「あゝ 人生とは」 伊神権太
嵐は日々、この世に生きる全ての人に荒波の如く押し寄せている。人々はそうしたなかを生きてゆかねばならない。みな懸命に日々を過ごしているのだ。いや、この世のありとあらゆるものが、時には〈悲しみの海〉の中を泳いでいる。
嵐にもいろいろある。伊勢湾台風や室戸台風、地震、雨などの自然災害があれば、人生の行く手に立ちはだかる〈壁〉だってある。進学、就職、病、事故、家庭破壊、失恋、各種トラブルと限りない。「思い通りにならない」ことだって、その人にとっては人生の嵐に違いない。
私の場合。自然災害の嵐で忘れられないのは、昭和34年9月26日に体験した伊勢湾台風だ。その日は雨戸という雨戸を兄と妹、両親と私の一家5人で手がちぎれそうになりながら命がけで抑えていたがとうとうバリバリバリッ…、という大音響とともに吹き飛ばされ、私たちは吹きさらし同然となった家屋を捨て母の実家の土蔵にたどりつき、そこで一夜を過ごした記憶を鮮明に覚えている。
そして。その後になって知ったが、この伊勢湾台風の襲来で思いがけず、江南市内の民家土蔵で発見されたのが前野家古文書、すなわち戦国時代の興亡が書かれた書物「武功夜話」で、この書物により、ここ尾張一円が織田信長、豊臣秀吉を育てた舞台であることも分かったのである。「武功夜話」の発見と解明により、その後、遠藤周作さんが小説「男の一生」を書き、歴史家の注目を集めたことは知る人ぞ知る。
そんなことがあり、武功夜話の存在に触発されたためもあってか、私たち3兄妹は少年少女のころ毎週1回、今は亡き父に吉川英治の〈新書太閤記〉を読んで聞かせられた。父は、この地は信長と秀吉が育ったところだという事実をわが子に知らせようとしたのかもしれない。私は父の死後、あらためてこの〈新書太閤記〉8巻を読破。今になって信長を陰から支え続け信忠、信雄、徳姫の3人の子をもうけた吉乃(きつの)のことを執筆しているのである。これも何かの縁か。
台風でもうひとつ。平成3年の秋だった。私は当時、新聞社の七尾支局長として能登全域を管轄していたが、猛速台風19号が深夜から未明にかけて駆け抜け、能登半島の各地で観測史上最大の風速(輪島で瞬間最大風速60余㍍)を記録したことがある。あのころは、幼かった末っ子も加え一家5人で支局長住宅のガラス戸などを抑えていたが台風が通過したあと、わが家を見ると屋根瓦の3分の1ほどが吹き飛んでいた。
こともあろうに、翌日が全能登駅伝(輪島から珠洲、能都町を経て七尾に戻る内浦コース)初日で前夜から台風の警戒取材で一睡もしていなかった記者を愛用のパルサ助手席に乗せ出発点の輪島に向かった。行く手には倒木がゴロゴロしており、やっとの思いで輪島に着いたが市役所のガラス窓はめちゃめちゃに破損。輪島通信局の瓦は吹っ飛び、看板もズタズタで惨憺たるありさまだった。
それでも全能登駅伝は強行され、2日間にわたる駅伝が繰り広げられた。駅伝2日目の未明、私は能都沖の定置網の台風による被害状況をこの目で確かめたくなり船で沖合の現場へ。定置網はどれもこれもズタズタで無残な姿だった。その後、七尾の支局長住宅の屋根瓦は修復され、輪島通信局は建て替えられることになり一年後には、地方の通信局舎では1、2を争うほど立派な局舎がたてられたのである。
最後に。過去、1番痛烈だった嵐といえば。それは高校1年の5月13日に柔道の練習中に稽古に訪れた先輩に捨て身小内刈りをかけられ、右足を複雑骨折。翌春までほぼ1年、自宅療養と自宅学習で通学できなかった、あのときの悔しさである。幸い私はそのまま2年に進級。大学にも入れ柔道もその後3段をとり、記者にもなれた。ほかに、社会に出てからは反対を押し切っての志摩での駆け落ち結婚など、何度も人生の嵐に襲われたが、どれも乗り切った。だから辛うじて今がある。そう信じている。(完)