ショートミステリー「海鳴り」
ひとりの男がいた。彼には若い妻と幼い一人娘がいた。貧しくはあったが、幸福に満ちた家庭であった。しかし、唯一彼らにも悲しみがあった。それは、娘が生まれつきの盲目である事だった。
少女は、古ぼけたフランス人形の面を頼りなげな指先でなぞり、虚ろな瞳を二人に向けて、あどけない笑顔を見せた。
男は飲んでいたコーヒーカップを置き、妻は編み物の手を休めて顔を見合わせた。押し殺すような溜息がもれた。
「わたし、海水浴へ行った時の、海の音が大好き・・・。気持がとっても広がる感じなの」と、娘が言った。
男はいくらかの借金を抱えて、海辺に一軒のバンガローを借り、皆で移り住んだ。
幾日もの間、少女は窓辺にもたれ、瞳を閉じて、砂浜に打ち寄せる波の音を聞いて過ごした。
やがて妻に異変が起きた。それは吐血に始まり、食事も喉を通らなくなった。往診に来た医者は首を横に振り、最後に事務的な口調で、男に妻の癌を告知した。
「私にはすべて分かっていますわ」
ベッドに横たわった妻は、夫の手を強く握り締めながら、噛みしめるように言った。
「あなたが独りになっても、あの子の将来は、きっと神様が見守って下さる・・・」
レースのカーテンが潮風に揺れて、妻の目もとが安らぐように微笑んだ。それから半月が過ぎ、成り行きに身を委ねたまま、妻は死の床に就いた。
夜の海は静寂に包まれていた。男と娘は砂浜に向かったベランダに並んで腰掛け、吹きつける風の音に耳を傾けていた。
「ママは海の故郷へ帰って行ったのね」
娘は囁くように言った。
「パパも・・・、それに私もいつかそこへ帰るんだわ」
男は黙ってうなづいた。
ある日、娘が盲学校から帰宅すると、居間に父親の姿はなかった。娘は父の用意していた昼食を終えると、ラジオを聴くために自室へ戻った。
その頃、男は屋根裏部屋で一冊の書物に熱中していた。それは年代を重ねた革表紙の魔術書であった。
男にはある強い決意があった。
「悪魔召喚の術」と、開かれたページには記されていた。男は煤けた天井を見上げて溜息を吐いた。
裸電球の回りを、一匹の黒蝿が羽音を鳴らして舞っていた。
「近頃は魔界も忙しい仕事に煩わされていてね」と、黒服の紳士が、肘掛け椅子の上で窮屈そうに身をくねらせた。
「あまり暇はない。早速、用件に入りたまえ」
「私の娘は盲目だ。あの子の幸せな未来が私達夫婦の望みだった。さあ、契約を結ぼう。その代わり、私の娘にまともな眼を与えてやって欲しい」と、堅い表情で男が言った。
「娘の未来か・・・」と、悪魔が紅色の指輪をはめた指先で肘掛をコツコツと鳴らして考え込むように答えた。
「了解した。契約は取り交わそう。ただし、君の願いを聞き入れる代わりに『君のあるもの』を、こちらで頂戴することは了承願う」
契約書に署名と血印が押され、上品な身ぶりで悪魔が、それを素早く取り上げた。肘掛け椅子の黒い影は、かき消されるように煙と化した。赤い暖炉の薪が音を鳴らして崩れ落ちていった。
翌日の朝、娘の部屋から驚くような叫び声が上がった。
「パパ! パパ!」
娘が部屋から、父親の待つ居間へ駆け込んで来た。
「私の眼が見える! 私、見えるのよ!」
「良かったね。お前」
男は悲しげに笑みを浮かべて言った。
「これが、パパ。これがいつも食事をするテーブル。そして、あれが海」
男の願いは悪魔によって現実となった。
平凡な、だが以前とは少し違った日々が続いた。娘は思春期を迎え、今は年頃になっていた。彼女にはすでに若い恋人がいた。
二人は結婚の約束を交わす仲となっていた。その青年は、都会に出て商売を始めようと、彼女に誘いをかけた。彼女は応じた。
そして、父親の反対を考え、駆け落ちの準備を済ませた上で、父親に結婚の話を打ち明けた。
しかし、二人の予想を裏切るように、男は二つ返事で二人の結婚に同意し、何にこだわるでもなく、あっさりと祝福の言葉をかけた。
数日後、娘はトランクに荷物を詰め込み、車に乗り込んだ。二人は歩み寄る父親に別れの言葉を告げた。
娘は父親の頬にキスをした。そして、少しなじるような視線を冷静な父親に投げると、寂しげに顔を伏せ、青年に出発を促した。
二人を乗せた車は紺碧の岬を巡る道路を滑るようにして、姿を遠去けて行った。
波は低く、海は静かに横たわっていた。濡れた砂浜に置かれた揺り椅子に腰を下ろして、男は水平線の彼方を見つめていた。
この数年来、男はある意志に従って、ただ生かされていた。過酷なまでの、捕らえようのない悲しみが彼の心を支配していた。そのことを彼は娘にも秘密にしていた。
悪魔との契約・・・、それは彼にとって悲劇の始まりであり、失ったものはあまりにも大きいものであった。
彼は娘の眼を与える代償として、彼の持っていた『あるもの』、すなわち『愛情』を跡形もなく悪魔に奪われたのである。
そのため、娘の視力が戻ったこと、禍事なく娘が成長したこと、そして彼女に恋人ができて、都会へ旅立ったこと・・・。
その全てが、愛情を失った男にとっては、冷静な理性によって納得は出来たとしても、輝き溢れる心の喜びはカケラとして得られなかった。
海を眺める男の後ろ姿には、年老いた疲れがみえた。
背後に、砂を踏み締める足音がした。ゴロゴロと喉を鳴らせて、一匹の黒猫が男のそばに擦り寄ってきた。その猫の前足には紅色の指輪がはめられていた。黒猫は、もの問いたげに男を見上げて、鳴き声を上げた。
「よし、よし」と、男は片腕で黒猫を抱き上げると、頭を撫でてやった。
ほんのわずかだったが、男の瞳に一条の涙が浮かんだ。その瞬間、彼の表情に陽光のような輝きが宿り、何からか解き放たれていく不思議な感覚が、男の全身を包み込んでいた。
遠くで、力強く海鳴りがいつまでも響いていた。