「手つかずのPASTEL」  真伏善人

 あれは去年の暑い盛りだったろうか。あまりにも部屋が乱雑、物置状態になっていることに、これは何とかしなければと、さすがに考えた。
 その夜、ベッドの中で考える。人生も季節でいえば秋もそろそろ終わろうとしているのだし、それに健康不安も付きまとっている。この際、巷で盛んに言われているシュウカツを思い切ってやったほうがいいのではないかと考えた。自分のことは自分で片付けておくべきだろう。そう気持ちを固める。
 翌日、意気込んで仕分けにかかる。これが大変な作業で、まだ必要、そのうち必要、これは勿体ないとかで、とんでもない時間がかかって始末にならない。こんなことではシュウカツなどおぼつかない。
 おまけに狭い部屋の中で、無理な姿勢がたたって疲れる疲れる。心を鬼にして未練を振り切るが、一日は書籍類と本棚の途中で終わってしまう。
 そして次の日。またまた踏ん切りがつかないものが出てきて気持ちが滅入る。
 ぼちぼちやっていると、机の下の奥に押し込んである雑貨の中に、A4サイズ程の紙袋が目に入った。はて、これはと手を伸ばすと硬くて重い。手前へ引き寄せて中を覗くと水色のケース。見ると表に何やら横文字が。PASTEL! 瞬間、言葉にならず喉の奥からうめき声が出る。とっくに忘れていたものだった。
 もう十年近くなるのだろうか。いやそれ以上かもしれない。これはそもそも他の買い物の付録みたいなものだった。かねてから欲しかったものを街へ出て買ったあと、同じフロアに画材店があり、ふらりと入って手にしたものだ。そのPASTELは、これならばいつでも手軽に使えそうだからと、小学生時代の写生のことを思い出したのであった。
 だが買ったはいいが、どこへ出かけて写生をするのかは漠然としたままだった。思い付きで手にしたいい加減さだったので、まあ急いでやることでもないし、そのうちにと思っていたら日にちだけがどんどん過ぎて、とうとう頭の中から消えていたのである。
 そのPASTELが突然目の前に現れたのには全く驚いた。手にして見ていると次第にいとおしさがこみ上げ、表面を撫でまわさずにはいられなかった。
 そんなことがあってひと月も経たないうちだった。新聞の折り込みで文化講座の案内があり、目を通しているとデッサン、クロッキーの体験講座があるではないか。それも家から車で数分の場所だ。なんだかあのPASTELが、後押ししているように思えてならなかった。
 デッサンといえば、絵画の基本であることは何となく知っていた。これはどうしたって申し込まなければならないだろうと、講座に参加を決める。 
 だが、教室では最初から言われたことが理解できない、描けない、そして覚えられない。経験がないということを思い知らされる。近いうちに挫折してもしょうがないかと弱気になったが、他の生徒達が懸命に取り組んでいるのを見ると、逃げる訳にもいかなかった。二時間の講座が終わると、もうへとへとになるほどで、絵を描くことがこんなにしんどいとは思わなかった。しかも講座に出ているだけではおぼつかないと分かり、家で練習する時間をとってもがいている。
 講座はまだ鉛筆と木炭だけだが、もうしばらくすれば、真っ白な画用紙にカラフルな色が舞うだろう。たとえ屈託のない絵でも、PASTELは目を覚ましてくれるはずだ。まずは罪滅ぼしである。 (完)