「時の流れは腹時計」 伊神権太

 昔もいまも時計はしたことがない。
 手首にはめるなど私の主義に最も反することで、思いもつかない。要するにチャラチャラした装飾品を、首とか手とか腰、頭とか、体のどこかにつけることが自分の生き方といおうか、美学には合わないのである。だからといって、プロ野球の花形選手が首に巻いているネックレスやリストバンドの類をするな、というわけでもない。それはそれで自分で気に入ってしている分までとやかく言う資格など私には全くないことも事実だ。
 世の中、どうしてこんなに狂ってしまったのか。どの会社でも自分のガンクビ(顔写真)入りカードを首にぶら下げて社員が社内を歩いている。『人間不信小屋』か何かで人々が体にワッパをつけられ、何か見えない悪意の視線のなかで拘置されているみたいでもある。これでは牢屋人生同然で、もってのほかだ。いつから人間たちは、これほどまでに人が人を疑う体たらくにまでなり下がってしまったのか。互いに互いを監視せねばならなくなったのか。人を信じない象徴が、カード・IT社会に氾濫している、といってよい。
 時計といえば、私は、より人間的な腹時計が好きだ。
 特に朝、目覚めるときなど、昔から外の光を体に感じ布団のなかで今は何時ぐらいだから、そろそろーと起き出す。起きてしまってから時計で確かめると当たっている。それが、最近では息子が朝早く会社に出勤するため妻は彼の出勤時には必ずといってよいほど目覚まし時計をかけるようになった。その名の通り「午前六時」きっかりに、けたたましい音が枕元で大音響を奏でるのである。おまけに長女猫のこすも・ここまでがウォーウォーンと、この音にかきたてられ、大声で「起きろ、起きろ」と鳴き叫ぶのである。だから、私の脳はこのところ、少しひねくれてしまったようで目覚ましが鳴るのがいつかを自ずと嗅ぎ当てるような、そんな一時的な時間ばかりにこだわるようになってきている。
 それでも日曜日になると、目覚ましが鳴らないので私なりに時間を推測して起き二匹の猫ちゃんたちに食事を与えたのち、時計を見る。と、大抵自分の思っていた時間と同じでホッと、安心するのである。今から思えば、私は新聞記者として事件発生や締め切りなどで一番時間に追いたてられていたころに時計を見ない習性で生きてきた。あのころは、記事に追いまくられながらも、朝の警察回りから夕方の原稿書きまで日常の取材行程のリズムから自然に時間を体得していた。昼、思わずうとうとすれば、夕刊の締め切りが過ぎた「午後二時過ぎ」と決まっていた。朝、警察の当直が引き継ぎを終えるのは大体午前八時半ごろで、サツに顔を出したときに、引き継ぎが終わってしまっていたら、寝坊を反省して内心うろたえたものでもある。
 ただそうした腹時計記者の一方で事件の発生現場や災害現場などに本社機で派遣される場合に限っては、必ず左手首に時計をはめ飛び出していった。「空」や「現場」からの現地ルポとなると、それこそ締め切り時間とにらめっこしながら、時間と追いかけっこをしながらの原稿執筆となったからである。それと土石流の現場など被災地となると、いざ時間は─と調べる段になり時計が周りから消え時間の把握が極めて困難になるからである。いつだったか、奥飛騨の栃尾温泉郷が土石流の崩落に埋まったことがあったが、あの時など販売店の心遣いであてがわれた取材基地でローソクの明かりだけを頼りに鉛筆で被災現場の模様を書きなぐったが、腕時計が何よりの武器になったと記憶している。三重県の嬉野豪雨、長崎大水害ともにしかり、でそれこそ「腕時計」が私にとっての命綱となった。
 秒針があくことなく、コツコツと動き続ける時計は止められない。が、腹時計なら、その時々の気分次第、腹ひとつの思い切りで止めることだって出来るのだ。
 腹時計によって自らの時を止められる。これほど自在で気持ちよいものはない。しかし、地震とか列車転覆、火山の噴火とか思わぬ災害、事故によって止められる時はいただけない。
 一九四五年八月六日午前八時十五分。
 広島に人類初めての原爆が落とされたその日。広島では時という時が止まったが、これほどにむごい瞬間はなかった。ひと口に時とは言うが、そこには人間たちの喜びや悲しみが生き映しになっている、といえる。私は最近、つくづくそう思うのである。
 これからは、わが人生を自らの意思で年齢の加速を少しずつ緩めゆったりとしていこうと。自分勝手な考えかもしれないが、他人が十分かかって呼吸するところを、私は二十分かけて生きようと。そしたら、他人の十年が私の五年になる、というわけだ。半分ずつ若返っていこう、という魂胆である。
 これこそ、真の腹時計である。