな意味で今よりずっと閉鎖的だった。この法の改正が、日本の国際化をリードした一面もあるに違いない。
 国際結婚で生まれた娘が、それを喜びに、誇りに感じて生きてほしいと願い、小さい時から一人の人間として、彼女の意志を尊重しつつ暮らしてきた。父親がアメリカ人なので当然のこととはいえ、娘にも外国に出かける機会がままあった。
 小学校三年生はシドニー、高校、大学はアメリカで過ごした。大学時代には上海の大学への留学経験があり、都合四ヵ国で教育を受けたことになる。好奇心が強く、いろいろなことに興味がいっぱいの娘は、どんな環境にもすぐに馴染み、その時々を精一杯楽しんできた。
 昨年の一月からは、ピースボートのボランティア通訳として南半球を一周。今年の年賀状は、南極の氷山をバックにした写真やイースター島のモアイ像、アフリカのサファリでのライオンの勇姿、鮮やかな色彩の布を纏ったマサイ族のハンサムな青年に挟まれてご満悦の写真など、三カ月の旅が凝縮された未知を体験する喜びがみなぎったったものだった。
 ピースボートから帰国して二日後に、彼女は東京で社会人としての一歩を踏み出したが、自分の性質に合致したフィールドで生き生きとした日々を送っている。彼女の周りには人種や国籍にかかわりなく、何ヵ国かの言語を操り、日常会話は英語という人が多い。
 真の自立を始めた娘の姿や現状が、親として一応の責任は果たせたという安堵とともに、私にこの世との別れを考えさせるような、心の変化をもたらしたのだろうか。
 日没の彼方の夜明けに向かって、ゆっくり歩を進めよう。新たな夜明けの到来を信じて。