「巡って巡って」 平子純
少なくとも人類の見える範囲ではハッスル望遠鏡のおかげで宇宙の八割以上が見えるという。以外と小さいものに感じてしまうが、とうてい人間の行きつく先ではない。
宇宙の外にもう一つ二つ四つと葡萄のように宇宙が連なっていたとしたら、かっての僧侶のように無尽蔵としか言う方がない。
そこで悟りを入れる、在自在、あるものは初めからあるんだ、人はそれを認めざるを得ないし、その人生の中でなにがあろうと生きていくしかない。サルトルも影響を受けたんだろう、実在主義者の多くは在自在、つまりetre ete etreの中でやろうとした。サルトルは、これからはアジア・アフリカの時代だと言って、貢献した。彼の予感は百年後、的中した。ただ彼の理想のアジアアフリカの姿は欧米のような経済至上主義ではなかったはずだ。グローバルリズムがすべてを破壊し、アジアの多くは経済工業化に走った。
しかし、もう限界に近いだろう、地球自身が崩れかけているのだから。
宮澤賢治は「星巡り」の中で何を追っていたのだろう。彼自身も科学者だ、ロマンティックに星の巡りばかりを追っていたわけじゃないだろう。貧しい東北の農村の姿、彼は詩人ばかりでなく宗教家であり、農業改革の人だったのだ。
難しい話をしてしまった。
身近な「巡る」話をしよう。人間、年を重ねると自分が生まれた百年以上のことが分かってくる。私の生まれた頃には江戸生まれの人がいた。その人が生まれてから百五十年は経っているだろう。その間、何世代の人が巡ったことだろう。そして私の命がまだあるとして、二百年近い歴史を人は経験することになる。実に七~八世代の情景を得るわけだ。しかし人は余程の名家でないと血代前の祖先の名前など知らない。考えてみれば淋しいものだ。
縄文時代から考えたって、人生二十年で入れ替わるとして、わずか何百世代しか経っていない。人類はすべてにおいて新しい。それが地球を壊し続けている。
いつまで人類が、地球上に続くことやら。
最近この数年、特に戦争の臭いがしてきた。多分、何年か、何十年か後には大戦争が起きるだろう。アメリカは、無人の兵器の開発に余念がないが、そんなことで極地戦にはいいが、大戦争には無理だろう。
我が小国日本は、アメリカに追従する他はない。一度、大戦争に負けると何かが起こらない限り属国支配のままだ。世は巡る、いつかアメリカがもっと強国に敗れて日本が真に開放される以外ないのかも。
とりとめのない話しになってしまった。「巡る」いろんな巡るがあるだろう。星の巡り、宇宙の巡り、人の巡り、等々、その巡りの中で人は出会ったり、別れたり、結婚したり、子供を生んだり、そうして子孫を継げていくのだ。
六十才半ば近くになると、当然この世にいない人の方が多い。最近、子供の頃を思い出してしょうがない。ああ、あんな人もいた、こんな人もいた。残念なことに、私を持ち上げてくれた人の多くはほとんど六十才前後で亡くなってしまった。私の人生設計も五十六才だった。それ以後は、余分の余分、子供達の結婚、孫達の出産がなかったらどうなっていたやら。しかし、孫が出来たことで少なくとも遺伝子を残すことが出来た。それがいいことか悪いことか分らないが、「巡る」という大義の上ではいいんじゃないかと思っている。
巡って巡ってやって来る。今の年になるとよくその意味が分かる。私は母方の父親に似ているとよく言われた。母が三才の時、亡くなってしまったが、あの世で会えるだろうか。
「大宇宙の毛細血管」 山の杜伊吹
若い頃は女優のようと言われていた母も、とうとう年金を貰う歳になった。 「あんたまだ白髪ないの。私なんて、30くらいからあったわよ」と聞かれるが、幸い頭髪の衰えだけは、まだなかった。
ところが先日、息子が「お母さん、白髪があるね」と言うのである。
まさか!! 嘘でしょう、いったいどこに? びっくり仰天して確認すると、前髪の分け目に、まぎれもなく白い髪が1本。いつの間に・・・。綿密に確認すると、2本あった。すべての頭髪が白髪になりそうな気がする程のショック。 自宅で白髪染めに悪戦苦闘していた母の姿が目に浮かぶ。見えない後ろの方が上手く染まらない。気がつくとすぐに根元が白くなってくる。美容院では、オシャレ染めではなくて、白髪染めで、とオーダーしなければならない屈辱。どうすればいいのか、この2本。切るのか、抜くのか、2本だけ染めるのか。これから坂道を転がり落ちるように、髪の毛がどんどん白髪になってしまうのか。やがて、アンダーヘアまでも白髪になるだろう。その序章に過ぎない。
原因を自分なりに分析する。1年前の引っ越しに伴う精神的肉体的ストレスは、半端なものではなかった。いや2年前の出産、以来休みなく続く育児か。最近仕事を辞めて、次の会社も退職して、いまの会社も辞めると言うオットの責任か。もちろん、自分も老いている・・・気分が落ち込んだ。
最近、中山道のとある宿場町に行った。
その日は大雪が降り、行くのをためらったが、出掛けた。古い建物を探訪していると、ボランティアガイドのおじさんが詳しく説明をしてくれる。どこかで見た事のある、鋭いまなざし。しかし誰だか思い出せない。 帰り際に思い切って名札を見て、あぁ山神先生だと思った。高校2年生の時の国語の教師である。あの頃は痩せていた先生も、全体的に少し貫禄がついている。
私は、毎日辞めたいと思いながら学校に通う、暗い顔をしていた生徒だった。つまらない授業、戦前のような校則。いまだったら、引きこもっていただろう。
小学生の頃から国語の成績だけは良かった。テスト勉強していかなくても、クラスで上位の点がとれた。だから、真面目に勉強しない。授業中、当てられた子に答えを教えてよく叱られたっけ。ある日、いつも勉強などしていかないのに、教科書を読んでからテストに臨んだ。100点であった。私が100点を取ったのは生涯でこの時だけだったと思う。その時の教師が山神先生で、いつも厳しい顔をしているのに、「俺のテストで100点をとったのは、お前が初めてだ」と褒めて、握手を求めてくれたのである。
一瞬でこのようなことを思い出し、「私、教え子です」と声をかけた。そういえば何年か前に、なにかの文学賞を受賞して、地元の広報に載っていた。私の事は覚えがないと言うが、その話をすると、頭髪は白くなったけど当時のままの鋭い目光で「もう一度、勝負に出るつもりでいます」と力強く言った。
隣の家のご主人は、毎日きっかり同じ時刻に家を出る。晴れの日は自転車で、雨の日や、雪の日はバイクに乗って。坂を下って行くその後ろ姿を見ていると、まるで、地球を流れる血液の一部のようだ。隣のご主人が出発しないと、地球も世界も動きを止めてしまうんじゃないだろうか。オットが仕事を辞めた時、我が家の血の巡りも止まってしまった。有給消化で毎日家にいるオット、朝起きない、どんどん元気がなくなっていく。詰まった血管を流さなくてはならないと思った。
地球には自浄作用があり、異常気象は、汚れてしまった地球を自らが治しているという。近年、この星に住む人間が滞り、経済も、人も、固まってしまった。地球を動かす生命体として一人ひとりが動く、時には素直に流されることも大切かも知れない。私が高校時代引きこもっていたら、国語100点はなかった。大雪が降ったからと宿場町に出掛けるのをやめていたら、先生に会う事もなかった。
お昼寝をしている長女の寝顔を見ながら、以前から温めていた、資格を取ろうか、という思いが巡る。彼女は薄目を開けたまま、唇はチュッチュッチュッと音を出している。もうじき3歳になろうというのに、赤ちゃんの頃のおっぱいを吸っていた感覚がまだ残っているのだ。その寝顔は私にあまり似ていない気がする。とうに亡くなった、主人の母親似なのかも知れない。
見た事のないお義母さん、あなたの血は、ここに脈々と流れています。
「奇跡の日々」 伊神権太
巡り会い、という言葉がある。人生の大半、その人の浮き沈みは、この四文字によって決まる。そんな気がする。妻との出会いだってそうだ。一つ歯車が違っていたら、今ごろは、他の女性とまったく別のわが子たちと暮らしていただろう。まさに、人生は紙一重。一瞬の運命に流される。人々は紙一重、奇跡の流れの中で生きているのである。
私自身も半世紀以上に及ぶわが人生劇場のなかで、巡りあった人々は数え知れない。学生時代に恋い焦がれた仏文科女子大生から志摩の海女さん、横笛のお師匠さんまで。ホンの一瞬の時間差の中でなぜか知り合い、以降、友人関係を築いてきたが、そんな中でも互いに忘れられない人となると限られる。ここではこれまでに出会った、多くの方々の中から特に印象深い人物、それもごくごく一部の女性に絞って記憶の糸をたぐってみたい。
まず新聞記者としての初任地。松本支局時代に出会ったのがミハルと多美子さん。ミハルとは市内のモルモン教の教会で知り合った。松本はモルモン教の聖地・米国ソルトレーク市と姉妹都市だったこともあり英会話の練習にと教会を訪れ、知り合った。不思議なことにミハルが妹と生年月日が同じだったことから親近感を覚え、夜の市内を取材用オートバイの後部座席に乗せ、しばしばぶっ飛ばしたものだ。
そして多美子との付き合いは当時、松本を拠点に同人雑誌活動が繰り広げられていた文芸同人誌「屋上」の仲間として、だった。彼女はお酒が強く同い年でもあり、よく女鳥羽川河畔や安曇野の飲み屋で待ち合わせ、ふたりだけで盃を交わした仲である。
次の任地、三重県志摩半島。ここでは真珠王・御木本幸吉さんの血を引く女子大生に、岐阜では踊りの名取と警察署の電話交換手、小牧を含む社会部時代は桃花台に住む女性から錦のママ、能登時代はミス和倉温泉、着物着付師、八尾の女性、大垣では出版社に勤める大学の後輩…と、いずれも取材を通しての運命的ともいえる出会いばかりだった。
とはいえ、これら付き合いは皆、時の流れと共に消え、どの方とも、爽やかな一時的な関係に終わった。失礼したことも多々ある。皆さん、この先、もし再会することにでもなれば互いに心から懐かしく思う間柄であることだけは間違いない。仕事柄、絶えず動き通しで一つ所に留まっていることなぞ、あり得なかったせいもあってか、幸いドロドロした関係にはならなかった。
そんななか、今もって強烈な印象となって私の脳裏に残っているのが岐阜時代に取材でたまたま知り合い、あのころ根尾の淡墨桜の保存に情熱を注がれていた作家の宇野千代さん、そして能登半島で新聞販売業一筋に生きた女傑販売店主笹谷輝子さんのご両人である。二人ともこの世にはいない。でも、ふたりにお会い出来たことで私は千代さんから樹齢千五百年の老樹・淡墨桜をいたわる【心】を、テルさんからも♪能登はやさしや土までも、の言葉どおり読者を大切にする【優しさ】といったようなものを教えられたのである。
長い人生航路のなかでは、このほかにも、女流書家、日本画家、華道家元、中国琵琶の奏者、作家、エッセイスト、ソムリエスト、劇団員、料亭や居酒屋の女将、ドラファン仲間…と、それこそ各界の方々と、わいわいガヤガヤと楽しい人生を過ごし多くを教えられてきた。共通するのは互いの立場を尊重する姿勢、信頼感だったような気がしてならない。
人間。考えてみれば毎日初めての方とすれ違って歩いている、未知の人との出会いの繰り返しだ。そこには当然ながら恋も、愛も、幸せも、悲しみだってある。人生は楽しい半面、無慈悲で冷たい。最近少しだけ齢を重ねたせいか、それでも、そんな巡り会いに期待している。今日は、いや明日はどんな方と会えるのか。これすべて奇跡の巡り合わせ、〈見えない神の手〉の仕業と思う。さて、次はどんな人が目の前に現れるのか。楽しみだ。
「古伊万里」 牧すすむ
我が家の玄関のゲタ箱の上に、ミニチュアの象の置き物が二十数こ並んでいる。色も形も素材もそれぞれに異り、大きさも三㎝から十㎝位と様々。然しどれもかわいい表情をしていて、仕事から疲れて帰る私をいつも優しく迎え入れてくれる。実に愛すべき彼等である。
だが、これだけの数なので当然一度に揃えたわけではない。数年前、ある雑貨屋さんの棚の片隅にあるのを目にして、思い付きで買ったのが始まりだった。家に帰って机の上に置いてみると愛嬌があってなかなかいい。以来、コレクションという程でもないが、いろんな所で見掛ける度に二つづつ買い続け、こんな数になってしまった。
二つづつというのは、同じ形の物が一つではなんとなくかわいそうな気がして、そんな理由から。ただ、雌雄の別は分からないが。
そんなこんなで次第に机の上が狭くなり、やむなく彼等に玄関という新天地へ移住して頂いた。お蔭で花を飾るスペースが少くなったと妻から小言を言われながらも、体を張って(?)今日も彼等の生活圏を死守している私、これからもまだまだここの住人は増えそうな気配である。
そういえば、この中の六つは去年の夏に娘の嫁ぎ先のイギリスへ行った時、優しいムコ殿がアンティーク好きの私と妻のために、と近くの町で開かれているマーケットへ連れて行ってくれた折り、購入したものだ。年に一度だけ開かれるというそのマーケット会場は驚く程の広さで、出店と人出の多さはハンパではなかった。イギリスならではの骨董品がどの店にも溢れる程に並び、珍しさでドキドキする私達はまるで昔の〝おのぼりさん〟のようであった。
案の定、すぐに娘達とはぐれてしまったけれど、暫くして背後からムコ殿の大きな声がした。
「オトーサン。コッチへキテクダサーイ!」
人込みを掻き分けて進むと、なんと、そこにあったのは古い大正琴。イギリスの地で大正琴? いぶかりながら近くへ寄って見ても、それはまぎれもなく大正琴だった。然し、私がいつも使っている物とはどこか違う。ラベルにも「made in England」とある。イギリス製であった。
聞くところによると、大正琴が作られた百年前の頃、盛んに海外に輸出された歴史があるという。そしてその後はそれぞれの国に定着し、アレンジをされていったと聞く。これもその一つなのだろう。店主に古さを尋ねたが、残念ながら分からないとのことだった。然し、これがこの旅行で私自身への最高のお土産になったことは言うまでもない。
話しがズレてしまったので本筋にー。
私と妻は一日で回り切れないマーケットに未練が残り、娘に笑われながらも翌日又出掛けて行った。が、ムコ殿は仕事があるので私達二人でのショッピング。あれこれ見て回る内に一つの店の前に白い象のミニチュアがいくつかあるのを発見した。大きさも様々。
飛び付きたい程欲しくなったが値段が分からない。とりあえず一番小さいのを指差して〝ハウ、マッチ?〟と聞いたところ五ポンドとの返事。じゃあ二つ買おうと思いその旨を告げると、なんと六つで五ポンドでいいという。驚きながらも結局そこにある大小六つの象を持ち帰ることになった。
ところで娘がイギリスへ嫁いで早や十年近くになり、孫も二人出来た。年に一、二度の往き来だが世界が近くなったと実感する。そんななか、前にムコ殿のおばあちゃんから古伊万里の茶碗を頂いた。イギリスの方から日本の物を頂くとは思ってもいなかったのだが、彼女が若い頃に母親から貰った物だという。いわば大切な形見である。
彼女の話しによると、昔、彼女の父親が日本を訪れ大阪の医者と親交を持ち、その時に撮ったという着物姿で椅子に掛けている父の写真を大事そうに見せてくれた。そして、「やっぱり日本に縁があったんだね。」と言いながら巡り合わせの不思議をかみしめるように優しい眼差しを娘に向けた。ことし九十三歳になるおばあちゃんはまだまだお元気である。
それにしても頂いた古伊万里のその価値の程は分からないが、長い年月を経て再び日本に戻って来たことにも巡り合わせの不思議さを感じはしないだろうか。
今私の手の中にある美しい古伊万里。我が家の宝として末永く大切にしていきたい、と、そう思う。
「佐智子と増美」 眞鍋京子
舞台は東日本大震災の被災地。東北地方の、とある町。
増美と佐智子は高校二年生。小学校から同じ級であるというのは珍しい。二人共勉強もよく出来、よい意味で競い合う仲だった。
増美の父も佐智子の父も同じ会社で経理の担当を長年していた。二人共人望が篤く、仕事を任せきるには、他に任せられる人がないとまで言われている程であった。その佐智子の父に突然、海外派遣の命令が下った。最近は海外派遣は珍しくないが佐智子の父の業績から考えると、すぐには後が考えられない。
佐智子の父より佐智子の方が戸惑った。
小学校より高校二年生まで親友として〝御神酒徳利〟として学び暮らしてきた無二の親友と離れることが今、現実の目の前に現れて来ている。
佐智子の父は単身赴任としてスウェーデンへ旅立って行った。今まで住んでいた家も空け放され他の人が住むようになった。佐智子は母と三部屋の狭い所へ移った。増美とも電車を乗りついで行かなければならないので自然、足が遠のく。
級も三年生からは変わった。しばらくぶりで二人は喫茶店へ入った。二人の元気な様子にほっとする。
「どうしてたのよ」
「やっぱり二人でいた時よかったわねえ。何をしてもいつも手につかないのよ」
増美に励まされて佐智子は家に向かった。
早春の寒い風が頬をなぐるように吹いていく。東日本大震災の爪跡をあちこちに残している。狭い掘立小屋から甲高いリズムの音が聞こえてくる。
「皆さん、皆さん。今日が最終の演奏会です。入場された人のお金はみんな東北大震災に遭われた方に差しあげます。一人でも御協力ください。お願いいたします」
若い女学生が呼び声をあげていた。
列を連ねて次々と入っていく。
増美もその列に入っていく。
「有難うございます」
一カ月後。佐智子は夜空の星を仰いであてもなく歩いている。
あれから、増美との音信は途絶えたままだ。佐智子とは音沙汰もないまま一カ月以上になる。掘立小屋での音楽会も少し女学生らしき後ろ姿を見たが、から振りに終わった。
一方の増美。昼間は、たんぼの畔道を探してみたが、犬猫一匹も見当たらない。また寒夜の夜がやってきた。佐智子の事を思ったら勉強どころではない。退学しても佐智子を思ってやりたい。
ある日。終電車が入ってくるアナウンスの声が聞こえてくる。増美は急いでホームに向かった。列車の後部があいた途端にドアーから降りて来たのは、間がいもなく佐智子であった。
「あっ」
声がのどにつまって出ない。
「佐智子ではないか」
「逃げなくてもいいよ。長い間お疲れだったねぇ。いまはもう何も言わなくてもいいのよ」
「よく巡って帰って来てくれたよ」
増美は巡り会えた嬉しさだけが体内をかけ巡ってくる。
プラットホームから降りて来た乗客は二、三人であった。
佐智子と増美は明かりも暗くなったベンチに腰かけた。
佐智子の頬から涙が伝わってくるのが微かにほの暗い蛍光燈を伝わってくる。
「よかった。よかった」
やや、気持を取りなおした増美は、佐智子の頬に抱きつき熱い頬ずりをした。
「今晩の事、忘れないよ」
佐智子と増美の契りは、この巡り会いによって増々深くなって来た。
夜も明け、二人の事を寿ぐように朝日は燦々と照りつけていた。