「母の小走り」 真伏善人
たしか中学生になる前のことだ。家業であるせんべい屋の商品配達を手伝えと当たり前のように言われた。
母にはそれ以前に何度か配達に連れられて行ったことがあって、思えばその仕事をやらすための準備だったに違いない。母は一斗缶を多い時には四個を背にして、肩をゆすりながら歩幅を変えることなくゆっくりと歩いた。規則正しく、決して走ったり急な動作はとらず、人とすれ違うにしても距離のあるうちから徐々に右へ寄って行くのが常であった。
手伝いの配達はほとんどが担ぎ屋という、鉄道を利用する仲買への荷物で、当然時計を気にすることになる。不思議なものでいつの間にか母のような歩き方が身について、ほぼ思った通りに配達をすることができた。
それも一年を過ぎると担ぎ屋もそう甘くはなくなって、もう少し早くこいとか、割れたせんべいが何枚かあったとか、商品に苦情をつけられるとなんとも答えようがなく、やがて配達に嫌気がさしてくることになる。憂さ晴らしに帰る道を外れて町の本屋で漫画本を立ち読みするのだが、当然大人の週刊誌も気になってそっとページをめくったりもした。
そんな日々を続けながら学校に通うせいか、勉強などには身が入るはずもなく、おのずと悪い遊び仲間たちと遊ぶようになり悪事や悪戯を重ねることになってしまう。
はたして卒業したら高校へ進めるのかと考えてみるが、成績はまだしも家の商売では経済的に行けそうもない。案の定、父から進学断念を言い渡される。経済的に苦しいということはわかっていたし、それに加え家が手狭になった。たとえ無理をして高校に行かせても、この思春期の素行が先の三年でどう変わっていくのか、親としては不安のほうが大きかったのだろう。
春まだ浅い午後三時の汽車で、生まれ育った地を離れることになった。見送りの義姉と駅への道を歩いていると、なぜかもう家へは帰れないような気がした。いや、帰るものかという思いがはたらいたのかもしれない。
すぐあとで行くからと言っていた母がいつまで経ってもこない。普段から急くことを嫌う母はいつも時間に余裕を持って動いているのに一体どうしたのだ。それが構内に到着列車の案内が響き渡ると、計ったかのように小柄な母が小走りでくる。駅舎に着くころには、待合室から改札口へ集団就職と、それを見送る人波がぞろぞろと流れていた。小走りだったとはいえ、母の丸い顔は険しかった。肩で息をしながら何やら諭すように話しかけてくるが、周りの泣き声の騒々しさで言っていることが分からない。返す言葉がなく、ただうなずくと分かってくれたと思ったのか、母はこっくりとうなずき返した。
列車がホームを離れ、車内が嗚咽で充満しても涙などはみじんも湧かなかった。母の厳しい顔で、少年心にもこの先からは何があっても一人で生きていかなければならないという覚悟が涙腺を遮断してしまったのだろう。
それにしても母が発車間際にしかこれなかったのはどうしてだったのだろうか。長年歩いた道はどれほどの歩幅と速さで歩けば、何分で駅へ着くことぐらいは足が覚えているはずなのだ。何か急なことができてしまったのだろうか。それとも父に行かなくてもいいと言われ、戸惑っていたのか。あるいは行くとは言ったものの、はなから行くつもりはなかったのが、心の中のにわかな風に動いたのか。や、ひょっとすると、愚図で泣き虫の息子と待合室で時間を持つのが辛くてとどまっていたのかも。あの急くことの嫌う母を小走りにさせたのは、たぶんそのうちのどれかだと思うのだが…。
もう母は空のはるか彼方へ行っている。いつか小走りで追いついて、あの小走りの訳を問うてみたい。