「声は強し」 伊神権太
声は文字に勝る、と思うことがしばしばある。なぜか。字は嘘をかけるが声はそのままそのトーンや周りの雰囲気でその人の時々の喜怒哀楽から、健康状態までが伝わってしまうからだ。
たとえ繕ってみたところで声を聞けば微妙な、その時の相手の心理までが顔をのぞかせる、といってよい。事実「電話をするよりもメールにしておいた方が、ここは無難だ。こちらの心理を読み取られかねない」。こう、思ったときなど私は、あえて電話をやめメールでこちらの気持ちを伝えることにしている。「声」を聴かれたら、おしまいだからだ。声は正直なもので、ましてや怒っていたりしていたら相手に失礼に当たるばかりか、自分のその時の心情をいとも簡単に見透かされてしまう。声とは、そういう正直ものだ。
そして何につけ、声を発するほどエネルギーがいることはない。これぞ、という時はやはり電話か直接対面して話をせざるをえない。だから電話してたまたま出ず、留守電に声を託したときなど、すぐに電話をかけなおしてくれる人には誠意が感じられ、こちらも出来るだけ早く電話をかけ直す。声は、その時の抑揚だけで心理ばかりか、体調までも分かる。一度発すれば消えてしまう。瞬間の音といえるだけに、話をする場合も逆に聞くときも真剣にならざるをえない。また重要なことが「声」によって伝達されることは多い。
これが頼みごとであれ何であれ、直接お会いして話をするとなると、一大事だ。企業が、よく面接試験を重視するのもこうした観点で人を選ぶのが目的だけに、理解できる。会って、それぞれの思いを話すとなると、もっともっと大変な労力とエネルギーが必要だ。
かつて、愛知県下の地方都市で病院に勤めていた警察幹部の妻が入院出産費を着服し業務上横領で逮捕されるという信じられない事件があった。あの時、私は半年ほどの間、足を棒にあれやこれやと調べ尽くし、横領の事実を突き止めたうえ逮捕を確信して夫に自己当たりしたことがある。妻は一見し、とても素敵な女性で男心をくすぐる魔性があった。
「妻がそんな犯罪に手を染めるはずがない。それ以上は動かないでほしい」というその幹部に私は「でしたら、私は今この瞬間から、あなたの奥さまのことを調べることを止めます。取材からも、すべて手を引かせていただく。その代わり大変失礼ですが、奥さまが逮捕されるという事実が分かりましたら、誰よりも先に私に電話してくださいませんか」とお願いしたことがある。
数日後、新聞社の電話がなった。受話器に出ると、電話の主はくだんの警察幹部だった。「申し訳ありません。伊神さん。妻はあなたのおっしゃる通りで許されない犯罪に手を染めていました。私の不徳のいたすところで申し訳ありませんでした」と約束を守ってくれた。男性は、涙声で私も思わず「ありがとう」というのが、やっとだった。最寄りの警察署広報官から記者クラブの加盟各社に「発表があります」と伝えてきたのは、その直後だった。
後日、この警察官から「妻が保釈中なので、そろってお詫びを申し上げたい」とある場所から電話が入りお会いした。「妻には魔がさしたとしか思われません。今後は懺悔の気持ちで改心してゆきたい」という夫妻を前に、あの時ほど“罪を憎んで人を憎まず”とはこのことか、と思ったことはない。
直接会って話をすることの大切さを思うとき、私には日ごろは、たとえ、だみ声でも時として日本刀にもなる、とつくづく思うのである。声はほかに、趣味の端唄や都々逸を歌う時にも出さなければならない。私が好んで唄う台詞♪どうした拍子か あなたという人 憎うて憎うてたまらないほど好きなのよーも、字面で書くよりも「声した方が」よほど情緒があろうというものである。声は、その人にしかない宝刀でもある。大切にしたい。